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謎解き島田、写楽 閉じた国の幻(下) [島田荘司]

* 010000 はじめに
壮大な構想と迷路のような複雑な筋で読者を幻惑し、最後に感動の結末を与える島田荘司さんの「謎解き島田」を提供する。中身はいわゆるネタばれに溢れてる。本作品を未読の方にはすすめられない。

* 020000 江戸編 II、蔦屋の目論見
** 020100 孔雀茶屋、あたらしい試み
*** 020101 水茶屋評判、歌麿三美人画、新茶屋の趣向
金網の前の長椅子。蔦屋重三郎がいう。孔雀茶屋はどう。びっくりと百川子興。この香煎がいい香り。水茶屋もこれくらいでなくちゃ。万事茶でなくちゃ。婆さんの給仕だけではと京屋伝蔵(山東京伝)。看板美人の水茶屋もよい趣向。すぐあきると蔦屋。浅草の随身門の難波屋。黒山の人集り。100文、200文。やっとあえる。おきたはそんな娘。派手だ。難波屋の紋。あかい前垂れ。最近のはやりに。娘もやってくる。歌麿がかいた。それで高慢になったよう。100文、200文では無理、一朱。にっこり1両。こんな天狗に誰がした。自分か。歌麿に3美人をかかせたから。いやならいくな。皐月に孔雀。粹。子興はかよったか。

水茶屋の娘の顔で下す腹。歌麿も高慢に。よそにゆく。鶴屋かと京伝。否。鶴屋とは手をうった。わるい男でない。歌麿はかいてくれる。でもほかにも。岩戸屋、村田屋、江崎屋、出口屋、伊勢金、丸文、伏善、河童、山伝。大丈夫。能天気。去年、歌撰恋之部をかいた。心配無用。そうか。絵師は板元によわい。度量がひろいね。当然。天下の蔦屋。この孔雀はどこからもってきたかと京伝。不知、あたる水茶屋にはいい趣向が。それは何。あたるか。上方からも。で、何。自分、蔦屋以外思いつかないもの。何。京伝がいいう。蔦屋茶屋かな。そこに爺さんが狭山茶を。

*** 020102 蔦屋茶屋の企画、世界をみた発想を
どんな。大名屋敷みたいな御殿門。そこに蔦。題して「蔦の唐丸」。あたるかと蔦屋。然り。上方から。くる。蔦の木が10本。蔦十か。否。では、どんな。駄洒落は駄目。自分で考えよ。では、こんなの。評判となった耕書堂の錦絵をよしずにはる。歌麿、子興。それに団子。否。何故。新奇性無し。ではそこに自分たちがひ かえる。絵や狂歌本の署名。あたる。然り、だがそれは書画会、毎日茶屋にひかえるか。朝から晩まで。無理。毎日書画会。あきる。花魁。否、品がない。では、どう。頭がかたい。かなあ。こんな鳥小屋みたいなところで考えてる。然り、だがあるか。まあ。何。島。へっと子興。ここ、江戸、何。井の中の蛙か。司馬江漢の世界図を見たか。見たらわかる。ちっぽけな中洲。世界から見ると。そうか。そう。で、何が。たとえば唐天竺に。狒狒。何。こんなめずらしいものを金網にいれて見せる。うれる。上方、薩摩、陸奥からも。冥土の土産にみせるという。成程。あたる。どうやってつかまえる。それがちょっと問題。然り、異人との交易は御法度。天竺行きの船はない。でもない。まず唐いり。次に天竺。へええ、一緒にゆくか。否。自分も体調不良。唐天竺のほうから江戸に出張ってこないかと蔦屋。

* 030000 ふたたび警告
この後に、ネタばれの内容がつづく。本作品を未読の方に閲覧をすすめない。

写楽 閉じた国の幻〈下〉 (新潮文庫)

写楽 閉じた国の幻〈下〉 (新潮文庫)

  • 作者: 島田 荘司
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2013/01/28
  • メディア: 文庫



* 040000 江戸編 II(続)、蔦屋の目論見
** 040100 孔雀茶屋、新人育成、浮世絵の新企画
*** 040101 本櫓の休業、役者絵の衰微、控え櫓の隆盛
本業が心配でないかと京伝。何が。三代目瀬川菊之丞にお咎め。生活が華美。ああ、千両役者、減給処分も。 休座前の本櫓三座、座元にうるさい倹約のお達し。然り、寛政元年(1789)のお達し。麻布をきた幸四郎、蝦蔵を見るか。歌舞伎にならない。同感。町衆の楽しみをうばうと子興。そもそもお上に金なし。庶民が金をもつ。これがゆるせない。既存の秩序がまもれない。然り、三座は不入り不況。休業。前代未聞の珍事。これ役で者絵が駄目。ということ。なら美人画。遊女絵。ところが吉原が丸焼け。今は仮宅。歌麿が鶴屋でかいた。仮宅夜景遊君之図を見たかと京伝。でも控え櫓三座がある。ちょっと評判。然り。江戸はあたらしもの好き。まあ。それに本櫓三座がこけたのは役者の給金の高騰。あとはたびたびの出火。控え櫓三座は倹約令さまさま。へえ、蔦屋がお上の肩もつか。否。実情。蔦屋が印籠をはずし、そこからだした球をみせた。何。

*** 040102 地球の地図、次世代の絵師、育成、売り出し
地球。お上はこの中のさらにちいさな中。だけみてる。だから世の中にまわる金が目には。1000両。みみっちい。然り、みみっちい。それから団蔵の早変わり。役者の数制限。だから一人何役も。然り。これに拍手喝采。他愛ない。だが江江戸っ子はすきと蔦屋。だが役者絵は元気ない。否、それは役者絵の大御所がいなくなったせい。勝川春章か。然り。跡継ぎの絵師が。然り。でも跡継ぎになりそうなの。誰。豊国。そう、弱冠26歳。どう。まあ。それだけ、何がたりない。まあ。まだ泉市から、市川門之助、市川八百蔵と中山富三郎、市川八百蔵の3枚。判断は時期尚早。蔦屋の眼力はどうした。団子がでてきた。

蔦屋がいう。泉市は二流。そだてられないだろう。今の評判はよい。正月興行だから。黄表紙の挿し画をずっとやっていた。ぼちぼち一枚絵でうりだす。本気なら。正月の 新春興行、三月興行、十一月の顔見世興行をかかせる。成程。そう、六月の夏興行は最悪、大物はでない。だからここはとばしてよい。成程。だから豊国は今うけてる。どうして蔦屋がやらない。駒がない。控え櫓揃い踏みの新規性、正月興行。これで豊国はうけてる。だがもう一歩ふみこむか。ずっと黄表紙をかいてたのは。ないことはない。春朗か。もっとも勝川派から破門。へっ。師匠、兄弟子の真似をしない。だからだろう。で、豊国。まだまだ。引き抜かないか。いらない。春朗と豊国では。春朗が上。本当か。本人の精進次第でもあるが。春朗でゆくか。否。歌麿。ふうん、何をかかせる。役者絵も。ほう、本人も。否。美人画だろう。何でもは無理か。かける。だが需要が美人画。当面はこれで。

*** 040103 出版の窮状、次の手は
で、春朗か。駄目。皐月の興行は埋め草。11月まって勝負。のんびりしてないか。なったら歌麿がかくのか。まだ不明。今、仕掛けの時。では。役者絵がふるわない。すごい役者がいないから。まあ。今はむずかしい。ふうん。でも春朗はそんな大物か。然り。歌麿とならぶ。酒によってるか。否。でも歌麿は天下一。然り、今は。でも今は大変なご時世。倹約、芝居が駄目、大物役者いない。吉原丸焼け。遊女絵も駄目。歌麿はよその板元に。洒落本は発禁つづき。どうする。そんなこと、いってない。じゃあ何を。その根っこの部分。お上に金がない。なら頭をつかって金を。どうつかう。だから根付。自分の腰のあたりをたたいた。

** 040200 孔雀茶屋、海外、ダチョウの理屈、現状打破、謎の絵
*** 040201 地球をみる、お上の締めつけ、林子平の発禁、貿易も
根付。海のむかこう。でもそういった林子平は海国兵談で発禁。それから三国通覧図説、北からオロシアがせめてくる。だからこっちも気をつけろといってる。よんだのか。否、すぐ発禁。版木も没収。海のむこでこういう。ダチョウの理屈。何。これは鳥。不知。鶏よりおおきい。でかい。地面をはしるだけ。つよい獣におそわれる。にげきれない。すると砂の中に頭。まわりを見ない。おそろしい現実をはないと思いこむ。これが今のお上。成程。

お上のいたい所。そんな現実はない。あるというな。それで林子平は仙台藩蟄居。去年死亡。いってることはただしい。日本は大海の小島。オランダ、オロシア、その他の国もいる。撃退はお上に。無理、種子島しか。だったら仲良く商売。無理、獣相手だ。、わからない。あってみなければ。いってることが矛盾と蔦屋に。どこで。オロシアが蝦夷地でせめてると林子平は。否。何。オロシアは商売。 今のところは。だが紀州の難破漂流の大黒屋光太夫。蝦夷地までおくりとどけた。それで恩をうって商売にとの魂胆。然り。で、何がわるい。正式の国の使節。こっちにも利益。抜け荷は御法度。昔からのきまり。それはこっちの都合。相手は不知。みとめられれば抜け荷でない。

*** 040202 鎖国の破綻、お上の無策
昔からきまってるのをかえろ。時世がちがう。へえ、どんな。とおくの オロシア、唐天竺から江戸まで船がくる。こんなご時世。たいした鉄砲もなしにおいかえす。せめられたたどうする。ほっといてくれといってるだけ。でも交易はしたくない。ない。新式の鉄砲は。大筒は。いらない。でもせめてくるかも。林子平はいってた。獣みたいな連中とは。言葉も。こっちもあっちの言葉で。みょうちきりんな言葉をか。オランダとやってる。交易を。蘭学、暦、解体新書も。オランダ正月はいらない。信じない。11月に正月がくるような暦。閏月がある今の暦がわるい。何が。閏6月があったとする。6月が二回。6月のおわり頃にあつくなる。去年の6月と感じがちがう。そんなもの。この程度で我儘は。今の倹約はお上に金がないから。商売すれば。それより学問、今は蘭学第一。これで世の中が進歩。あたらしい薬草もどんどん。病気がなおる。 オロシアにも天竺にもいろんな学問が。勉強すれば。世の中はもっとよくなる。蘭癖だ。そういったらお上とおなじ。自分と自分の学問に自信をもて。もってるが、それと別。林子平の言はただしい。自腹で出版。それで謹慎。自分のところに話しがくればなあ。だしたか。駄目でも何か。だったら手鎖。そうかな。でもお上とおなじこと いってたら。

*** 040203 自分も何か、春朗から絵、驚愕
自分たちには何も。でも手はある。林子平は六無斎と。この洒落精神。意味わかるか。ううん、銭がない、米がない。然り、親なし、妻なし、子なし、板木なし、金なし、死にたくもなし。成程、蔦屋は皆あり。林子平は知恵はあったが、お上にはない。自分は六有斎。何か世の中のためにやらねば。立ちあがる。勘定をはらう。春朗がやってきた。蔦屋がきく。手にもってるのは。めずらしい硬紙。そこにかかれたものに視線を。驚愕。誰がかいたのか。

* 050000 現代編 III、写楽の謎の特徴、オランダ人の江戸参府
** 050100 お茶の水、中華料理店、北斎、写楽の謎、歌舞伎に素人
*** 050101 写楽の謎を考える
お茶の水。坂をくだる。中華料理店、漢陽楼。食卓に教授。ここは日本留学中の周恩来がよくきたといった。彼がすきな料理がメニューに。清燉獅子頭。上海の家庭料理。ビールで乾杯。元気か。義父と妻にあってきた。裁判のこと。然り。鍋がはこばれてきた。

周恩来のことを話すと教授。1917年9月に来日。何のため。留学。第一次世界大戦で近代化した日本の実力をまなぶため。ほう。挫折。天津の南開学校を特等の成績で卒業。一高の受験。失敗。ああ、当時は大正デモクラシー。神田の街に下宿。怠け癖を反省。2年後離日だが。大正7年、明大と予備校にかよいながら、よくきたのがこの店。当時、ここは中国人留学生の街。よく首相にまでと佐藤。それは革命のおかげ。賢明な政治家と米国のキッシンジャーが賞賛。1971年に日中国交正常化を実現。後の成功の陰にはここの挫折。成程。帰国後に関東大震災。大勢の中国人も帰国。自分もこの挫折を飛躍にかえられるかなと佐藤。この団子はうまいと教授。謎。写楽の問題も謎がおおきい。しかしだから芯が美味と教授。然り、おおきすぎる謎。何が謎なのかもわからなくなる。成程、ではそれがつかめると謎がとけると教授。かも、しかし大変。

*** 050102 謎がひろがる、無名の写楽に蔦屋の厚遇
何が謎か。蔦屋グループの誰もが口外しない。文献に写楽が存在した痕跡がない。蔦屋が人気絶頂の歌麿にくらべられる待遇を無名の写楽におこなった。この他に謎は。あり。今回掛川や名古屋で取材。皆んなが気づいてないおおきな謎。北斎。何故北斎はヘンミー、シーボルトのような国賓に絵をかいてくれと、たのまれたか。黄表紙でこつこつ挿し画。働きをみとめられ板元が一枚絵を。写楽にはこんな下住みの時代がない。ほう。ない。いきなり黒雲母摺りの豪華版。さらに28枚のもの大量のシリーズ絵を一挙に。空前絶後の事件。現在、写楽も北斎にくれべられる世界的な有名画家。だから気がつかないのかも。ふうん。

*** 050103 無名の役者を、名場面と無関係
ほかに。たくさん。役者絵は千両役者から、あるいは名場面から順にかかれる。写楽の第一期28枚の大首絵。これにはそんな配慮がまったくない。たとえば都座の花菖蒲文禄曽我。写楽は11枚。主役の石井源蔵、敵役の藤川水右衛門は1枚ずつ。あとの9枚はさして重要でない役者の、重要でない場面ばかり。だからどの場面か特定がむずかしい。へえ。都座の絵以外も。無名の役者がたくさん。どういうこと。とても変なこというが、写楽は芝居を理解してなかった。かも。

** 050200 お茶の水、謎だらけ、無名の絵師、破格の待遇、非常識な題材選び、時期による変化
*** 050201 真相にたどりつかない理由、実は
そんな。馬鹿なこと。ですか。写楽は並外れて歌舞伎に精通と教授。それが逆立ちした論理。この違和感は写楽の研究者はかならず感じたこと。ところが日本を代表する画家、だから歌舞伎にふかい造詣という安全な論理に安住。逆立ち。目をつむって、お世辞の嘘を。はあ。日本人によくある言動。では実は。歌舞伎のことをしらない素人絵師か。然り、ある種の風刺画。ととれる。大首絵は。一流絵師はもっと行儀がよい。もっと保守的にふるまって特権的地位をえてる。何への風刺。外国人の目にもそううつる。世界的絵師という思い込み。裸の王様、皆んな子どもの感性で。ふけて頬がたれてる爺さんが。顔にいっぱい白粉をぬってる。それが晴れ着をきてわかい女を。おかしい。立役。大見得切り。おかしな動作。歌舞伎をしらない者が見たらおかしい。とんでもない喜劇的な世界。

*** 050202 版画家の目、蔦屋の眼力
教授は唖然。それが写楽の大首絵。そう、あり得る解釈。むしろ自然。否定説こそ無理筋。えらい先生方。しかめつらしい顔で。一流絵師。役者個人への肉薄。歌舞伎へのふかい愛。とかいう。嘘、誰もが王様は裸だといえない。自分は歌舞伎はそんなものと。でもちがう。と教授。ユーモアから。面白がる。からかったふうの絵を。かいてただけ。充分にあり得るものと佐藤。まあ、とんでもない意見。大美術館の学芸員なら即刻クビ。

でもさすが池田満寿夫氏、版画家は素人だと。彼は絵描きでも。その気持がわかる。内部のモチベーションの質が。大首絵をかいた衝動はけっしてシリアスでない。ユーモア。でも風刺画は当時の江戸に。ない、当時の封建体制では。本ならいくらか。それは当時の江戸ではゆるされない蛮行。でしょう。蔦屋があれほどほれたのは、その反逆児童的な態度。でないか。洒落本の人だから。その下地はあった。だか写楽の流儀にぴったり。すっかりうたれた。あたらしい潮流。ジャンルの誕生と。とんでもないのはむしろ蔦屋。

そういう写楽の絵を全部だした。間違いなく当時では随一の新人売り出し。うれるはずもなく。ううん。うれないと以前いったかも。でも蔦屋だ。そこそこうれた。何故。世界各地にのこる作品の残存枚数。研究者の諏訪春雄氏によれば一期、28作品は各作品平均12.5枚のこってる。それで。歌麿の作品で一点につき平均10枚以下。このようにおおい。二期についは大判は6.1枚、細判は2.6枚。三期は2枚程度。四期は1枚ほど。たくさんのこってるのは、たくさんすられた。然り、そうでしょう。大事にされた。大判は細判より大事にされた。幕末、明治期に増版された事情も考慮する必要。

*** 050203 一期と二期以降の違い、大首絵の消滅の謎、画風の変化
大首絵が沢山すられた。あきらか。そこであらたな謎。何故、初期を沢山すって、二期以降をすらなかった。うれる大判でなく細判にしたか。うれると見こまれたのに。蔦屋の判断の根拠は。成程。圧力が。かも、役者筋、座元筋。醜女はやめてくれ。然り。またもう一つ。何。四期。都座上演の江戸砂子慶曽我(えどすなごきちれいそが)の芝居。写楽が細判に。舞台を見ずにかいたらしい。ほう。

もう一つ、桐座の芝居、再魁槑曽我(にどのかけかついろそが)でも舞台を見ないでかいた。何故、素人だったから。否。すこぶる変にきこえるが、二期以降は歌舞伎をしっている人にみえる。江戸砂子慶曽我の舞台を見ないでかけるから。成程、人がかわったみたいに。然り。大首絵の時のような変な表情がない。顔、仕草もおとなしく、対象は皆んなスター。重要な役どころ。芝居の内容もわかってる。どういうこと。どうしてみなかった。それはいろいろと考えられる。しかし材料不足でちゃんとした推理は。座元の圧力、さからう蔦屋。観劇拒否に。ああ。役者も拒否。みれないから見立て。役者絵はみるものか。みないことも。下絵のかきかたに、見立てと中見。中見が実際にみたもの。どちらがいい。

*** 050204 中見、見立ての違い、役者との関係が変化
優劣無し。だが新作は当然中見が必要。成程、中見だと芝居がおわってからとなる。然り。それでは芝居の宣伝にならない。座元は協力。役の扮装した役者を絵師にみせる。公演前に絵をうってもらう。芝居関係の協力が必須。二期にあやまりはないか。然り、ない。そこに事情が。特に都座の絵。都伝内の口上図といわれるもの。ここで楽屋頭取の篠塚浦右衛門が巻紙をもって口上をのべる姿までかいてる。ほとんんどタイアップ。だからあやまりがない。

そう。からかい。一転、座元と密着、タイアップ。スタンスの変更。デフォルメもきえる。罪滅ぼし、言葉どおりの中見はほとんどないものか。大変なロングランなら。それほど例はないだろう。でも写楽一期は、芝居側で用意した中見でないと思う。何故。まず間違いがない。次に、この大首絵。彫りと摺り簡略。版木の数は歌麿の半分。役者の衣裳。透かしとかこった柄はかかれてない。おおくは単色。あっさりした柄。これが写楽絵を大胆で強烈な個性をもった絵にした。これ制作をいそいだ結果と思う。

*** 050205 二期以降の見立ての増加、謎、何故5月興行から
芝居をやってるうちに売り出し。あるいは、おわってもすぐに。それはよくあることか。あまりないと。だから、その意味でも特殊。謎。それはおいて、二期以降の見立て。ちがいすぎる。よいことでない。むしろはずかしいこと。通常は密接な連携でやる。でないと芝居ファンにみはなされる。錦絵は報道でも。四期にむかうにつれ、だんだん販売数をおとした。そうだとしたら疎遠になったとの事情も。芝居関係の非協力。おそらく。

その後、相撲絵がふえてゆく。そっちにゆくしか。一期が爆発的にうれたが、役者の反発。然り、大衆に一時、面白がられた。たしかに個性的。浮世絵類考にあまりうれなかったという記述が。然り、それも不思議。140数枚を一挙に10カ月で。うれなければやるはずない。はい。なのに当時の記録に写楽という絵師の名前がない。京伝、馬琴の本にもでない。絵師としての扱い。してないのか。

さらに、役者絵というのは正月興行か11月の顔見世興行か。このどっちかで勝負。歌舞伎は年中やってるのでは。まあ。だが歌舞伎の一年は11月の顔見世から。新春でもりあがる。次に3月、4月までゆく。5月にはいると熱気がさめる。一座の大立者はでないことがおおい。とこれが写楽の大々的売り出しが5月興行から。何故か。写楽に力があったから。あったなら、なおさら正月にぶっつけたらいい。あるいは半年まって顔見世に。そのほうがもっと。でもうれた。これは純粋に絵の力。然り。でも徐々におちていった。考え方もかわってゆく。これも謎。写楽は謎だらけ。

** 050300 お茶の水、源内説、十郎兵衛説、あたらしい方法で追及を
*** 050301 源内説の総括、諸説の検討へ
人魚のため息。店側は彩子、幸子。教授が佐藤と常世田にいう。写楽・源内説に、何か発見は。まあ、相良に誰かが潜伏。田沼の家臣の家臣の蔵に。それからオランダ商館長を殺害しようと思いつめてた。源内かもと常世田。弟子筋かもと佐藤。そこでビールとお茶。源内かどうかはともかく、誰か、別人説を発見しなくては。それもいそいで。どうしていそぐのか。いそがなければ。それに社運が。上司から厳命。教授のため息。浮世絵同人研究会の本がまもなく出版へ。事態を予想して用意しなくては。では今日は、これまでにでてる別人説の検討を。

何かあたらしい発見もと佐藤。常世田が史料のコピーを。簡単なものからと佐藤。ではクルトの斎藤十郎兵衛説から。これは定説中の定説。松本清張氏、内田千鶴子氏、横川毅一郎氏、小田仁三郎氏も。大勢が。文献主義から。そこで文献は浮世絵類考。この比重がおおきい。これは 初期的。現在はもっと文献が。もっと視野をひろげたら。然り、佐藤さんからすでに何度か。諸家人名江戸方角分(しょかじんめいえどほうがくわけ)は。江戸八丁堀の地蔵橋。写楽斎という絵師が。本八丁堀辺之絵図にその地蔵橋のたもとに斎藤十郎兵衛の息子か。与右ヱ門の家。この写楽斎が父にあたる斎藤十郎兵衛かと教授。

*** 050302 十郎兵衛説の検討、もうひとつの地蔵橋
然り。諸家人名江戸方角分。1818年。本八丁堀辺絵図。1854年。写楽斎は与右ヱ門の父親の代だろうと佐藤。然り、ところが諸家人名江戸方角分をよくみたら、写楽斎は故人。と判明。1818年には故人。ところで築地から越谷に移転した法光寺の過去帳。斎藤十郎兵衛は1820年に死亡と判明。だから別人と常世田。クルト説への疑問はほかにも。その過去帳から斎藤十郎兵衛はまだ地蔵橋にひっこしてない。と判明。はい。またクルトは斎藤十郎兵衛は後年名前をかえ、歌舞伎堂艶鏡、浮世絵師に。ところがこれは狂言作者の二代目中村重助と判明。斎藤十郎兵衛と歌舞伎堂艶鏡は別人とほぼ確定。然り、ところが最近、地蔵橋が二つあったことが判明。もう一つはと佐藤。

*** 050303 神田堀にも地蔵橋、十郎兵衛説はなし
神田堀にかかってた。日本橋本銀町と大伝馬町塩町の間。紺屋町2丁目と3丁目の間にわたるもの。大伝馬町塩町。そう蔦屋の耕書堂のすぐちかく。諸家人名江戸方角分の瀬川富三郎はこの地蔵橋を八丁堀のと間違えた。という。へえ、そこに写楽がいたという補強の証拠は。無しと常世田。それではちょっと変と佐藤。八丁堀地蔵橋のすんでたのを神田地蔵橋にと間違う。こちらは蔦屋との地縁、ちかくの芝居町などから自然。ありそう。さらに八丁堀に間違える。あるか。蔦屋の天敵みたいな奉行所の役人の居住地。それに瀬川富三郎は歌舞伎役者。蔦屋の事情もわかってる。土地勘もある。然り、芝居関係者の縄張り。代々、地蔵橋にすんでる人間にかんする知識はあるだろう。然り、写楽は誰と。見当がつくだろう。これは斎藤十郎兵衛説の補強には。八丁堀地蔵橋だから斎藤十郎兵衛。能役者説はそこから出発。住所が八丁堀からはなれたらすなわち斎藤十郎兵衛説の否定。ではこれはこのくらいで。ちなみに能役者説を否定する材料はおおいから。

*** 050304 追及方法の反省
ではさらに別人説。おおい。同時代で目だつ人は候補者。それは駄目。そもそも絵を比較すべき。この具体的証拠がない。なら誰でも、天皇でも将軍でも。それは無責任さ故。絵の細部まで比較。似た箇所、技法を発見、指摘する。これで二人の画家を同一人物と。この前提で議論をと佐藤。では斎藤十郎兵衛説はもう。佐藤さんと教授。気持はわかるが、その玄人発想もまた追及を隘路に。現状は。素人は時の才人を片端から、玄人は絵ばかり見て、それでにっちもさっちも。もっと別の発想が。

というと。それ一種のトリックでは。えっ、何の。事実隠蔽の。へえ。プロとして追及したい。わかるが、専門家がおちいりやすい迷宮。素人を眼下におく。写楽は200年も前の社会現象。材料がかぎられてる。どういう意味。推論でない材料が結論をみちびく。という意味。細部の比較検討、おなじ人間がかいたと万人が納得できる結論を。多数の証拠を。精緻な議論を。素人ではない玄人の。然り。では結論は北斎か歌麿しか。どうしてととまどう佐藤。そう思ってませんか。たしかに。その発想なら、かならず有名絵師と。理由は、有名なら。沢山の作品。沢山でないと説得力がかける。成程。絵がのこってない人は自動的に論外。埒外。

*** 050305 あたらしい方法で追及を
で、当然に歌麿、北斎に。成程。で、次は豊国。鳥居清政、十返舎一九、司馬江漢、かあ。作品の数順。でも絵を見ない素人発想は駄目。然り、たんなる思いつきでは。どうしたら。別の論理が。たとえ ば。不知。見つかればそれが答。今から皆んなでさがしましょうと教授。従来とは全然角度のちがうもの。200年以上知恵をしぼってきたものに。大学教授、作家、芸術家、綺羅星のごとき人たちがやってきたこと。

** 050400 お茶の水、別人候補の否定、一期、二期、二人いた絵師、歌麿が写楽を嫌悪、蔦屋への反感、歌麿の写楽説
*** 050401 円山応挙は、一期と二期以降、下絵、しきうつし
ではまず円山応挙からと常世田。ちがうと佐藤。典型的な繊細さの画家。写楽の大首絵はもっとごつごつした乱暴さを背後に。ごつごつした乱暴さと常世田。そんな意見ははじめて。3代目沢村宗十郎の名古屋山三は優雅の極地。否、一期大首絵の話し。それは二期。市川八百蔵の不破伴左衛門は傑作。しかし一期とちがうよさ。すうっと連続する優雅でたおやかな線。これにたいし3代目大谷鬼次の奴江戸兵衛はちがう。ずっとこっちにとびだす。えっ、というと一期と二期以降は。ちがう。別物。一期と二期以降は別のグループ。かいた絵師もちがう。然り、そう考えざるを得ない。常世田が唖然。いろいろな角度から。ちがう。歌舞伎の理解もちがう。アメリカン・フットボールとゴルフ。でも、奴江戸兵衛も、おなじ一期の市川男女蔵の奴一平も線自体はすっとしてる。連続、一本、優雅な曲線一本。ごつごつしてるか。否、それはしきうつした者。それがもってる線。常世田が仰天。じゃあ写楽は下絵をかいた者とそれをしきうつした者が。二人、かつ別人。然り、だから「写つす楽しみ」といってる。

*** 050402 複数いた、写楽比定の基準
では、3代目沢村宗十郎の名古屋山三も市川八百蔵の不破伴左衛門も。否、大首絵だけ。二期以降はちがう。これは従来のかき方。つまり下絵をかいて、それを彫師に。常世田は放心。佐藤さん、本当ですか。ふうん。誰か。誰と誰。不明、あとで考えよう。そう考えないと。ふむ。池田満寿夫氏の考えとちかい。一期と二期以降は作者がちがうと。いったよう。そう。ただ合作だ。でないか。写楽は二人。歌舞伎役者の中村此蔵と十返舎一九と佐藤。では池田満寿夫氏の考え。どう思うと常世田。いい線。さすがと。では中村此蔵・写楽説は。まって、円山応挙をかたづけてから。円山応挙ほ一流だが上方の人。江戸にきたことがない。それに寛政6年にはもう病気。7年に死亡。彼はちがう。然り。写楽に比定する絵師の条件と常世田。何。それは。

1) 超一流の絵師。
2) 歌舞伎に精通。
3) 蔦屋にしたしい。さらに、
4) エネルギッシュ。以上4つ。これが最低条件であること。

*** 050403 常識的、凡庸な発想を否定
これ。不文律化。円山応挙は、1)の超一流に合致。2)の歌舞伎。しってる。3)の蔦屋は不明だがない。だろうと常世田。超一流は世界三大肖像画家の一人から。歌舞伎に精通は役者の内面にせまったすぐれた絵をかいた。歌舞伎をふかく愛してるから。蔦屋との関係は、いきなり大首絵28枚のシリーズ全部、しかも黒雲母摺りでだした。前代未聞のことをやったから。エネルギッシュは10カ月で140数枚を一挙にかいたから。ということと佐藤。然り、そのとおり。常識の範疇。教授がいう。もっとも、とも。しかし常識は往々にして落とし穴と。不文律にも疑いの目を。それでは有名絵師しか適合せず。力があって無名であった人かも。ということは。佐藤がいう。自分の凡人を棚にあげていうが、それは凡人の発想。後だしジャンケン。200年前の状況を今の状況をもって説明してるだけ。真面目な発想。こんな発想しか。だから依然として謎のまま。教授の言葉のようにこれで隘路におちいるのみ。つまり前提はちがうと。

*** 050404 基準を批判、解説
一期と二期以降をまずわける。一期については然り。歌舞伎についてしらない。見得切り、目が真ん中による。トウのたったおじさんが白粉をぬる。あかい晴れ着きて、わかい娘を演じる。こういう約束ごとに無知。びっくりした。だからあれがかけた。あれとは。当時の江戸になかった風刺画。幕末には歌川国芳の釘絵もでたが。お縄になることだった。だから蔦屋がおどろいた。

蔦屋としたしかったという発想。彼のまれな眼力、実行力を全然理解してない。人並の発想になじんだ凡人の発想。ある才能の評価は人間関係の親疎と別。人間関係とは別に写楽の才能を見ぬいた。では一流絵師という条件は。無用。一流とは凡人が政治的にうけいれたこと。何らかの理由で無名のままにおわる。そんな才能もあり得る。だって絵が100年すすんでたから。100年まつ必要があった。100年おくれた江戸の愛好家たちも価値がわかったということ。

お前は自分が立場をうしなったから、そんなことをいう。そんな声があるだろう。逆にたかい地位をもつ論者自身の立場の反映でもと佐藤。ほう、エネルギッシュというのは。

*** 050405 写楽複数説を説明、池田満寿夫説を否定
写楽は一人でない。だったら簡単。分担できる。140数枚も。別にエネルギッシュである必要がない。10ヶ月ある。エネルギッシュはむしろ蔦屋。それは蔦屋子飼いの絵師たちでか。然り、2日に1枚。簡単。子飼いなら歌舞伎に精通。舞台みないでもかける連中。だから 二期以降は精通。一期はしらない。だからかける絵。然り。ふうん、新説だ。

つまり蔦屋工房説。だから 二期以降なら皆んながいってることはほぼ当り。だから日本人もよくわかる。大首絵というのはそれだけ突出。わからない。今も。然り、ない。池田満寿夫氏はかなりわかってる。で、その中村此蔵は。不賛成。まず、絵描きはかならず自画像。これは西洋のこと。日本の浮世絵ではとりあえず、あたらない。北斎、老人になってから。歌麿、袖でかくしてる。とりあえずという意味は。それは群像の中にかくれてるとか。東海道五十三次の広重。十返舎一九も。らしい。ほかに理由。いろいろ。中村此蔵のかいた下絵、絵をかいたとの記録がのこってないが、大首絵がヒットしたのに下積みみのままか。どうして絵師に転向しなかった。成程、役者から絵師に転向した人はいるか。鳥居清元。ふうん、中村此蔵は蔦屋がだしてくれなかった。金銭トラブルという説。でも江戸には板元が沢山。どこかだしてくれる。そのままきえてゆくか。生涯に一度も写楽だと告白してない。また蔦屋工房も口外しない。不合理。

*** 050406 一期はいなくなった、 二期以降は共同で
二期以降。中村此蔵に大首絵をかかせる。蔦屋はと教授。然り。ヒットしたから当然の選択だが。 二期以降に細判にした。何故うれる大首絵をやめた。これも謎。どう思うか。いなくなったからでしょう。当人が江戸からいなくなった。じゃあ、よびもどせば。できなかった。どうして。不明。なのに刊行をやめなかった。子飼いの絵師を動員してまで。その理由は。

やはりうれたから。板元として一期では、やめれない。世の中の待望ある。それとも、やめるつもり。都座がタイアップをもちかけた。ヒットして評判の写楽。民衆の注目を計算。蔦屋は経営上のメリットを考えた。がめつい。経営者は何にしてもつぶれたらおわり。では中村此蔵は候補失格。池田満寿夫氏は大首絵にかかれた中村此蔵の肩にかけてる手拭いの絵柄から、十返舎一九がこれをかいたといってる。絵柄が暗号になってると。あり得る。当時すでに蔦屋に寄宿してた十返舎一九。彼がこんないたずらをしこんだ。一期のしきうつしの着物部分を手つだって。着物部分。然り。いそいだから。一期での十返舎一九の担当はそのくらいだったろう。

*** 050407 一期の写楽の正体は
十返舎一九が量産プロジェクトに動員されたのはあくまでも 二期以降と。然り。蔦屋組はめぼしい仕事をしてない時期。ほとんど作品を発表してない。一九は当時は駆け出し。歌麿、京伝の大物がそろって空白の時期。北斎だけは相撲絵や黄表紙を刊行。超売れっ子の歌麿も。これは異常。然り、正確には北斎。寛政6年11月に二代目「中村のしほ」の役者絵。ただこれに極印(きわめいん)がない。改革で寛政2年から検閲としての極印がおされる。それがない。ということは。それ以前のもの。つまりこの時期に役者絵はない。成程。のみならず、以降北斎はきっぱり役者絵をすてた。90まで生存。なのにまったくない。これも謎。ほう。それは後で。別人説をもっと。目だつところ。司馬江漢。栄松斎長喜、谷文晁。鳥居清政。斎藤十郎兵衛は絵がないので除外。おなじ阿波藩の蒔絵師、飯塚桃葉、歌川豊国、十返舎一九、山東京伝。そんなとこか。まずこれらの人たち、どうして死ぬまでに告白をしなかたのか。という点で失格。栄松斎長喜にいたっては写楽は阿波の十郎兵衛と。浮世絵類考の関係者がきいた。絶好の機会。なのに告白しなかった。まあ。いってもお咎めがない。だから否。

*** 050408 二期以降は比較できる、一期はないが、あえてなら歌麿
それから全員、絵の質がちがう。大首絵と全然ちがう。だが二期以降なら。あり得る。歌麿、北斎は。両者ともにてない。一期はどんな絵師とも。つきつめれば写楽の謎はそれ。だから二分して論じる。自分の見解。衣裳の線が歌麿とにてる。大首絵の表情が歌川豊国とおなじ。これらは全部 二期以降のこと。別人説はおしなべて一期大首絵との比較をさけてる。そして自説を展開。一期だけ別人がかいた。これおかしい。まず二期以降の比較で勝負。次に一期の絵。それが戦略。皆んなさけてるか。然り、あえていえば。有望なのはないか。一つだけ。別人説で一期大首絵に真っ向から対峙し論じたもの。歌麿説。

** 050500 お茶の水、専門的に分析、歌麿の耳に類似
*** 050501 耳に注目、6本の線で後世、歌麿に類似
歌麿説、どういうこと教授。セレリアン・メソッド。何。19世紀後半、美術品の真贋鑑定に科学的・論理的手法を開発して医師が提唱したもの。彫刻、絵の場合。顔、衣裳、全体の構図、印象がちがっていても、手、爪、耳、鼻などの細部に着目。作家単位で共通する形態や手法があらわれる、という指摘。成程。作者が不明の彫刻作品。これを手指の爪などの細部に注目。これに作家の癖が無意識にでてくる。これらを分類整理。これにもとづいて美術品の作者を推定するというもの。成程。

写楽の絵に応用。おおくの研究家がこころみた。だが同時に危険も指摘されてる。どういうもの。木を見て森を見ないという。妄信して、たとえば耳ばかりに注目、たまたまにてただけ。という結果。また1枚、2枚だけで結論という危険。すると多数の作例が必要となる。自動的に作品のおおい作者に研究者の目がむかう。罠だらけ。写楽はまったくそう。またもっとおおきな罠。何。あとでいう。この分析法で監察する。すると写楽絵にはあきらかな法則性が。どんな。3つある。まず耳。写楽絵の耳には一貫したかき方が発見された。輪郭線もふくめかならず5本の線でかかれる。クリフトン・カーフという研究者による発見。

*** 050502 耳、花、落款に類似
それは一期から四期まで一貫かと教授。否、一期から三期の前半まで。以降はくずれる。どうして。全部おなじと画集を見て常世田。顔がちがっても耳はおなじか。様式美というか。顔の描写にかんしてある作法を確立。そのうえで、これを固持、かくという手法の絵師は当時には皆無。ただ一人をのぞいて。誰。歌麿。

かならず6本。輪郭線をいれて。ああ。歌麿は徹底した様式美の人。独善の人と常世田。然り、そうときめたら頑としてまげない。写楽絵にもそれが。歌麿の流儀。ほかにいますか。否、豊国は3本だったり7本、京伝も3本だったり4本だったり。ふうん。歌麿か、では、

2つ目は。鼻。写楽の鼻は下側で1ケ所。かならず線がきれる。常世田がいう。成程、だがこれは一期から四期まで。これはもう絵をかくより、紋章上絵師みたいな感じ。一種の商標。歌麿の美人画はきれてない。写楽だけ。ふうん、

では3つ目は。写楽画という署名の「画」。一と田をつなぐ縦線。これがない。これも例外がない。そして歌麿もそう。えっ。否、正確には歌麿筆。だが初期にはこの書法。成程、写楽は歌麿の流儀をとってる。歌麿は独善の人。こうときめたらこれが一番うつくしいと信じてやまない人。然り、そして次第に排他的、傲慢に。それ以外のやり方を評価する業界人に。罵詈雑言も。

*** 050503 しきうつし、歌麿、自力絵師、しきうつしに怒り
彩子が口をだした。しきうつし。ああ、常世田がいう。寛政8年、五人美人愛嬌競(ごにんびじんあいきょうくらべ)。中にみえる手紙の文面。「人まねきらひ、しきうつしなし、自力画師歌麿が筆に御面ざしを認めもらひ申し参らせ候へば...」そう自賛の言葉。だんだん鼻がたかく。人気絶頂だったから。落款の上に「正銘」。これは本物だという意味。巷に歌麿の偽物が無数に。歌麿の絵ばかりを真似る。しきうつしなしとはと教授。意味深な言葉。ここからいえること。当時皆んなやってたと。他人の絵をしいてうつして、それから衣裳をかかえて、ちょっとアレンジして、自分のものと。それが横行してたと。だが自分はそんなことはしない。という歌麿の宣言。たぶん彼の絵が何度もしきうつされた。だから「正銘」には怒りが。あと、「あやしきかたちをどう」とか。ああ。そは寛政8年頃に鶴屋からだした錦織歌麿形新模様(にしきおりうたまろがたしんもよう)。この錦絵に歌麿がかいた言葉。まず「文読み」に。

「夫(そ)れ吾妻にしき絵は江都(こうと)の名産なり、然るを近世この葉画師専ら蟻のごとく出生し、只(ただ)紅藍の光沢をたのみに怪敷(あやしき)形を写して異国迄も其恥を伝うる事の歎かはしく美人画の実意を書いて世のこの葉どもに与(あずか)ることしかり」。

*** 050504 ずいぶん居丈高、異国にまで、板元に反感
威張ってる。然り。18世紀末の江戸の空気。写楽絵はこんな安心してすわりこんだような停滞の空気に蔦屋が風穴をあける。その覚醒の一矢だった。のだろう。成程、それなら100年またなくては。それにしても異国とは。鎖国中なのにと教授。日本の錦絵は当時の中国、朝鮮にかなり。成程。もっとあり。歌麿の豪語録。白うちかけ。

「また紅藍紫青の錦をまき紅粉にて不艶君を塗りかくせども唐絵の浅ましさにハ日追て五体の不具を顕(あらわ)し其の情愛をうしなふにおよぶ依(よっ)て予が筆料ハ鼻とともに高し千金の太夫ニくらぶれバ辻君ハ下直(げじき)なるものと思ひ安物を買こむ板元の鼻ひしげをしめす」。

誰、蔦屋のこと。かも。それは恩知らず。然り、それくらい思いあがったか。蔦屋のこととしたらよほど腹にすえかねたとも。でなければここまでは。成程、腹にすえかねること。何。不明。この刊行が寛政8年としたら、蔦屋はまだ存命。死んでからだしたとしてもちょっとね。

*** 050505 役者にたよらず日本の絵師の誇り、写楽現象に怒り
悪口はともかく、歌麿は写楽でないでしょうと彩子。否、そうともと教授。ここまで立腹。写楽との関係かも。それはヒントかもと佐藤。また歌麿の言。「芝居繁盛(はんじょう)なるが故に老若男女それぞれ贔屓の役者がある、此れをかきて名を弘むるは拙き業なり、我何ぞ俳優の余光を借らんや、我は何処までも日本絵師なる浮世絵一派を以て世に立たんと思ふ」。

ふうん。といことは役者の余光をかりない。役者絵をかかない。ということか。然り、浮世絵類考に、生涯役者絵を描かずしてと歌麿はいってるとある。ところが実はその後も役者絵を沢山。寛政10年(1798)から文化3年(1806)にかけて、近松の心中物、忠臣蔵の通しなど、かいて刊行。へえ、ではどういうこと。つまり、よほど頭にきた。そのうさ晴らしの発言でしょう。これは写楽現象の直後のことでは。だから立腹は写楽に関係。かもと佐藤。ほう、すごい。役者絵はかかない。歌麿の怒りが役者絵のこと。時期的にも照応する。なら写楽現象のことかもと教授。ううん、何のことかと常世田。

*** 050506 似づら絵、写楽絵への反感か
歌麿はまたいってる。悪癖を似せたる似つら絵、とかと彩子。然り、享和3年(1802)の桂川纈月見(かつらがわいもせのつきみ)の岩井粂三郎のお半と市川八百蔵の帯屋長右衛門の役者絵。これがかきこまれている。「予が画くお半長右衛門は、わるいくせをにせたる似づら絵にあらず、中車は美男の家なり、粂三郎は当時の娘がたなり、いづれ両人のうつくしき舞台かほとかはゆらしき風情とを画て誠に江戸役者の美なるをつづうらうらまでもしらせまほしく、いささか筆を述るのみ」。

ふうん。写楽絵にたいする不満、反発をいったようだがと教授。かも。役者の悪癖をことさらにとりあげ、にせてかいたもの。悪趣味と非難。のよう。五体の不具とまで。おだやかでない。黒目が真ん中によってる。変に力む。肩や体が変に。不具か。歌麿はすごいことを。これが写楽絵のこと。然り、歌麿の美意識の産物。醜いもの。愛する錦絵の世界に。割り込ませてという怒り。浮世絵師はこんなにくどくどとかくのかと常世田。否、歌麿だけ。でも蔦屋が出版した。それだけで怒りに。ならないのではと教授。というと。自分も手伝い。それへの憤り。とも。あんな醜悪なものを世におくりだした。嫌悪感。手伝いだけでなかったかもと佐藤。というと。写楽の絵は歌麿の絵では。すくなくとも大首絵は。

** 050600 お茶の水、歌麿説の真偽、その怒りの原因、唐画とは
*** 050601 歌麿は写楽と正反対、だが手がにてる
ちょっとまってと彩子。何。自分も写楽がすき。勉強も。歌麿説は比較的最近。然り。どんな絵師も無理をすれば写楽に。でも歌麿だけはと。それが常識だった。理由は、あまりにもちがいすぎ。かき方、画風。歌麿は美の様式を一生かけて追及。だから女の顔もおなじ。退屈、生気がない。人形。それが歌麿の美意識。一番かけはなれた二人。然り、同感と常世田。両極端。ああ、いいすぎでないかもと佐藤。

歌麿は静的、様式的。一番そう。写楽は動的、乱暴な絵描き。絶対にならないと常世田。わかる。版木の数もちがう。大首絵でも。写楽はあらい。歌麿、こまかい着物の柄、布越のしろい二の腕。奴一平。髪の毛の間に雲母がはいってない。頭の回りがしろい。真面目な歌麿があんな白人おなよ、みたいな女かかない。あんな鼻のおおきなバケモノ。然りと佐藤。だからすごい抵抗感と彩子。佐藤がいう。さっきモレリアン・メソッドは3つといったが。実はもう1つ。でもそれはそれほど明確でない。なのでいわなかった。何。手。歌麿の手によくにてる。それはおおきさも。

*** 050602 彫師により絵師の線がかくされる
成程、まずちいさい。線が優雅、たおやかに連続。手がふっくら。それは同時代の絵師とちがってるかと教授。否、それほど際立ってない。同時代の絵師。手と指はにてる。指先がまるい。深爪。マムシ指といわれる形。二人がにてる。いいすぎかも。じゃあ、それは問題外と常世田。しかし無視。抵抗感。よくにてる。その理由の一つ。彫師のせい。北斎が近頃は彫師が皆んな耳を流行の形にほる。自分のにはちがう彫師にたのむと板元に。つまり写楽は特殊な芸術。おおきな罠がある。この発言はここに関係。写楽は版画。肉筆画でない。版画には彫師、摺師の作業が。彼らが線をかえてるかも。成程。もしその彫師が大ベテランなら。そうということ。研究者なら当然しってる。でも意外なほどわすれてる。おおくの論文をよんだ感想。セレリアン・メソッドを適用。先の北斎の発言。写楽の耳。結局一人の彫師をさぐりあてる作業。かもしれない。彫師はそれほど立場がつよいのかと教授。摺師は板元に所属。彫師は版木屋として独立。もちろん勝手な作業でない。絵師と密接に連絡。

*** 050603 しきうつしの問題、歌麿がしきうつしか
こまかな指示。作業。でも絵師が指示せず、あるいは面倒で顔をださず。なら、自分のセンスにもとづき作業。さっき佐藤さんが、しきうつしといいった。然り。

版画の場合、その可能性も。これを無視できない。すると工程がふえてるかも。つまり、しきうつし の横行。然り、こういうインチキはわれわれの予想よりおおい。錦絵は芸術だ。そんな意識ない。このしきうつしの版画は結果的に複数の作家たちの共作に。たとえば豊国が歌麿の美人画をうつす。ここで顔だけをうつした。その下方の体はちょっと姿勢を変更。衣裳も。これは豊国と歌麿の合作。歌麿の意向と無関係にそうなる。成程。ついでに彫師が耳の線をかえた。これで彫師もその合作に参加。こんなことが自然に。これが江戸の錦絵。

特殊な芸術。そういう作業を関係者は知らず知らずのうちにトレーニング。だから割と自然にできてしまう。ちょっとと常世田。佐藤さんの発言。第一下絵→第二下絵→彫師→摺師。こういう工程か。然り、歌麿→豊国→彫師→摺師と。写楽の大首絵では第二下絵の段階に歌麿がはいっていたということかと常世田。然り。今まで説明した事柄。皆んな満足させる。これしかないと佐藤。驚。あり得ない。というかも。だが、だからこそ歌麿が激怒、罵詈雑言。

*** 050604 歌麿の怒の原因、下絵は誰から、外国への言及
醜悪な絵をしきうつし。させられた。だからあえて、しきうつしなし、自力絵師と宣言。沈黙、常世田がいう。どうして歌麿が同意。自分のポリシーをまげてまで。蔦屋の。然り、だから蔦屋に罵詈雑言。では安物とは。第一下絵だろう。安物とは。その下絵。どこから手に。誰がかいた。不明。だが下絵は大首絵。それ以外ない。でも、歌麿を介さず。直接下絵を彫師に。できない事情が。何。ですか。不明だが、蔦屋の判断。200年も前のこと。不明。ですかと教授。でも何も史料が。実は大阪市立中央図書館の画がヒントと思ってた。でも駄目。わからない。

教授がメモをみてた。無関係と教授。その方向は行き止まり。当然。無関係だから。だがヒントはある。と思う。今の佐藤さんの話しの中にですかと常世田。へっと佐藤。不明。気になること。あやしきかたちをしきうつしてとか。このとおりでないが、でもしきうつした。ちがいますかと教授。かも。「異国に迄其の恥を伝る事の歎かはしく」。そこで木の葉どもにおしえてやると。然り。この文脈、外国という発想がでるか。ちがう。国の内だけで充分。なのにどうして外国が。錦絵は中国、朝鮮に大量に。否、それほどは。ではどうして歌麿が。錦絵が欧米で人気は幕末以降。然り。でも外国といっても。おかしくない。

*** 050605 外国人絵師か、歌麿はしきうつし、させられた
歌麿は神経質でエキセントリックだから。どうか。「我は何処までも日本絵師なる浮世絵師」。浮世絵師は日本だけ外国には。わざわざ日本の絵師というか。歌舞伎役者の威光をかりないという。なのにいきなり国粋主義か。誰も外国の絵師でいけとは。ううん。そう。もう一つ。「紅粉にて不艶君を塗りかくせども唐絵の浅ましさにハ日追て五体の不具を顕(あらわ)し其の情愛をうしなふ」。はい。この唐絵とな何。ううん。中国の唐の絵か。これまでの定説か。否、そこまでつめたものは。問題になってない。ない。何故。研究者の皆さんはどう。中国・朝鮮の絵。かな。あさましき中国・朝鮮の絵。あるのか。春画かな。中国、あるいは国内。当時唐絵とよんでたか。否。どうしてここを問題に。言葉どおりよむ。不艶君。さっきでた白人おなよ、みたいな人。として。これがせいぜい紅や白粉ぬってかくしてるけど。不具の人みたい。そういう役者のわる癖をにせた、あさましいまでの唐絵。歌舞伎への情愛をうしなったような絵。それを自分はしきうつしさせられた。こういう意味。ううん。唐とは外国全般。当時は西洋骨董品も唐物と。然り。では外国の絵。それは役者のわる癖をとらえた、あさましいまでの絵。蔦屋は大衆には下直で充分と見くだして、気をひくためにのその安物をかいこんできた。自分は命じられてそれをしきうつし、させられた。憤懣やるかたない。こんな解釈が。佐藤は唖然。何ががうごきだした。

** 050700 お茶の水、写楽の由来、異国人、秘密の必要、江戸の外国人
*** 050701 歌麿の怒の理解、教授の指摘
部屋にもどった。教授の指摘はこれまでの専門、アマチュアをふくめ写楽研究家の意表をつくだろう。自分は錦織歌麿形新模様の小文、桂川纈月見の小文を1000回もよんだ。こんな問題意識をもたなかった。あやしきしき形をうつして。世の木の葉ども。五体の不具。板元の鼻ひしげ。わるくせをにせたる似づら絵。こうした戦闘的言葉に目をうばわれた。蔦屋への罵詈雑言。その思いあがり。忘恩。これらにとらわれ歌麿の心情を斟酌しなかった。これは200年も見おとしてた写楽問題解明のキーかもしれない。自分はそれをつかんだ。教授がおしえてくれた。

研究者の誰も気づかなかった。歌麿が時代の巨匠たる地位をえた。これは行儀よくふるまった。といこと。その男がどうしてこれまでの罵詈雑言。歌麿の絵師生命にもかかわる事情があった。と考えるべき。教授の斬新な指摘。自分たちが鎖国的発想にやられてた。たんなる修辞ととらえた。誰も世界地図を思いうかべない。そうでない。歌麿はくりかえしてる。素直によむ。歌麿は、なにが外国だ。外国の何がいい。自分は日本の絵師だ。それでたつのだ。といってる。寛政の江戸であまりにも日本的なこの巨匠がこの異様な言葉をはっしてる。何が彼におきたのか。乱暴な語彙を自分の絵にのこす。異国異国という。きわめて異例。これは未来永劫のこる。これが 写楽現象のこと。なら。その正体を解明できる。そのヒント。当事者の一人、当代一の絵師。200年後のわれわれにのこしてくれた。

*** 050702 歌丸のしきうつしがただしい理由、外国の絵が下絵、その画家は江戸にいた
その言葉を素直によむ。歌麿が蔦屋の命でしきうつす。そうなる。これは大首絵のみ。かいてる顔。歌麿のまるでちがう。このちがい はすさまじい。ところがその描線。歌麿。耳も。手指も。落款の画の特殊な書体。これも歌麿。なら大首絵の制作に関与してた。この方が無理がない。ということ。今、目にするもの。その前に下絵。それは歌麿のものでない。ということ。その下絵は、歌麿の言を信じて。異国のもの。という話し。出来上がりの版画が歌麿の線。それは歌麿がしきうつしてたから。

この考えは、自分の想像をこえる。しかし歌麿が自分の言葉でいってる。美術史家として多少自負をもつ自分の目もこれを裏づける。とんでもない顔つきの風刺画を優雅になぞりとって浮世絵に仕上げてる。ではその下絵とは。どんな絵。誰が。歌麿はあさましき唐絵と。下品な外国の絵と。ついでに安物。佐藤は西欧からの輸入画、つまり解体新書とか司馬江漢の地球全図のようなものかと。ぼんやり考えてた。だがあり得ない。画題が問題。カメラのない時代。だからこの画家は江戸にいる。直接見てかく。こんなものをかいた西洋画があるか。寛政6年5月にない。公演と同時に輸入される。はずもない。これはどういうことか。頭がいたい。考えた。

結論。唐画。つまりその外国絵をかいた外人画家。その時期に江戸にいた。そして三座の客席で見た舞台をかいた。鎖国下、あるか。ない。ひとまずおく。そんな外国人がいた。蔦屋がこの人物のかいた絵を手にした。だが何故。歌麿にしきうつさせた。蔦屋の判断は。不明。歌麿はすでに確立された有名画家。美学の人。歌舞伎に精通。ふかい愛情。画壇の最高峰。ここで北斎のことを考えておく。 二期以降の写楽プロジェクトに動員。すると立場をきづいていた歌麿とちがう。蔦屋にあからさまな不満。それよりは、だまって役者絵からとおざかる。二度ともどらず。歌舞伎への贖い。蔦屋への抗議。これはわかる。現代の目。世界的大画家。でも当時、歌麿などから嫌悪感。だからわれわれはピンとこない。これが発想を死角に。歌麿に共感できず。その言葉を理解しようとしなかった。

*** 050703 何故、歌麿か、蔦屋の判断
100年すすんだた大首絵は寛政の時点では醜怪、歌舞伎世界にたいして底意地のわるい、不実、夢がない、意味不明。歌麿も北斎も嫌悪、蔦屋に不信感を。そうか。紙がちがった。そう気づく。外国人画家なら、江戸の当時もあつい紙。ならばいったんうすい紙にしきうつさないと。裏返しに版木にはり、ぬらして繊維をこすりとる。彫師が小刀をふるう。これができない。だが、しきうつす作業を歌麿にさせたのは何故。唐画の中でも特殊な風刺画。一種の戯画。漫画。ならば原画の顔はさらにいかつくグロテスクだったのかも。そのような趣向の人物画に江戸者はなれてない。大衆の好みを熟知する蔦屋。このまま見せれない。庶民がもっともよろこぶ。もっともなじむ。腕のよい絵師を。それをしきうつしに動員。それが様式美の巨匠の歌麿。

*** 050704 結論、異国絵師、歌麿、蔦屋合作、隠し名写楽
歌麿の優美な描線。蔦屋は迫力の画調を優美なものに。そうしてもオリジナルのもつ風刺的な刺激、画面にとびだす大迫力。充分にのこる。そう考えた。蔦屋の計算はただしかった。異国絵師と日本の巨匠との合作。世紀の傑作はうまれた。それが一期大首絵。

苦境にあった蔦屋が何故、歌麿の絵を歌麿自身の名でださない。蔦屋はこの唐画にぞっこんほれていた。どうしても世にとうて反応を見たかった。人気に胡座をかいて大金を浪費。専横が目だつ役者ども。ひと泡を。なら大衆にうけなくては効果がうすい。うつさせて大首絵に。これに歌麿以上の腕は。歌麿は子飼い。自分なら彼を。蔦屋はできると。歌麿の線なら確実にうける。その他なら、しくじる危険が。そのくらいこの唐画は風変わりだった。突然ある考え。

写楽。この絵の作者には覆面をさせなくては。鎖国体制下。異国人が江戸にいたら大変。当人は捕縛、かかわった蔦屋も。耕書堂も。歌麿自身の筆とさせたら。無理。死んでもこのような怪異な絵の作者とならない。そこで隠し名だ。つけるなら「写楽」。これ。みつけた異様な唐画。それをうつす楽しみ。大首絵の由来はそれ。蔦屋はこうして写楽絵誕生の事情を隠し名。暗号化。すでに存在してる写楽斎という筆名の一部。人真似がきらいな蔦屋が採用した理由。この事情。つかわざるを得なかった。

*** 050705 蔦屋非難の事情、口外できない事情
経済的に窮地にあった蔦屋が歌麿の絵をつかわず、写楽画をつかった理由。こういうこと。さらに後日、歌麿には落款、正銘「歌麿筆」と美人画。蔦屋から名取酒六歌撰、藤棚下の美人、風俗浮世絵八景、吉原仁和嘉を出版。よくいわれるが寛政5年頃に歌麿は蔦屋とわかれ耕書堂をとびだした。わけでない。寛政6年の事情。絵筆をとる機会が1回、それがひきうつし。ではなかった。その出版は寛政8年も。蔦屋死亡の9年。この頃から歌麿の罵詈雑言がはじまってるよう。

当人も蔦屋も周辺の蔦屋工房出入りの者も、何故全員写楽の正体を口外しない。この謎の説明になる。惟一の正解か。さらに考えつづけた。また大声。初登山手習方帖。蔦屋組の十返舎一九の絵と文になる戯作本、寛政8年という。奴凧と東洲斎写楽画と落款のはいった、市川蝦蔵「暫(しばらく)」の凧、そして凧糸という3者間の会話。奴凧。「おいらもたこならきさまもたこ、合わせて二たこ三たこたこ。はて地口でもなんでもないことであったよなぁ」すると凧糸が「なんのことはねえ、こんぴらさまへ入ったどろぼうが金縛りというもんだ」にはさまざまな解釈。まず何故、凧同士の会話仕立てになってるか。韓国人の写楽研究家、李寧煕(いよんひ)氏が。一九こと重田貞一は、経歴は不詳。朝鮮通信使の通訳であった李命和(いみょんわぁ)と関西の宿泊施設の下女であった女性との間にうまれた可能性がたかい。おいらもたこなら、の「たこ」は他国人という言葉の頭の2字をしめす、掛詞であるとう。

*** 050706 一九の隠し絵の意味
もしこの説がただしかったら。奴凧が写楽凧に自分も他国人、きさまも他国人といってる。これをふまえる。異国までも恥云云、唐絵の浅ましさとか、われは日本絵師として云云、などの言はよく呼応する。これが写楽現象をちかくで見てた一九の見解。この暫の役者絵もしばしば議論に。写楽の絵になる暫の役者絵はこれまでのところ未発見。逸失かも。だが、写楽は外国人でしばらく江戸の街に存在。という暗喩かも。危険な事実を一九は絵にかたらせた。凧糸がかたる言葉。二つの凧を凧糸があやつる。これは蔦屋が他国人をつかって歌舞伎世界と役者絵出版との金銭的もたれあいに批判の矢をはなった。金比羅云云は、金比羅にはいるが犯罪者の隠語で受縛の意味だが、蔦屋自身が 二期以降も金もうけのため血道をあげてる。金縛りにあってるとの皮肉。またも声。東洲斎。この名も暗号。異国人が東の小島に滞在してかいた。つまり東の小島にて異国の絵師。その隠し名は、写す楽しみ。とけた。

三期から東洲斎がきえて写楽絵。画期的な下絵師が江戸からさった。律儀に蔦屋がしめしたもの。何とまあ。しかし所詮は虚構。寛政は文明開化にまだとおい。そんな時代に江戸。その中心の日本橋。その芝居町に。いるか。あっと。佐藤の脳裏に掛川の天然寺の境内。木立の緑がひらめいた。

** 050800 お茶の水、カフェ、オランダ商館員の江戸参府、1794年ははずれ、ヘンミーの死亡は1798年
*** 050801 常世田に調査を、すごいが、江戸参府があったか
翌朝の8時。常世田に連絡。すごいことに気づいた。説明をはじめた。ちょっとまってと常世田。お茶の水駅前のエクセルシォールで。店でまってるとあらわれた。説明をきいた常世田がいう。すごい。新発見。突拍子もない内容。だが筋に無理がない。これで謎は解明。否。オランダ商館員の江戸参府か。然り。写楽が江戸にあらわれた時と照合しないと。ううん。それは無理では。何故。うまく出来すぎてる。どうして。オランダ商館長一行の江戸参府は毎年でない。寛政6年が合致か。でも、きてるかも。とにかく調査。価値はある。

然り、でも源内説よりあわい可能性。たとえば朝鮮通信使。あれも15年おき。たしか。徳川300年に12回。それに朝鮮通信使もオランダ商館員も、行動はきびしく監視。勝手に街の歌舞伎の小屋に。見物なんて。それに5月。写楽の登場は。オランダ商館長の江戸参府は正月、新年祝賀行事。将軍謁見という。はあ。ずいぶんくわしい。5月じゃない。せいぜい春先。自分は大学で江戸期の外交史を。ほう。で、たしか寛政年間(1798~1801)に異国人が歌舞伎を観劇した。記録ない。オランダ人が大首絵の下絵をかいた。佐藤さんの主張。然り。ううん。きびしいスケジュール、監視。外国の賓客。公的な接待行事。

*** 050802 自説に不安
これが駄目なら、この説は不成立。すごい思いつきとは。でも小説的。現実はもうすこし地味。そんな夢みたいな発見が。200年も研究して。ふうむ。自分としてはもうすこし地味でいいと常世田。小市民的発想。それもあると佐藤が考える。彼としてはもうすこし有力な別人説を。それくらい。自分の出発もそう。だが偶然の積み重ねでここまで。でもこれは、ちょうどいいかも。編集部に連絡をと常世田。これから「さぼうる」で、三田村、Y女子大名誉教授に編集者の松井があうと。何。アジア外交史が専門。松井は日朝交流史の本をつくる。おそらく日蘭交流にも。同席は。そこで質問も可能。

*** 050803 参府の概要、史料の現状、頻度
三田村に常世田がきく。参府で江戸滞在中のオランダ人が歌舞伎をみることはできるか。何時頃。寛政。無理。記録、証拠では時代がくだる。ふうう。定宿の長崎屋。これはJR総武線新日本橋駅出口の。芝居町と目と鼻。時代がくだる。みたいというオランダ人の欲求も。江戸初期は狂言役者をオランダ人にみせた記録。これは役者を屋敷によんだもの。ほう、参府は何年に一度か。うむ、オランダ商館日記が一番の史料と。はあ。日本側にはすくない。その上、この日記はあちこち歯抜け。はあ。逸失。その江戸期全部。まだ翻訳は終了してない。松井にいわれてしらべたと、メモをもとに。

1633年以前はある。かなり。1834年から1842年いたる部分は逸失。その他も散逸が。で、のこってる日記はどこに。ハーグの国立中央文書館。成程。どのあたりがしりたい。1794年前後。ある。日本語に翻訳も。部分的な歯抜け。でも未訳の部分はオランダ人によんでもらうのは。困難。当時の飾り文字。当時のかたい表現。紙面は経年劣化。しかも、オランダ語だけかと常世田。この追及は経費、時間が。歓迎してない。そもそも江戸参府は何年おきとか、いえるのか。いえる。朝鮮通信使より多数。しかし諸説、毎年。から一年おき。ほう。オランダ側は毎年と。どうして。道中、日本各地をみて研究。これ以外の旅行は禁止。だからシーボルト。画家をやとって江戸まで。海女、団子屋の娘。物売り。欧州の日本研究はこれから。成程。だから毎年を。それでオランダ側がしぶってた。しかしついに5年ごと。受諾せざるを得なかった。

*** 050804 5年おきなら、合致せず
そうかいた史料がおおい。1790年、5年おき。という説。否、1788年にというものも。佐藤が考える。1790年なら、1795年、寛政6年をすぎる。1788年。1893年。とどかない。次は1798年。素通り。まて、1798年ならヘンミーが掛川で死んだ年と合致。この説がただしいのか。いずれにしても寛政6年に合致しない。

** 050900 長崎屋跡、教授と遭遇
*** 050901 長崎屋、耕書堂、芝居小屋
午後、日本橋江戸通り、総武線新日本橋駅の地下からの出口4番出口に。長崎屋がこの地点にあった。いくと工事中、封鎖。かって杉田玄白、平賀源内、前野良沢、桂川甫周、大槻玄沢、宇多川玄随、北斎、町衆が参集。ここに蔦屋の姿も。ユリウス・クルトもこのあたりの手書き地図を著書に。当時小伝馬通りと。東にいくと地下に馬喰町駅のある交差点手前。右折、蔦屋の耕書堂 。その手前、日比谷線小伝馬町駅があるあたり、右折。当時の芝居町、葺屋町、堺町。中村座、市村座。芝居町の東隣りが旧吉原。写楽の寛政時代は吉原は浅草。 写楽現象の舞台はすべてここ長崎屋から目と鼻の先。商館長などの高位者は登場報告、幕府系の訪問者の応対。しかし下位の若者はどうか。歌舞伎に無関心でいられたか。幕末から明治にかけ来日した報道画家の中に英国人ワーグマンがいる。日本人女性と結婚、本国に多数の絵をおくった。歌舞伎小屋の内部、観客、芝居茶屋と往来する様子。木戸芸者。これは今、中でおこなわれてる芝居の様子を役者の声色を真似ながら小屋の前で寸劇にしてみせる。芝居の初日はたいてい。

*** 050902 外国人の風刺画、教授に困難をうったえる
幕末、明治に活躍したワーグマンやビゴーについて承知。写楽の下絵をオランダ人がかいた。それほど突拍子もないとは。これをしってたから。頭でっかちのあの趣向は西洋人の政治戯画によくある。手のちいさな奴江戸兵衛。連想。三田村教授と会見のあと、考えた。奇妙なことに気づいた。シーボルトの江戸入り1826。彼の調査報告が欧州の日本学をおこした。1790年から5年ごと。1795、1800、1805、1810、1815、1820、1825。写楽もシーボルトも合致しない。では1793年から。1798、1803、1808、1813、1818、1823、1828。こちっらもシーボルトがはずれる。どう考えるか。

ここで三田村教授の発言。タイオワン事件。朱印船のトラブル。オランダ側の丁寧な対応に幕府が1633年から日蘭貿易を再開。出島にうつって、将軍に謁見を慣例化。謁見はオランダ側の希望。時期は4代将軍から新年参賀。ところが正月の江戸は火事がおおかった。幕府は1カ月ほど後方にずらす。2月、3月。謁見は2月、3月が恒例。天和3年(1683)、長崎屋の付近が火事、浅草の藤家に投宿も。以上、オランダ人の江戸参府の経緯。だからシーボルトも3月。これでは駄目。たとえ寛政6年の江戸参府が命中。歌舞伎の演目がちがう。不運。無理。みはなされた運命。電話。教授。こちらから連絡をしたかったといった。オランダ商館日記のことか。えっ。常世田から。佐藤さんはすごく興奮。でも今は意気消沈。どうして。オランダの江戸参府が寛政6年に命中しそうもない。すると、この説は破綻。江戸中期に異国人が江戸にいない。

*** 050903 教授のオランダ出張
あきらめるかと教授。然り、年だけでなく該当月も問題。大阪市立中央図書館の史料にもどるしかないかと。ふむ。今多忙か。然り。準備がある。準備。オランダに帰国。へっ、で、もどらない。否、エレベーターのことで学会出張。へえ、あれもオランダと共同開発。オランダ人が制作。日本人がそれをみがいた。佐藤は天の啓示と。ここから天の啓示を感じろということ。もしもし。はい。大丈夫か。あ、大丈夫。だが昨夜は徹夜。貧血気味。大丈夫。然り。今、どこに。神田。否。新日本橋駅のあたり。へっ。自分も日本橋あたり。はあ。ではそちらへ。開人の幻を。佐藤さんと教授。開人の幻がきえた。

** 051000 散策、三越、教授がオランダで資料を収集
*** 051001 教授と会話、長崎屋の絵に北斎の暗示が
ガードレールに腰をかけた。迷惑を。いえ。これは誰の絵か。教授がいった。長崎屋跡をしめすプレートの前。説明文と挿絵、浮世絵。北斎。ほう。長崎屋の窓の下に江戸っ子がむれてる。それを。これはオランダ人専用。もともと長崎屋源右衛門という人の薬種店だった。それを異人用に。異人がめずらしくて。窓の中に見えるのはオランダ人たちか。然り、画本東遊(えほんあずまあそび)という狂歌本にある挿し絵。と、ひらめいた。

東遊は東洲斎の意味か。「斎」は書斎のように勉強するところという意味。だから万事無事で休息する時、またその部屋、といった意味も。「東の島での休息」とは東洲斎。でも東遊という発想。変では。商館長一行は物見遊山でない。館長は登城。謁見、質疑応答。高官への挨拶、贈答品。また寺社奉行、江戸町奉行への挨拶、贈答品。宿で訪問者への質疑応答。東遊か。あわない。でもあえて東遊。これは歌麿の発言の発想と類似か。怪敷形をうつした。自分がやったといわず木の葉絵師が。この表現で自分に命じた蔦屋をあてこすってる。さらにこの葉絵師は自分もふくむ他人の絵をひきうつし、商売にしてる。この告発の意味もかさねた。北斎は読者を東遊にさそう体裁で、オランダ人が東遊と示唆してる。

この絵は何時と教授。寛政12年(1799)。かかれたのもおなじ頃。寛政11年はヘンミーが掛川で客死。その翌年だ。江戸の風俗絵をかいてヘンミーにとどけ、かえってのち北斎はこの絵をかいた。恩人の蔦屋はすでに死亡。絵をたのんだヘンミーも死亡。彼らがまきおこした 写楽現象も、もうとおい。北斎にとり長崎屋表の光景は特別なものに。ではないか。わすれがたい日々の、この絵は追悼、総括では。だから北斎は東遊とした。多少不自然だが、東洲斎からの連想。この絵は北斎の気がはいってる。細部への気配り、絵手本ともにて、製図的な丁寧さ。これは傑作の一枚と思ってる。ああと内心で声。通行人の目が。ガードレールからたちあがった。教授に。あるきましょうと。

*** 051002 写楽現象の現場を案内
大丈夫か。はい。あるいた。すみません。でも、これでおしまい。ちょっと案内。ここは200年前の写楽現象の現場。お江戸八百八町の中心。この江戸通りは、当時小伝馬通り。左に。ここが今は町名の境界線。当時は神田堀。あのあたりに地蔵橋。地蔵橋。写楽斎がすんでたのはこのあたり。と主張する人も。自分は八丁堀の方。ここを右に。江戸通りをもどる。大丈夫か。然り。到着。地下鉄日比谷線小伝馬町駅。左の角。小伝馬町の牢屋が。ああそう。吉田松陰。ここで斬首。佐藤が地理を説明した。芝居町、元吉原。大門通り。通油町。このあたりに、鱗形屋。鶴屋。円屋。村田屋。伊勢金。松村屋、蔦屋。大伝馬町の道沿に菱川師宣。歌麿はと教授。最初はここ。耕書堂に下宿。ここから写楽が。然り。

*** 051003 散策おわり、三越の天女像を
大門通りにもどる。大丈夫かと教授にきく。然り、でも佐藤さんは。でもない。左右が元吉原。東には鳥居清信。吉原の中。芝居町、堺町 、葺屋町。中村座、市村座。しかし寛政の写楽の当時は控え櫓。都座、桐座。長崎屋からちかいと教授。八丁堀の地蔵橋は。それはとおい。木挽町の河原崎座も。タクシーに。何、猪牙舟。当時堀。東堀留入川。もう一本。西堀留入川。ここから小舟にのった。江戸は水の都だったと教授。話しはおわり、タクシーで三越に。巨大な天女像。休憩。教授は買い物に。この天女像は公開された当時、悪評噴出。しかしこれは写楽だ。大首絵は当時、天女像とにた評価。でないか。

*** 051004 日記調査を 約束
教授。すごい像。写楽だと。沈黙。やはり写楽の謎をときたい。撤退したくないと佐藤。はい。だから大阪市立中央図書館の絵を。否。佐藤さんの携帯メールアドレスを。はい。ハーグの中央文書館に。出島の商館日記を。寛政6年前後の日記をコピーも。もってくる。

** 051100 お茶の水、料理店、歌舞伎の説明、寛政5年に江戸参府、然り
*** 051101 辻田教授にきく、歌舞伎の歴史
翌日。陽がたかかった。音。携帯にメール。といあわせた。明朝ハーグに。すべコピーが可能。すこしまてと教授から。常世田から電話。人魚のため息で日本文化の辻田という教授に。同氏は歌舞伎の研究家。寛政期の歌舞伎にもくわしい。パソコンで作業。午後4時。

人魚のため息。常世田と辻田。常世田が事前に説明してると。寛政期の歌舞伎についてかと辻田。然り。写楽が大首絵にかいている演目と常世田。寛政6年。然り。この時は控え櫓。えっ、その、そもそも江戸の歌舞伎は。

1) もともと家光の時代、日本橋、今の丸善あたりから。京都から猿若勘三郎の一派。これがはじまり。一説には地名を中の村、当時の地名。これで中村座と。これが堺町に。
2) まもなくおなじ町内に都座が興行。
3) すぐ隣りの葺屋町に村山座。これはのちに市村座と。
4) 5年ばかりあとに、ちょっとはなれた今の歌舞伎座があるあたり、木挽町に河原崎座。
5) そのちかくに森田座、さらに桐座。木挽町のの芝居はだんだんに森田に。

そこで幕府は中村、市川、森田の三座だけを公認。これ以上小屋ができるのをきらった。森田座は経営不振。そこでかっての、都座、桐座、河原崎座があらたに櫓。許可を。幕府は先の三座が 休座の場合にのみ、かわって興行を許可というお沙汰。控え櫓。寛政6年は、たまたま本櫓三座がそろって経営破綻。控えの三座、河原崎座、は元年から、都座、桐座は5年から興行を開始。こういうめずらしい成行き。

*** 051102 都座、桐座、河原崎座の演目、公演日程
どこで、都座が旧中村座で堺町、桐座が旧市村座で葺屋町、河原崎座が旧森田座で木挽町。成程、で写楽はこの控え三座の舞台を。然り。都座が花菖蒲文禄曽我(はなあやめぶんろくそが)、桐座が敵討乗合噺(かたきうちのりやいばなし)。河原崎座が恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)と義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)。このとおりですね。然り。寛政6年5月の興行。写楽はこれらの芝居をみた。のでしょう。みた。というのは。絵に誤りが、役者名にも衣裳にも。一期にはない。三期、四期にある。ということは、その場でスケッチ。してるような感じ。どういう順で。ええ。たとえば都座、桐座、河原崎座とか。不明。その出し物、何月何日とかと佐藤。初日は三座とも5月5日。江戸歌舞伎は節句でくぎられる。千秋楽は不明。ということは記録がない。無し。あっても全面的に信用は不可。予定もよくかわる。千秋楽もよくのびる。初日の5月5日も確実ではない。

*** 051103 予定の確認、公演の時間、
じゃあ、客は。初日の前日に明日行灯。小屋の軒に。これでしる。でも記録にはのこらない。5月5日は大首絵の刊行時期と適合。しかし浮世絵というのは下絵、お上の改印とって、それから彫師と摺師。だいたい1月かかると佐藤。すると写楽絵もと辻田。この場合、いそがせて5月中は可能でしょう。蔦屋がいそがせたかも。版木の数をへらした。着物のこまかい柄はない。常世田がきく。江戸時代の歌舞伎。

上演の時間は。昼間。何時から何時まで。日の出から日没まで。自然光。日の出、太鼓。朝のうちは無名の役者。昼、スター。典型的。朝6時から午後5時。食事は。席で飲み食い自由。しゃべるのも自由。弁当持ちこみ。まるで花見。まあ土間席は。下桟敷のうずら席、ますみ弁当をとる。上桟敷は専用の通廊をとおって芝居茶屋に。ここでゆっくり飲み食い。ここには役者が挨拶。芝居小屋でも上桟敷は高坏にもった菓子をたべてすごす。ほう。特別待遇。然り、非常に贅沢。今の歌舞伎座は桟敷席と一等、二等、三階A、三階Bの5段階があると佐藤。寛政当時の小屋はちがうのか。然り、上桟敷、うずら席、切り落としの3つ。切り落としは土間。どのくらい。値段。切り落としが130文、うずら席が16匁、上桟敷が32匁。三階Bが2400円、一階桟敷席が16000円。これよりたかいのでは。然り。上桟敷は50000円。切り落としが2千数100円から3千数100円くらい。すごい贅沢な遊び。

*** 051104 席の種類、値段、昼興行、夜興行
舞台は、くらくなかったか。然り。昼興行は。うすぐらい。だから役者は顔を白粉で。衣裳の金糸銀糸が暗がりではえる。夜の興行も。大当りの興行なんか。あり。夜で照明は。そこは人間の目。順応。昼よりもあかるい。提灯。ふんだんに。蝋燭。花道。脚のながい燭台を燭台。ずらり。あとは提灯。場内袖の壁際にずらりとつるす。それから中央にも。舞台から客席後方まではりわたした綱に。提灯には贔屓筋の役者の名。幕末の芝居の観劇図を見てるとあかるかったと思う。当時の町衆としては、こんなに大量の蝋燭がともる場所は。それから舞台に千両役者がでてくると。黒子。龕灯で役者の顔を。これがインスポット。成程。ではこの夜興行。寛政6年の控え三座の場合、どうか。やったか、やらなかったか。不明。記録がない。でもやれなかった。どうしてと常世田。寛政の改革からまだ時間が。安全策。座元。そこに佐藤にメール。おめでとう。寛政6年に江戸参府命中。

** 051200 お茶の水、参府が的中、寛政6と10年、一行と対話、ヘンミー、ケルレル
*** 051201 1794年、1789年に参府、月日はまだ不明
何と常世田。メールをみて興奮。佐藤が返信。教授から回答。今、中央文書館。商館長の参府年のリストを。第1回は1633年、商館長はPieter van Santen。参府は二度。17世紀から19世紀にかけての江戸参府年のリストが完成。1636年は3度。あとはだいたい1年に1度。ファックスでおくる。ずっと毎年だった参府が153回目の1790年でとだえる。154回目が1794年。えっ。オランダ人がきてた。次は1798年。寛政10年。命中。ヘンミーが掛川で死亡。興奮。1794年と1798年、Gijsbert Hemmijの代の参府はこの2回。

その次は1802年、156回目。1806年。1810年。1814年。4年おき。よろこぶのはまだ。正月すぎの長崎逗留では5月興行初日の5月5日は、ずいぶん間。否。蔦屋の耕書堂の物置にかくれる。それでと常世田。否、幕府のきびしい監視。本人のみならず蔦屋にもきびしい処分。季節はとメール。月日は不明。只今調査中。1794年の参府旅行の商館長の日記。コピーを依頼。江戸到着の月日は不記載。1794年のコピーがとどくまで無理。かも。教授のメール。そのあとの参府。1818年、1822年。1826年。Philiipp Franz Balthsar von Siebold。シーボルトも命中。さらにつづく。1850年の166回目が最後。Joseph Henrij Levijssohn。江戸参府の旅行時のオランダ人は総勢で何人かと辻田。メール。18世紀後半、通常は3人、ごくたまに4人。1794年も3人だったはず。

*** 051202 歌舞伎役者に変装、なし、一行の氏名、職など
オランダ人が歌舞伎役者になりすますことはと常世田。無理、この頃の日本人の平均身長が男で155センチと常世田。オランダ人はそれより10センチたかかった。無理か。奴江戸兵衛は鼻がたかいのに。あの鼻は日本人では。歌舞伎役者にあんな鼻の男。いない。自分は誇張と。もっとも外国人がかいたなら、あんな鼻も。3人の名前がわかるか。もしかすれば心当たりと辻田。電話。教授だった。謝辞。オランダ人3人。1794年、ヘイスベルト・ヘンミー。外科の医学生、アンブロシウス・ロッテウェイキ・ベルンハルド・ケルレル、貨物管理の責任者。もう一人はシキリイバ、書記官、ウィレム・ラス。ヘンミーの秘書も兼務。この日記の清書はラス。きれいな字。飾り文字。長崎にきてたのは大学教育をうけた医師でなく、すこし地位のひくい外科医。船医になるための外科医ギルド。日記のコピーをまつといって教授がいったん電話をきった。

*** 051203 早稲田大の西賓対唔
辻田がいう。当時、将軍おつきの高位の医師は外科をオランダ医学から内科は漢方からまなんだ。だからオランダ人たちには内科は不要だった。ほう。滞在中の長崎屋に当時の有名な蘭方医が訪問。あれこれ質問した。対話を記録。それは何。西賓対唔(せいひんたいご)。名前に記憶がある。早稲田大学に資料が。ウェブサイトで公開。この資料の西客対話に。オランダ側はケルレル。日本側は大槻玄沢、宇多川玄随、森島甫斎など。ここにはオランダ人たちの風貌も記載。

** 051300 お茶の水、5月に参府、確認
*** 051301 三人の風貌、職、年齢、出身、学歴
辻田がPCで検索。甲寅来貢西客対話(きのえとららいこうせいかくたいわ)。この場にいた大槻玄沢が記録。内容は。三人の風貌などの部分が。

申の刻、午後4時。栗本、桂川、両法眼、渋江氏等のあとからついて、加比丹、商館長が滞留の二階座敷に。長崎奉行の検士、給人士、注書きにオランダ人たちは、オップルバンジョウス。これは日本語の番上使から。(省略)。帯刀の下検士もいた。(やはり見張りもいた。護衛かも)。自分をふくむ一同は、身分のたかい順に座に。加比丹が出迎え互ひに挨拶。小通辞、今村金兵衛が通弁。加比丹の名をMr. Gijsbert Hemmy(メイステル...)。メイステルは学士のこと。人の師表となる識見ある者。生国は喜望峰、父母はオランダ人。喜望峰はアフリカの要港。同国の植民地。オランダの商船、本国を出発、この地に到着、ふたたび船よそおいし、インドネシアのバタビアに。ここもオランダがおさえてた。それから本邦に。カピタン42歳、板歯、ぬけてた。常に眼鏡を。シキリイバ。注書きに筆者頭。名をLeopold Willem Ras。27歳。字は上手だが筆跡は学士に見えず。医生の名、Ambrosius Lodewijk Bernhar Keller。ボーゴ・ドイツの出身。22歳。みんなわかいと辻田。

*** 051302 質疑応答、骨折の質問、きびしいスケジュール
この人は立派にみえた。ということはRasはそれほどでも。特に物産をこのむ。一同。椅子に。加比丹の前に。この日、幕府の公的な立場にある医官、法眼たちがおおくの質問。一人の通訳、一人の医学生のみで多忙。やりとりがさかんで、末席の自分はしたしく対話は困難。遺憾すくなからず。やっと。外科の教書に骨折の原因になりやすい器械について。自分がわからない。そのオランダ語をヘンミーにしめす。すると、モーレンはウインドモーレンの略。要するに風車のこと。ウィヰキははその羽根。風車で骨折した場合のこと。オランダでは当時すでに大活躍だったのだろう。あとは、最上徳内が蝦夷地の物産品をみせた。オランダ側がマダム・タッソー作の蝋細工、頭部の精密な解剖模型をみせた。この三人の江戸における行動は。無し。でもとても自由行動など。まったく長崎屋に。国賓、ゆるされないスケジュールと辻田。

*** 051303 警備厳重、日程の概要到着、落胆
オランダ側の日記に期待か。近所の芝居見物にいったとか。とても無理、長崎から、帯刀した下検使も末座に。大槻玄沢もそのものものしさに驚き。宿をぬけだして芝居見物。検使の責任。切腹もの。オランダ側も承知。そうなら、蔦屋組があんなにだまってるのは理解。外交上の大問題。みたいなら幕府に申し出、許可の必要。日記も無理かと佐藤。臆病なお上が許可する。思えない。町衆、芝居衆がおどろき大騒ぎ。不許可と。まさにガリバー旅行記。オランダ側からみれば一編の戯画をみるようと常世田。電話。教授。

日記のコピーはまだ。可能な限りの日程を。おおくは2月に長崎を出発。のこりは3月。ぽつんぽつんと3月が。4月、5月はない。佐藤は落胆。1794年は何故か欠落。1790年、2月28日長崎発。その前も2月発。直後の1798年も3月長崎発。1802年も2月発。などで1794年だけ特例で4月発とは。落胆。江戸にひそんで5月をまったらと教授。監視つきで隠密行動は無理。辻田の説明からも無理と佐藤。こっそりみたい。ならその月の演目をみる。それでよい。成程と教授。電話終了。絶望的気分。電話。佐藤さん、1794年だけ何故か4月、長崎発。えっ。

*** 051304 1794年は5月に江戸、歓喜
4月14日、長崎発。5月中に江戸へ。歓喜。本当か。コピーがきた。4月14日発。5月1日、大坂。3日に発、京都へ。辻田がいう。この記録の最後に寛政6年甲寅5月、高額、大槻茂質録と辻田。間違いない。

** 051400 お茶の水、5月27日謁見、6月に帰路、6月は義経千本桜はない
*** 051401 日程判明、5月21日、江戸入り
自分も信じられずと教授。然り、だが日本側の史料でも。信憑性がたかまった。これだけの状況証拠。で、自分がざっと訳すか。それとも帰国をまつか。否、今、きかせて。5月3日土曜日、5時に大坂をでて、午後、京都に到着。ダンノーホーリンジという名の宿舎。このあたり何も事件が。5月14日、川の水があふれて蒲原で足止め。16日の朝に許可。午後、吉原の宿。20日、火曜日に川崎の宿。長崎屋の主人が出迎え。過日の江戸の火事で、長崎屋も被災。突貫工事で再建。川崎の宿から大通詞ヤスジローを江戸に先発。宗門奉行と江戸在府の長崎奉行に挨拶を。翌朝、検使とともに出発へ。検使が同行。はい、5月21日、水曜日、10時に江戸にはいる。投宿。在府長崎奉行の使者が来訪。ワイン、リキュール、蜜漬を。ヤスジローが帰還、報告。同人に長崎奉行にあてた書類をたくす。

*** 051402 5月27日、謁見
23日、宗門奉行の使者。23、24、25は公式行事なし。26日、検使が大通詞ヤスジローをともない奉行の代理で。将軍への謁見は明日と連絡。27日火曜日。朝6時、書記ラスと上外科医ケルレルをともない宿をでる。7時頃、城外に到着。百人番所で。宗門奉行と在府長崎奉行が祝辞。2人の検使に護衛され控えの間に。幕府の高官たちから祝辞。

将軍の部屋に。お辞儀。水戸の老公から質問。日本来航までの経緯をたずねた。将軍はすでに来臨。老公が代理で質問か。通訳を介して回答。通訳は平伏したまま老公に。自分は20年間インド諸国にいた。日蘭貿易がふるわない時期に拝謁は残念。老公によろしく将軍に。よかろうと老公。一歩さがり、周囲から大変あな名誉といわれた。会社にもおおきな利益があるだろう。というのは老公が直接はなすのは前例のないこと。老公がいたが将軍はその場にいなかったよう。参府謁見はかならずしも将軍でなくてもよかったのかと佐藤。御三家、御三卿であればそれでよかったかもと辻田。家斉はたしか一橋の出。

控えの間にもどる。薩摩のわかい領主が挨拶。翻訳が再開。彼の権限で貿易発展に力をと。坊主頭が許可。内殿をみた。次に 世子の御殿へ。次に老中、若年寄。会社からの贈り物を進呈。5時に宿に。すぐ宗門奉行や寺社奉行の使者。祝辞。

*** 051403 日程の詳細
自由行動の余地はまったく。あったとしても、その気はなさそうと教授。成程。あとは訪問客について。

5月28日水曜日。食後に来客、幕府の医師ホシューほか数人と。毎日2、3時間、訪問可能かと。快諾。夜の10時に宿からはなれたところだが火事。
5月29日、寺社奉行と江戸町奉行、長崎奉行に会社からの贈り物を。長崎奉行の屋敷で接待。
5月30日、各方面に暇乞いの接見。
6月1日、ホシューそのほかの医師。幕府の天文学者、地理学者が、午後から明日にかけ訪問を要請、将軍の許可をえたと。
6月2日、地理学者が来訪。地図。ロシアの士官からえたという。1787年、ペテルブルクで印刷。ロシアにかんする質問。4日に江戸をたつつもり。帰り支度。
6月3日、長崎奉行の側近を接待。
6月4日、水曜日。朝、出発。
これがすべてと教授。

*** 051404 失望、何時なら外出の可能性が
謝辞。失望。写楽の名、オランダ一行のプライベートな行動、北斎、蔦屋もない。まだほかにあるかと教授。4年後ヘンミーが江戸に。その時の日記に北斎、蔦屋、写楽とかの言及は。ないそう。では商館日記に一度でも日本人の。浮世絵師の名前が。その記憶はないそう。成程。電話はおわり。

辻田がいう。この日記で彼らは江戸で将軍の謁見。それに27日、火曜日。然り。この時の謁見相手は水戸の老公。これがすむまでまったく動きがとれず。当人も遊ぶ気は。然り。謁見がおえれば安堵と佐藤。緊張がとけて、ちょっと冒険とか。検使も気がゆるむと常世田。然り。検使は将軍の謁見、幕府高官たちへの挨拶。無事にすませること。監視が第一、護衛が第二。すると行事がおわれば気がゆるむ。かりに冒険。ならば6月にはいって。6月1日から、学者の長崎屋訪問。これはケルレルだけかも。ヘンミーだけかも。体のあいてる人間が。歌舞伎をこっそりみにゆくことも。

*** 051405 6月はじめの演目は、落胆
然り。考えにくいが日本人に変装かもと常世田。ふむ、変装。白昼堂々、背もたかいと辻田。かりにあるとして。でも義経千本桜、河原崎座はもうやってない。えっ。然り。でも当時の日程はいいかげんだとと常世田。これはかなり確実。5月半ばの河原崎座の辻番付にない。もうすこし延長としても6月までは。ふうむ。ならこの時義経千本桜の舞台はかけません。

** 051500 お茶の水、和暦に換算、5月4日、曽我祭の前夜
*** 051501 義経千本桜はみれないか
実は5月21日でも。彼が江戸にはいったその日。義経千本桜は。まあ到着早々にゆけば、可能性はゼロでは。しかし到着早々、商館長の疲労。検使の緊張。周囲もと佐藤。周囲とは。日本橋の住民。異人たちの一行。目だつ。服装も派手。長崎屋にはいった事実は周知。注目、人だかり。その事情は彼らも承知。さけると佐藤。然り、何時、将軍の謁見が許可か、不明の時期。さける。待機してる。商館員の参府の歴史。おおきな事件、不祥事はない。問題がなかったのは彼らが慎重に行動したから。露見すれば、事件に、国交断絶、国外追放。幕末あたりをみれば危険な時代。シーボルト事件がそう。生麦事件とか。大名行列を横切ったら切り捨て御免。まあ横切るのは無礼は理解するが、即刻、切り捨ては。

*** 051502 オランダ人は慎重に行動、早々に外出は
オランダ人だけが日本の発想、習慣を理解、200年以上も継続。でも事件がおきたかも、常にその可能性。幕末になると外国人との摩擦は頻発。しかしオランダ人とは。また彼らは日本によく貢献。黒船来航前などは。だから到着早々はと辻田。ところで、曽我祭といものがと辻田。ほう、これはももとは春狂言。大当りをとって5月まで継続興行。その際、祝いを座の者が内々でやったのがはじまり。元禄元年(1688)にその頃4座。すべて曽我ものを上演。全部大当り。以来、初春の芝居は曽我ものが恒例に。それで曽我祭りと。これは楽屋内のお祭り。ある年、市村座が、この祭りを舞台上で。その評判をよぶ。ほかの小屋でも。だんだんに花飾りの山車を花道。お囃子組。舞台上でゃ花笠踊りの乱舞と。どんどん派手に。ついには扮装のまま小屋をとびだす。巷にくりだす。町内をねりあるく。江戸庶民の喝采。ほう。

*** 051503 曽我祭りの由来、寛政6年で中断
大衆の方も5月のこの行事を楽しみに。曽我祭は実際の仇討ちのあったという5月28日か27日、寛政6年もおこなわれたはず。ところが曽我祭はこれを最後に消滅。はあ。後に復活するが、理由は取締り。座元の都伝内らがお咎め。それは市中練り歩きという派手なことをしたから。然り。寛政のお取り締りの余波。お咎めは座元だけでなく、芝居町の名主、家主にも。また役者の給金の問題にも発展。この原因は練り歩きだけではと辻田。というと。

寛政の改革で筆禍にあい、手鎖の刑をうけた京伝にしても直接の処分理由は3作の前にも数々の放埒な洒落本をだしていた。こういう不行儀の積み重ね。後の歌麿にしてもおごった言動が前もってずいぶんあった。だから一日程度のことでお咎めはない。狼藉がつもりつもった。堪忍袋の緒がきれた。28日の曽我祭だけのことではないと辻田。ほかに。もっといろいろやった。座元側が。それで思いだした。江戸歌舞伎興行年表によれば、都座の5月5日に曽我祭りの文字がみえる。これは都座が寛政6年2月1日から曽我もの初曙顔見世曽我の興行を開始、外題をかえながら3月、4月と続行し、5月5日の節句をえらんで花菖蒲文禄曽我、外題曽我祭りと、こうい興行をやってる。ということは、もしかしてこの5日に派手に曽我祭りの舞台をやった。という気がする。いわば前夜祭として。夜興業もやったかも。

*** 051504 5月5日の曽我祭り、夜興業なら、絶好の機会だが、和暦とグレゴリオ暦
客にみせて。然り。というのは写楽二期の一連の作。これは都伝内とのタイアップがうたがわれる。都伝内は控え櫓の揃い踏みという異例の事態で相当に気合が。低迷気味の歌舞伎界をもりあげる。彼一流の野心。成程。すると5月5日の初日頃には夜興業を。かも。曽我祭りのお囃子、踊りは夜の方が。夜祭。然り。幻想的な雰囲気。役者の衣裳、金糸銀糸も。客の興奮も。成程。夜の非日常性。然り、お上が奢侈取締りに躍起。前夜祭、派手な騒ぎ。お上の御威光を無視と。そこで世の中のため民のため。みせしめも。そこに市中にくりだし、ねりあるき。ついにお上の限界を。成程。

常世田がいう。しかし5月5日。オランダ商館の一行はまだ旅の途中。京都をでようとしてる頃。夜興行ならオランダ人が小屋にまぎれこむ。おあつらえむ向きだが。大首絵の黒雲母摺りのくらい背景。夜興業を思わせる。しかし5月5日か。日本橋についたのは、21日。謁見をすませて、リラックスするのが6月にはいてからだ。と。あのと幸枝。 ここに日本史の年表。寛政6年の将軍拝礼の日。ええ。それでこれでは4月28日に将軍に拝謁。えっ。参府の一行は家斉に。まあ日本側の資料は不正確かも。はい。ともかくオランダ側の史料は5月27日。沈黙。齟齬か。オランダ側の史料もあてにならないと常世田。提出する会社もはるか、かなた。あてにならないかと佐藤。あっ。辻田の声。うっかり。和暦。4月28日は。オランダ側はグレゴリオ暦。へえ。

*** 051505 グレゴリオ暦を和暦に変換、的中か
1) ユリウス暦
何。西洋の暦の始まり。エジプト遠征、ユリウス・カエサルがもちかえった知識をもとにしたユリウス暦。英語で7月ジュライ。彼の名の英語読み。これは1月を31日に、30、31、30、31と交互に大小の月。2月だけを29日に。閏日がはいる年には2月の日数で。
2) アウグストゥス暦
初代皇帝アウグストゥスが8月を自分の名に改称。小の月をきらってジュライとおなじ大の月。2月をもう1日けずった。アウグストゥス暦。
3) グレゴリオ暦
閏日調整は完璧でない。改良。ローマ教皇のグレゴリウス13世。グレゴリオ暦。これが現在、われわれがつかい、寛政においてオランダ人がつかってる。

グレゴリオ暦と和暦はおおいなズレ。商館日記が5月27日なら和暦でそれは4月28日。充分可能性が。換算はやっかいだが、どうするか。ここに暦換算表が。辻田がウェブサイトをみる。1794年5月27日は寛政6年4月28日。ぴたり。干支年甲寅。火曜日。間違いない。では三座の初日、夜興業をやった可能性のある日。6月1日は寛政6年5月4日。初日の前日。

* 060000 江戸編 III、夜興業、中見、別れ
** 060100 孔雀茶屋から、夜興業、春朗からラスをしる蔦屋
*** 060101 不思議な絵、木戸芸者、夜興業
誰の作かあててと春朗(北斎)が蔦屋に。厚紙の絵。さあと春朗。
京伝も子興もよる。そこにはみたこともない類の絵。紙も作画の線も。描線は直線的、硬質、力強く。毛筆でなさそう。バケモノと京伝。四谷の狢(むじな)がばけてでた。体も手もちいさい。下手と子興。判じ物か。役者当ての謎か。誰か名前をあてろ。どこでみつけた。どこの役者をみてかいた。木戸芸者と春朗。ほお。木戸芸者の連中が曽我祭りの真似を。皐月の練り歩き。然り。へえ、練り歩きの真似。鉄砲通りをと春朗。大胆な。この取締りで。お上にみつかると大変と子興。今夜、夜興業を。へっ、どこがと京伝。都座。そうふれ歩き。伝内さんか。思いきったことを。否、三座とも。何。三座とも。然りと春朗。三座ともやってこそだ。

*** 060102 夜祭りの賑わい、歌舞伎の夜興業
芝居町の旦那衆が準備の真っ最中。噂。人出。青山の方から百姓も。人の噂。はやい。飴屋。団子屋。店開き。蝋燭もって。江戸っ子の大好物。待望ひさしい歌舞伎の夜興業。三座の揃い踏み。蕎麦や稲荷や、天麩羅のふり売り。神田の方から。両国の川向うから覗きからくり。やれ突け、女相撲も京伝。それはない。広小路とちがう。然り、日本橋。でも雪駄屋、埃眼鏡屋まで。何故雪駄屋。雨もないのに。枯れ木も山のにぎわい。大道芸もきそう。浅草、河童小屋などの見世物もくるかも。ろくろっ首、牛女。自分はすきでない。子興がいう。揃い踏みをもりあげようとの魂胆。いい度胸。伝内。気合い。命がけ。今やるしか。江戸歌舞伎に元気が。お上に尻尾まく。歌舞伎者の名が。面白い。三座で大勝負。

*** 060103 歌舞伎の前夜祭、これをうつした絵の作者は、唐物か
都座は夜興業、前夜祭を。舞台で。では今夜。木戸芸者はそれで練り歩き。ずっと。28日はもっ派手。思いきったことを。この草双紙はこの練り歩きをみて。で、誰がと京伝。さあ誰だ。蔦屋の旦那。これまでみたことないと蔦屋。唐物ではと蔦屋。へっ。これは歌舞伎の役者。木戸芸者だが。解体新書でなく。

本当に唐物。唐物か。仇討ちの格好してる。曽我の兄弟、唐天竺にいない。間違いなく唐物と蔦屋。ええ。唐天竺からこの江戸に。否。ここでかいた。この日本橋で。そうだろう春朗と蔦屋。そうと春朗。からかってる。毛唐が歌舞伎をからかってるかと京伝。お上みたいにいう。粹は威張るな。粋がこわれる。唐天竺が日本橋に。然りと蔦屋。これは長崎屋のところかと春朗にきく。然り。長崎屋の格子窓。自分は紅毛人の絵をかいてた。格子の向こう側でもかいてる人が。紅毛人か。然り。今、何がおきてるかしらない。長崎屋にはオランダのカピタンが投宿。では、この絵はそのオランダの紅毛人。然り。蔦屋がいう。春朗。その異人とはなしたのか。

*** 060104 長崎屋の異人の絵、ラス、春朗と交流
然り。大丈夫だった。何。なんともないか。体。無し。こわくなかったか。えっ。何が。唐渡りの刀。無し。侍みたいに。もってない。ほえたり。無し。獅子でない。どうかな。やさしい。面白い。ラスと春朗。それ名。然り。何語で。日本語で。へえ。流暢でない。へえ。わたしの名前はラスとか。然り。もう友だちだって。危険はないか。別に。半時間以上、一緒。話し。窓越しに。国のこと、国のおなごのこと。然り。そうか。そうしたら往来を。伝馬町の方から木戸芸者が練り歩き。異人がめずらしがる。長崎屋の前でながいこと。いろいろと芸。石井兄弟の仇討ち。ラスがそれをみて絵をかいた。自分も一緒になって絵を。ほう。木戸芸者がいなくなった。かいた絵をみせた。ラスにもみせた。ラスもびっくり。上手と。

*** 060105 絵の交換、蔦屋を長崎屋に
ほめた。こちらの絵がわかる。へえ。然り。そうか。絵師かときく。然り。くれと。お土産にという。かわりに自分のを。それで格子窓越しに交換。で、それ。大変なことを。役人は。そのあたりに。いたら、そばにゆくか。登城おわり。長崎から検使の姿も。いい度胸。ふむ、今日はじめてでは。何回も。顔見知り。もらった絵にはびっくり。かわった絵だ。それで蔦屋の旦那に。どうかと春朗。おい。へい。自分を長崎屋にと蔦屋。今すぐ。そのラスにあいたい。

** 060200 堺町、ラスが変装、夜の歌舞伎見物へ
*** 060201 人出の中、ラスと蔦屋の会話
大門通りに。小伝馬通りへ。大門通りはすごい人出。たいした大騒ぎ。飴屋が。祭り。夜興業のせいと蔦屋。都座。桐座。堺町、葺屋町。このあたり芝居町一帯。夜祭りに。皆んな心底、芝居好き。伝内さんの心意気。お上が心配。陽が西に。蔦屋が足をひきずりだす。大丈夫か。ちょっと。駕籠をたのむ。好都合。駕籠屋も承知。駕籠に。元気だ。然り。長崎屋が。本石町。駕籠をおりる。役人が心配。長崎屋の前に。春朗が先頭に。無造作に春朗が。ラスさん。二度、三度。異人の姿が格子窓に。丸眼鏡。大男。くろいひかる服。前歯が1本ない。春朗という絵師がラスにあいたいと。大男の隣りに男。気づく。大男より小柄。師匠をつれてきたと春朗。

へえ。てらてら緑色にひかる派手な衣裳。ラスにあいたいという師匠の蔦屋重三郎を。ふん。有名人。そして手招き。躊躇して蔦屋が。むこうも合図。あなたがラスか。絵をかかげて。これをかいたのかと蔦屋。然り。いい絵。師匠がいい絵だと春朗。ありがとう。その羽織もいい。うん、何。春朗が上着をさす。ありがとう。こういう絵はまだあるか。然り。見たい。ふうん。何故。自分はあなたの絵が大好き。線にいきおい。役者にまけてない。これまで見たことない。オランダ流。

*** 060202 絵を見た蔦屋が歌舞伎にさそう
ちょっとまってと奧に。気色わるい。真っ白の顔、役者にまけてないとはと京伝。見せてほしいから。洒落本かいてお上にまけてない。そことおなじと蔦屋。自分たちは日本人、向こうは毛唐。それは関係ない。ふうん。わからない。紅毛人は手足がちいさいのか。おなじだと京伝。ラスがもどる。これ。あまり真面目にかいてない。かまわない。2枚の板にはさんだ何枚かの絵を。熱心にみる蔦屋。いい。練り歩きの連中。然り、ここまできた歌舞伎の役者。歌舞伎役者でない小屋の奧を時々のぞいて真似してるだけ。あれは歌舞伎役者でない。成程。然り。本物と思ってはこまる。歌舞伎をみたいか。えっ、歌舞伎。歌舞伎。みたい。でも無理、カピタンが歌舞伎をみる予定がない。今夜、または明日の夜、暇がないか。暇、だが異人は歌舞伎をみることができないとラス。自分にまかせて。よかったら小屋で一番よい席、桟敷席を進呈。ゆくか。歌舞伎。自分と一緒で。本当か。然り。うれしい。春朗がとめる。京伝も。

*** 060203 念をおして、わかれる
それはお縄。耕書堂も取り潰し。バレなければいいと蔦屋。無理。顔、背丈も。派手な緑の羽織。否、変装。ラスに。変装用の着物一式を。すぐ。草履も。きかえてくれ。顔は。ほっかむり。手拭いで。無理。バレる。紅毛人を芝居小屋に。江戸中大騒ぎと京伝。昼興行ならと蔦屋。夜興業だから。桟敷席なら大丈夫。昔、何度も内緒で偉い人を小屋にいれた。こちらは異人だ。京伝に伝内と蔦屋。どちらがあぶない。どっちもどっち。ラスにむかって、江戸の歌舞伎はめったにみれない。国にかえってもない。自分と一緒にみないか。みたい。では一式を春朗にとどけさす。あの先の路地でまってる。自分は芝居茶屋の前で。春朗が案内。あぶない。大丈夫、考えが。歌舞伎をからかってる連中。そのために危険を。かまわん。ラスにいう。すこし冒険。覚悟をして。いいか。大丈夫。見張りはいない。出島でも。内緒で。絵の道具をもって。

** 060300 堺町、芝居茶屋、都座の裏口、桟敷席
*** 060301 春朗、変装したラス、蔦屋、芝居茶屋二階
蔦屋が橘屋の玄関のあたり。二人組。ラスさん、こっち。玄関に声。大丈夫だったか。然り、見張りもいない。茶屋の若い男。荷物は。ない。玄関。遠州木綿がよく似あう。はい。2階の座敷。蝋燭の一つをけす。これは。煎餅、たべられる。被り物はまだ。茶屋には鼻薬り、大丈夫。煎餅の味は。かわった味。あまくない。長崎にはないか。お国の菓子は。あまい。江戸にはあまいものがない。然り、和三盆、楽屋にゆけば。ジャムがある。今度、お土産に。ありがとう。あとで芳町の万久から上等の幕の内。桟敷でたべる。「ますみ」になってる。幕の内、寿司、水菓子のこと。肉がすきか。然り、すき。でも魚も大丈夫。刺身。それはちょっと。焼き鳥が。江戸一の幕の内。ありがとう。

*** 060302 茶屋の説明、オランダ
安心してまかせて。ありがとう。絵をかいてくれ。かいてくれれば、また案内。耕書堂の蔦屋と声を。はい。歌舞伎の小屋はまだ。ここは芝居茶屋。芝居の幕間にもどってきて、ゆっくり雪隠に。あるいは飲み食い。そういう家。今夜は時間がない。だから桟敷でますみ。桟敷をとったり、うずらをとったり。それにはこの茶屋をとおす。そういうしきたり。小屋にいっても席はかえない。否、切り落としなら。土間の追いこみ席なら。窮屈。カピタンさんには無理。何故。じろじろ見られる。舞台の上の役者もびっくり。芝居も途中でとまる。ラスさんはオランダの代表。国賓。一番いい席に。小さな島国でも。成程。オランダもちいさい。へっ。本当。船や戦争の道具つくったから。いろんな国と商い。でもちいさい国、日本のほうが。ほう、

*** 060303 蘭学、建物、橋
唐天竺で一番おおきいと。ちがうか。蘭学、学問がすすめば、おおきい国と。ほう。どんな国か。江戸とちがうか。似てる。川がおおい。へえ、建物も。否、石で。橋がたくさん。はねあがる。へえ。下を船がとおる。ふうん。オランダにいきたいか。然り、わかければ。体もわるい。頭も心の臓も。とにかく仲間だ。ありがとう。そうか。うれしい。明日も。日がおちれば、あさっても。あさっては船に。いろいろみせる。場所は。いろいろ案内。ありがとう。はい。お礼を。なら絵をかいてくれ。

*** 060304 ラスの身の上話、現況、観劇へ
蔦屋が風呂敷包みの中から紙の束。ここに。舞台の役者を。了解。くらくないか。あかるい。提灯、蝋燭。ラスさんは、お国で絵師か。ううん。否。子どもの頃は絵師。で、おとなになった今は。VOCの商人。成程、そう。ところで言葉が上手、どこで。長崎、女の人から、三味線ひく人。遊女。ああ、そう。それでちょっと女言葉。成程。そう。皆んなは。オランダの人は。否。自分だけ。成程、長崎では異人さんの出島に女の人はいれる。然り、そういう女の人は。では吉原はめずらしくない。若い衆がお茶。ごくろうさん。こっち春朗、こっちは緒羅次郎。拍子木の音。ではいこう。上がりぶちに。若い衆 が福草履。これは芝居観劇用の特別仕立て。

*** 060305 都座へ、桟敷席へ
小屋まで案内。橘屋から都座へ。木戸芸者ら。沢山の提灯。黒山の人だかり。小屋の横手。裏口。せまい通廊。左右は棚、大道具、衣裳。2階に。引き戸。くらい廊下、左右、大型の障子窓。若い衆が先導。部屋の入口。ラス。おお。

** 060400 堺町、描画、絵の批評、よろこぶ蔦屋
*** 060401 場内の様子、提灯、蝋燭、観衆、開幕、花笠音頭
桟敷席への入口、場内の光景。おびたしい数の提灯、無限といえそうな蝋燭の明かり。1階の枡席。その中の花道。両側にびっしりと燭台が。整然とした炎の列。みあげる天井に。舞台上から後方へ。無数の綱が。その一本、一本にもれなく提灯が。一階席には庶民がひしめく。見おろすラス。まったくしらない民衆の姿だった。感情をあらわに、わらい、さけび、無遠慮な振舞。これはすごい。伝内さん。利益は無視と蔦屋。すごい、まぶしいとラス。幕の向こう側。音、太鼓の響き。三味線。しずしずと幕がひかれる。花笠をかぶった娘たち。花笠音頭のはじまり。かぶりものをとるとしろい厚化粧の女形。左右の袖から奴姿の男役者。場内からやんやの喝采。客席から声。整然とした群舞がだんだん前方に。花道に。女形たちが花道に。舞台には奴姿の男役者。娘たちが紅白の引き綱。下手から山車が。観客の拍手。太鼓、三味線、お囃子の音。紅白の綱につらなる女形たち の派手な衣裳。

*** 060402 山車、群舞、桟敷席へ
山車が舞台中央に。女形がうたいはじめ、舞いが。客の手拍子。うたう者。場内に一体感。若い衆が案内。通路。ひくい壁でしきられた3、4人用の枡。蔦屋、ラス、春朗が。2階席。おちないように前方に手すり。軒先に橘屋の提灯。ラスは手すりにより、画板に紙を。袖の中から木炭。蔦屋がいう。これはまだ座興。かきたいのならとめないが。芝居がはじまったら。役者を。大首で。オオクビとラス。然り、顔をおおきく。成程。ちかからよく見える。連中の顔をどんと。

*** 060403 口上、芝居の解説、描画
踊りが一段落。女形と奴は袖に。迫(せり)にのった役者が。裃と袴の正装。拍子木。口上。あれが座長の都伝内。しばらくの間。これより夜興業を。今宵からしばらくは芝居町の夜祭り。芝居町はにぎやかに。そのはじめ。これからはじまる舞台、花菖蒲文禄曽我。殊勝だと春朗に。芝居。信州小諸藩、剣術指南役の石井兵衛の息子源蔵。千束の祝言。仲人の大岸蔵人。その妻やどり木。はやい。ラスさん。やっぱりラスさんは大首だ。遠慮は不要。醜女。シコメ。醜女はオカメ。変な顔。どうせ男。オトコ。

*** 060404 絵の批評、弁当
しらなかったか。道理で変な顔。女の人にみえない。これはわらわせる芝居か。否。何故か。説明はむずかしい。お国には。ない。真面目な芝居なら。ああ、面白い。異人さん。そんなかき方か。1枚を仕上げ。蔦屋に。つづいて蔵人に。やどり木の絵を春朗に。わらいころげる。そっくり。瀬川の富三郎だと蔦屋。今までこんなふうに。当人そのものを。かいた奴はいない。本人もびっくり。蔵人の顔に。いい、オランダ流。この真ん丸の目玉。宗十郎にそっくり。そこに弁当が3つ。ラスさん、万久の幕の内。腹ごしらえ。それら酒。

*** 060405 舞台の説明、描画
幕の内の一つをラスに。宗十郎の間抜け面。いいね。酒を。焼き鳥。うまいか。うまい。明日もある。でてこれるか。日がおちてから。大丈夫。江戸はいつ。6月4日。ええ。オランダの暦。ここでは5月7日の朝。舞台は 石井兵衛の道場の場。師範の藤川水右衛門。やりとりがもつれ、石井兵衛に稽古試合を申しこむ。場面かわって。蔵人とやどり木。源蔵と千束の祝言。兵衛の若党から。兵衛が水右衛門の闇討ちに。斬殺。源蔵と千束は仇討ちに。弁当おわり。また役者の顔を。これは端役。かきたいなら。ラスは興味のまま場面、役者をえらぶ。石井源蔵がついに水右衛門と対決。ラスは源蔵の大首をかいた。面白い。迫真。目玉が真ん中に。

** 060500 日本橋、耕書堂、歌麿にしきうつしを強要する蔦屋
*** 060501 歌麿に絵を、しきうつしを、いやがる
何、これはと歌麿。見ればわかる役者絵と蔦屋。へえ。そう、これも役者絵。これが。そう。こんな。誰がかいた。もしこたえたら。きいたお前も同罪。どうでもやってもらわなくなる。いいか。こんな絵をどうしようと。しきうつしをしてくれと蔦屋。正気で。勿論。世間は蔦屋が気がくるったと。お前の腕でまともなのに。

どうして自分か。ほかにない。大首かいてお前以上はいない。それはこんなバケモノをかかないから。かいたらおわり。自分に死ねといってる。そんなことを。しきうつして「歌麿筆」とかかない。天下の歌麿がしきうつした。とはいわない。耕書堂の奥座敷だった。2代目坂東三津五郎の石井源蔵。誰もいない。人払い。ううむ。旦那を実の親と思って恩義を。そんな話しはなし。自分の欲得でたのむ。ううむ。あっちこっちの板元から声を。売れっ子絵師。文句をいったことはない。然り、世間は自分を恩知らずと。でも。いいたい者がいる。気にするな。しかし。この話しはこれでおしまい。欲得でない。むしろ欲得にしてくれ。バケモノ絵をしきうつすなら。彫師には、このままではだせない。

*** 060502 出版へ、売り物に仕上げ、どうしても出版
出板。然り、こんな絵を。然り。うけるか。大首もだが。体がちっちゃい。手足も。これは役者絵になってない。だからお前にたのんでる。このままでは絵草子屋においても、うれない。お前の筆がはいれば。典雅な線があれば。こんなものが。うれる。お前以外なら失敗する。顔は面白い。このごつごつしたふとい線。江戸っ子の口にあわない。お前の綺麗な線でなぞれば。この絵は傑作になる。こんな絵ははじめて。ではもうけるため。自分にしきうつしをしろと。そう思ってくれ。

それでいいと蔦屋。たしかに蔦屋は台所がくるしい。次々の発禁本。罰金。そろそろ左前。だが金子だけなら、お前に美人画をたのむ。それでいい。美人画をかくと歌麿。否、この絵はどうしても世の中にだしたい。何故、理由は。今、いいたくない。特にお前には。それでは話しにならないと歌麿。だまってやってくれと蔦屋。それはあんまり。江戸に絵師は星の数ほど。蔦屋の頼みなら。どうして歌麿なのか。お前でなければ。しきうつしだけはしない。自分できめた。歌舞伎をあいしてる。三津五郎をこんなバケモノに。相手を間違えてる。それはわかる。

*** 060503 蔦屋の真意、お上と千両役者への反発
だったら。たのむ。お前に迷惑はかけない。自分の生涯の秘密に、墓まで。ふうむ。わからない。だが、蔦屋が間違ったか。これまで。然り。天下の蔦屋。商売は。否、商売でない。義、筋の話し。天下一面鏡梅鉢(てんかいちめんのかがみのうめばち)は。文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくどうし)は。仕懸文庫は。それではおなじ理由でこの絵を。然り、お上の唐変木、頓珍漢。お前もうんざりだろう。

人の道にはずれる。人は楽しみたい。そんなもの。罪でない。同感、だが歌舞伎にはしてない。どうかな。お上にたてついては。そうか。旦那、釈迦に説法かも。歌舞伎は美男の世界。いい男が美男と美女になる。それを江戸の芝居好きが一年間、小遣いためて小屋にみにいく。11月の顔見世、正月興行に。年に一度の江戸っ子の贅沢。この役者をこんな醜女に、庶民の夢をこわす。それがいけない。えっ。よってたかって役者をあまやかす。だから役者の専横。目にあまる。特に千両ども。

*** 060504 役者をあまやかす役者絵
阿呆のお上と一緒。誰が死のうが小屋がつぶれようが。たとえそうでも。絵の話しは別。役者絵は様式美の世界。そういう嘘は心底うんざり。別の話し。そうでない。役者をあんなにしたのは役者絵。絵師と板元そろって嘘八百。綺麗ごとかいて。役者世界となれ合い、もたれ合い。金子のやり取り、お世辞のやり取り。その方が楽でもうかるから。もうかればいい。ちがう。美男、美女。そんなのは各芝居の一人か二人。なのに絵師と板元、皆んな役者の面を綺麗にかくから。誰が誰かも。着物の柄見て、ああ蝦蔵、菊之丞。本物と似ても似つかない。それが役者絵。

否、歌舞伎の宣伝でない。洒落本がお上の提灯本でない。それと一緒。こっちが自分の考えをいう。でないと。世の中がくさる。お前は今のままでいいが、本当のことをかく絵師も。一人くらい。板元は綺麗なものだけか。ほかは駄目か。富三郎のやどり木。似てる。どうだ。それは。誰にも欠点がある。ことさら強調する。意地がわるい。そんなことをいってない。この菊之丞のおしづは。似てる。どう。そんなふうにかかない。役者絵は。それこそ別の話し。似てるか似てないか。この白人おなよ。生きうつし。誰、しらない。それ、千両役者しかみない。下っ端がいい演技をしても。ほめない。だから千両どもが威張る。

*** 060505 醜悪な現実をみて真実をかいた絵、オランダ人の絵
自分だけが歌舞伎をささえてる。自惚れてる。この「おなよ」は千両組でない。これが現実だ。この面が。役者だろうと千両だろうと。化粧をおとす。普通の人間。歳をとる。ふける。歌舞伎は美男美女だけの世界じゃない。普通のおっさんがささえてる。それで上にいくほど醜怪な世界。欲得の世界。嘘の世界。死にぞこないの爺じい、白粉ぬりたくる。水もしたたる美男。自惚れ、威張る。周囲はおだてる。みだれとぶ銭。かきあつめる幇間。お前もしってる。歌舞伎。この絵はそれをかいてる。たとえそうでも。かきたくない。ただの一人もかくな。そうか。かいたら遠島か。打ち首か。この石部金吉。袖まくってる刹那。実際こんな感じ。皆んな黒目が真ん中に。よる。見得切り、当然。そんなによらない。わるくかきすぎ。いったい誰だ。かいたのは。オランダ人。何。覚悟してきけ。オランダの商人。今、長崎屋にいる。その一人に。かいてもらった。うっ。おどろいたか。これでお前も一蓮托生。地獄まで一緒。本気だ。今宵もまたあう。今夜は桐座。敵討乗合噺。

** 060600 葺屋町、桐座、松本幸四郎をかく
*** 060601 芝居茶屋で、ラスを評価、歌麿の様式美を批判
葺屋町、桐座の専属茶屋、若鶴屋。2階の座敷。すぐ酒。ラスさんにオランダ絵を。わかったこと。何がと春朗。絵には力がある。どういう意味。歌麿と話して、様式美という。都合のいいごたく。すっかり型にたよる。歌舞伎の連中にいいようにされてる。ラスさの絵。本来こういうもの。好きにかく。見えたままにかく。茶碗つくる。皆んな丸餅に。そんな顔は不要。だけど江戸中の歌舞伎好きがそれを。そう、茶碗を。だがそんなに歌舞伎の連中のいうままにやる。ことはない。歌麿がそういった。いうわけない。様式美の先生だ。然り、今、江戸で一番の売れっ子。然り。それでもいい。だが、いつしか煮つまる。いかに天才歌麿でも。自分の約束事の信仰で。信仰。然り。自分流の決まりをおがんでる。それが役者を増長させてる。気がついてないようだが。

*** 060602 札差、千両役者の横行、無気力なお上、歪みが庶民に
このところの 札差や千両役者の横暴。目にあまると蔦屋。まあ。いろいろきいてる。世の中にでてないが。連中はやり放題。何故か。旗本、御家人、奉行所の与力同心まで、 札差と役者に金かりてる。だからお咎めなし。でも旦那、今度の改革で。否。定信は札差身分ふとどき。利子、借金証文を棒引き。では連中、金輪際金かさない。すると侍がますます平身低頭。金かして。金持ちが威張る。ふとどきですむ話しか。江戸は米でうごいてない。田んぼの真ん中でない。米俵かついではらうか。江戸は銭つかい経済。米づかい経済は時代にあってない。

だから 札差ばかりが。もうけは吉原と芝居小屋に。お上が約束ごとにもたれかかる。何も考えない。社会の根っこのところをかえないと。解消しない。お上はまったく理解しない。戦国のままと。世の中はうごいてる。特に江戸は。旗本、御家人に米ではらっても、そのままではくらせない。また米の値がさがる。旗本は飢え死に。だが銭は札差のところだけ。銭をかりる。もうけるのは札差。借金で骨抜き。腹いせで庶民に威張る。世の中がみだれる。ところが取締りがいない。札差は殿様の鶴の一声で。だが役者はどうだ。自分たち芝居好きが頭を切りかえ。へえ、どうやって。だからラスさんの絵。

*** 060603 真実を見ぬく力を評価、自分の手で世の中を
自分の絵がとラス。顔があかいよ。そこに若い衆。玄関口に。桐座へ。洒落本、狂歌も川柳も力。だが絵が一番。一発で目に。頭に。オランダ絵1枚で自分がいいたいことを。やっぱり絵。たいしたもの。鳥獣戯画なんてものも。昔は。然り。傑作。オランダ絵には心底感心。あるがままに、それにあの目。絵の川柳。われわれは自分の絵にあれをわすれてた。様式にもたれ、楽して。世の中はかえれない。あの精神が蘭学をつくり、ふかめた。あれがなければ学問ははじまらない。自分はわかった。世の中をするどく見ぬく。人の体の中も病も世の中の病も。そこからにげるな。人まかせにするな。自分でいつも何とかする。そう考える。普段そいつにくるしんでる。なら、なおさら。それが蘭学、オランダ流。学問はそれでおこる。だからオランダに。それをお上のやることとか。神仏の祟りだとか。頓珍漢。楽ばかりする。世の中はかわらない。

*** 060604 錦絵をかえる、桟敷席、奇声
それが今の自分たち。錦絵。あれは絵でない図案。紋章。桐座。人出。木戸芸者。不夜城の賑わい。ラスがちかよる。おい。木戸芸者の踊りを真似。二人が必死でとめる。バレたら。おしまい。本当。本当。打ち首、遠島。踊りはなし。成程。そう。難儀な人だ。気をつけて。しっかりして。こんな人がオランダにも。こういうの人。まかせという。酒のせいか。ラスさん。酒。ハメをはずす。ここでは駄目。首がとぶ。それでなくても目だつ。でかい体。自分はちいさい。それはオランダ人の間。茶屋専用の入口。桟敷に。演目の説明。敵討ち。姉妹、女二人が父の敵をうつ。碁太平記白石噺(ごたいへいきしらいしばなし)の仕立てなおし。大詰めで花菖蒲思笄(はなしょうぶおもいのかんざし)が挿入。わからないとラス。まあ筋は。好きにかいて。。幕の内弁当。酒。心配する。枡席から舞台に高麗屋
の声。ウォーとラス。二人が必死に制止。やっとおちついたラスが絵をかきはじめた。

** 060700 木挽町、河原崎座で奴江戸兵衛を、帰り道
*** 060701 奴江戸兵衛、傑作、ラスの酒癖にこまる、蔦屋の自信
いいと蔦屋。河原崎座の桟敷席。舞台は恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたずな)。奴江戸兵衛を見た。やはり自分の画帳でないととラス。成程。そのオランダ式の黄色い厚紙でなくては調子が。いや、すごい。その紙ならはやい。紙をはがして蔦屋に。すごい。奴江戸兵衛がこっちにとびだしてる。どうだ春朗と。成程と。懐からひろげた両手がいい。ラスさん、天才だ。歌麿にもひけをとらない。まあ酒癖がわるいが。幕の内をたべて、それからお茶。この人、わるい人。お金とられた。そう、祇園の芸子、いろは、身請けするための300両。若殿のいいつけであの伊達与作。はこんでる最中に、おなじ家臣の鷲塚八平次にとられる。奴江戸兵衛がこの悪事を手助け。芝居の筋がわかるか。わからない。よくは。成程。

かくたびに絵がよくなる。このまま江戸にいる。すごい絵ができる。おしいなあ。でも、こっちの首がもたない。まあまあ、絵を手にいれる。命懸け。これが板元、本屋の本望。甲斐性。酔狂な。ふうん。力がある者は皆んな難点が。お前の師匠も兄弟子連も。でも、首はとらない。破門ぐらい。成程、しかしこの奴江戸兵衛は傑作。はじめて見た。江戸の連中も肝つぶす。これを開板。歌麿のしきうつしで。へ、しきうつし、承知した。歌麿。然り。泣き泣き。絶句の春朗。心配するな、重田貞一(十返舎一九)にも。へえ、あの歌麿が。旦那も罪なことを。絵草子全体のため。歌麿は、こんな絵、役者絵の息の根をとめる。江戸の芝居の首をしめる。そういってるが。どっこい、こちらもそんな柔(やわ)では。これでまた役者絵は活気づく。ラスの手元を見た蔦屋。わらいだす。重の井だ。この女、オトコ丸出し。この人も実際はオトコの人とラス。然り、歌舞伎に本物はいない。本当。一人も。

*** 060702 女形に首をひねる
然り。何故。そういうきまり。江戸歌舞伎は。面白い。芝居にでる女の人はおじさん。お白粉一杯。でも全然女の人にみえない。ああ、みえない。たしかに。観客はどうして、わらわない。絶句。ううむ。どうしてかな。これは喜劇では。ない。本当。オトコだ。ありていにかけば、このとおり。蔦屋に絵を手わたす。わらう蔦屋。生き写し。重の井。つりあがった、ちいこい目。紅ぬったおちょぼ口。ああ奴一平か。いい。その目がいい。どんどんかいて。幕の内をたべる。酒はつけてない。この男女蔵の奴一平も、たいしたもの。できあがった下絵をうけとり春朗に。

*** 060703 売れ行きに自信
まあと春朗。そうか。まあ。今はわからない。軽薄なオランダかぶれという。それもいいが。そんなことは。無理しなくて。蔦屋の眼力、かるくみるな。この役者絵はうれる。皆んながびっくりする。びっくり。それより大笑い。これが茶ってもの。かった奴は床の間におく。孫子の代まで。旦那。おおげさでない。ラスさんの役者絵は、このお江戸がつづくかぎり、草双紙屋の店先にのこる。旦那。酔狂か。おおっと蔦屋。鷲塚八平次、これは生き写しだ。面白いかとラスがきく。然り。これは、つまり。打ち壊し。大首絵の打ち壊し。よく、こんな絵がけるものだと春朗。異人さん、たいしたものだ。

*** 060704 絵の出来に満足
わかるかと蔦屋。そんな変てこなくろい棒で。よくこんな線が。ふといまっすぐも、曲がりも。ぼかしも。でも。でも何だ。江戸歌舞伎の打ち壊しでない。でなければよい。打ち壊しがなければ、くさる。屋台骨、虫食い、それがふるい家。だから一度は打ち壊し。自分から。いい。どんどんかいて。遠慮はいらない。それからあたらしいもの。でないと、つづかない。今宵のラスさんは、さえてる。

*** 060705 帰り道、堀端
芝居がはねた。三人は十間堀に。芝居帰りの客が大勢。声高の私語、感嘆詞。水べ。天空にしろい三日月。夜の静寂。いい宵だと蔦屋。夜興業はいいものだ。特に帰りの気分と春朗。ラスがかぶりものをとって深呼吸。かぶりものはと蔦屋。この三十間堀は水がすんでる。白魚が。さっき船でくる時、見たとラス。ここから小屋に。皆んなすき。特に千両連は。魚とれるか。然り。昼間くる。猪牙こいでくる。すると小魚がよってくる。江戸は綺麗。街中にこんな綺麗な自然。あそこに旗。市村座の幟。ラスが幟の竿をとった。何する。まるで鯉幟のよう。ちがいない。鯉幟。

*** 060706 悪ふざけ
おおきな魚の幟。今時分は分限者の家ではさかんにあげてる。自分は鯉幟か。うぉーと。蔦屋が春朗にいう。とめろ。提灯をかせ。この先に番所。春朗がラスをおってかけだす。こらっー誰だ。

** 060800 三十間堀、役人にとがめられる、言い訳
*** 060801 役人が誰何、尋問、絵師か、幟をしらべる
何ごとか。何時と考えてる。役人の大声。ラスの袖をひいて制止。春朗は市村座の幟をラスの体からはずす。夜盗か。否。芝居帰りの町の衆。うかれすぎたと。河原崎座か。然り。倹約の時世をわきまえろ。いずれあの小屋もお咎めだ。夜興業など。座主は手鎖か遠島。うかれてみてた者も同罪。はい。本当に野盗でないな。否、絵師。絵師。錦絵のか。はい。春画でも。否。嘘を。否。まだ駆け出し。いっぱしの格好を。おそれいる。河原乞食の絵など。愚か者が。はい。本当にぬすんだものは。ないと春朗。そこに幟をもってる。否。もうつかってないもの。みぐるみはいで、しらべるが。しばらくと蔦屋。

*** 060802 蔦屋が申しひらき、ラスに不審を
二人に土下座という。自分も土下座。風呂敷につつんだ画帖を膝の上に。自分の監督不行き届き。自分は日本橋、通油町で耕書堂という本屋をいとなんでる、蔦屋重三郎。ここにいるのは絵師の春朗。こっちのおおきいのは舎弟分の羅緒次郎。あやしい者では。芝居見物でうかれて。御無礼。お許しを。あの錦絵のか。然り。それが木挽町に。然り。この時世に、不心得者。お前は近頃、いろいろ面倒を。申し訳ございません。世間からまだ役者絵の需要が。弟子に舞台を。本屋の習い性。お目こぼしを。役者絵か。中見で。然り。で、かいたか。本日はみただけ。かくのは後日。こっちが絵師、おおきいのが舎弟か。然り。本当に絵師か。然り。本当か。本当、神かけて。お前は。羅緒次郎と蔦屋。変な名。オシ。オシか。生まれつき。すこし頭がたりず。おらおらと、それで羅緒次郎と。何と。然り。突然、ところかまわずはしりだして。うつけ故、このようにおきな体に。然り。不憫な。然り。それが絵を。然り、絵だけは。そのまま出板できるほどには。どうしてうつけを店におく。親からたのまれて。役にたつか。否。自分のところは、そんな者ばかり。

*** 060803 ラスがかぶりものをとられそうに、堀におちる
何故かぶりものを。とれ。しばらくと蔦屋。頭のてっぺんに小判ほどの禿。死にほどはずかしい。はずかしくない。役人は手をのばす。しばらく。うつけ故、見られるとあばれます。大男の馬鹿力。お役人に御無礼を。ご容赦を。役人が呼子笛を。蔦屋が立ちあがりラスをなぐりつける。悲鳴。うつけ。声のだしかたが常人ばなれ。蔦屋がさらに大声。けりとばした。ラスはいきおいで堀の中におちた。やがて役人がいけと。ラスを堀からひきあげた。

** 060900 三十間堀、ラスの告白、バタビア人、蔦屋の告白
*** 060901 解放、ラスを堀から、大川へ、ラスの身の上話し
ラスさん、すまないと蔦屋。船の上。画料とお詫びのしるし。財布の有り金すべて。ラスはうけとらなかった。ぬれた着物のかわりに春朗の羽織を。強引に画料分をわたした。うけとり。大川に。佃島が。白帆。月光を反射。海上。江戸はうつくしい。次は何時。4年後。自分が生きてたら、また歌舞伎を。蔦屋さんとラス。

自分はオランダ人ではない。何。バタヴィア人。アジアの国。どこに。日本の南。船で06日。ほう。顔はオランダ人。自分の父はオランダ人。母はバタヴィア人。だからバタヴィアでうまれ、そだった。子どもの頃から。日本のお金もつかった。真ん中に穴のあいた。ふうん。バタヴィアでは日本のお金も。島には日本語はなせる人も。日本の言葉はすこし。へえ。本当か。然り。日本人の言い方ではジャガタラ。ああ。そうか。するとジャガタラから。オランダでなく。否、大学はオランダ、父によばれた。長崎にくる時、途中バタヴィアに。そこもオランダか。植民地。ではオランダに。いつかは。否。ええ。もうオランダはない。フランスに占領。国はなくなった。長崎からバタヴィアにかえるつもり。母と一緒にくらす。死ぬまで。然り。で何時。いつか。たぶん次の参府は。蔦屋さんにあう。

オランダよりバタヴィアがすき。ヨーロッパはあまり。戦争、政治の腐敗、人間の差別、黒人の奴隷。子どもの売買。へえ。学問のすすんだ唐天竺も。ここの方が綺麗。景色も人間も。否、あの木っ端役人。こんな国は。お上の馬鹿ぶり。自分がラスさんに絵をたのんだから。命をかけるのか。ききたいか。へえ。自分は威張る奴が大嫌い。侍でも町人でも。これは性分。

*** 060902 侍、千両役者への反感を告白
歌舞伎役者。千両役者がいた。侍崩れの 札差しと帯刀。もう5、6年前。助六きどりで吉原がよい。堤で乞食に遭遇。饅頭をたらふくくわせて、その首をきった。というのは本人がもう生きたくない。饅頭くったら死んでいいといったからという。この事件はお咎めがなかった。奉行所の与力、その親も親類も、その役者や仲間の札差に借金。これが役者風情の専横。あぶく銭にものいわせる。自分はこんな野郎がきらいだから。

** 061000 日本橋、長崎屋、出発、わかれ
*** 061001 ラスとヘンミーの会話、風俗画の提供
翌朝。長崎屋の前。ラスとヘンミーの声。昨日の外出を問題にする。長崎でも同様の行状。注意。歌舞伎に。日本人にたのまれて役者の絵。ただうつさせてくれと。あとで返却すると。へえ、うつす。そう。うすい紙でうつす。それを裏がえす。板木にはる。紙をしめらす。こすって、できる限り繊維をけずりとる。下の墨を露出させる。彫師が小刀でほる。墨の線以外を。それが錦絵の手法。ふうん。そうすれば私の絵だとわからない。少々風変わりなこの国の錦絵。しかし、うつす。日本人にそんなことが。ペンはない筆だけ。腕のいい職人をつかう 。江戸一の腕という。それで原画をかえしてくれる。かえってきたら、われわれの資料。自分は歌舞伎をはじめてみたオランダ人に。その舞台を写生したから。どんなものだった。ああ、それは素晴しい。絢爛たる舞台。欧州にはない。風変わり。型破り。なにしろ舞台に女が一人もいない。ええ。それでは舞台にならない。女の役はある。それも男の役者が演じる。

それに日本の絵師、出版社の社長にあった。われわれの日本研究に役だつ。社長は蔦屋。絵師は春朗。春朗は風俗を題材にわれわれのため絵を制作と約束。ヘンミーさん。前からほしがってたでしょう。4年に一度。ラスの顔をおぼえてるか。彼らは約束をまもる。ふうん。

*** 061002 蔦屋、春朗とラスの別れ
長崎屋の玄関。乗り物駕籠に。駕籠の中のラス。外に蔦屋、春朗。挨拶。原画をうけとった。検使がうながす。出発。第一期東洲斎写楽と天才出版人、蔦屋重三郎、これが永遠のわかれだった。

* 070000 エピローグ、ラスのその後
** 070100 成田国際空港、教授への感謝、ラスの消息
*** 070101 空港、教授を出迎、謝辞
成田国際空港、第一ターミナル出口。佐藤と常世田。出迎えに笑顔。お世話に。感謝。すべて。おかげでよい本がと常世田。教授は救世主。いなければ自分はどうなったかと佐藤。ハイヤーに。車が豊洲。高層のマンション群。このあたり、当時はまだ海。ヘンミー、ラスの頃と教授。バッグから。

これリスト。江戸参府の商館長、全員。ヘンミーは二度目の参府の帰り、掛川で病死。然り。でも次の1802年はウィレム・ワルデナール。商館長。ラスは。彼は寛政10年のヘンミー客死後、かわって商館長に就任。然り。2年ほどで交代。他の商館長が就任。暫定的なもののよう。ふうん。1799年、ヘンミーがなくなると、翌1799年にドゥーフが後任書記に来日。成程。然り。このドゥーフという人は商館長として名をのこしてる。日本人からも尊敬されてる。出島商館の財政、経営を再建。然り、シーボルトについで有名な人。オランダでも。然り。祖国の名誉をまもった英雄として国王からオランダ獅子勲章を。ネーデルランド共和国が1795年にフランスによってたおされた。このフランスにずっと抵抗しつづけたということで。1814年にオランダが再独立をはたす。その間、ドゥーフは出島にオランダ国旗をかかげてたと佐藤。然り。彼は抵抗、祖国にたよらず、生活必需品も自分でまかなう。日本人に借金。蔵書を売却と教授。

*** 070102 書記、商館長ドゥーフの窮状、ラスの消息、不明
その間いフェートン号事件、オランダ人を人質にし長崎港にはいったイギリス船が福岡藩、鍋島藩に水や食料を要求した事件。そうした激動の時代にドゥーフは窮乏にたえ出島に。同情論が日本人の間にと佐藤。然り、祖国でも。彼は赴任した当時、帳簿の類はめちゃめちゃ。急遽バタヴィアにとってかえし新商館長のウィレム・ワルデナールにしたがって再来日。即刻商館の経営建て直しに。そして自分が商館長に就任と佐藤。3年後。ワルデナールのあと。で、ラスはその間、たんなる穴うめ。然り。ほかにいなかったから。しかも有能なドゥーフからあきれられた。オランダの研究では軽視された。つまりわすれられたと佐藤。まあ。ほとんど追放同然に出島をさった。かも。彼の足どりはオランダにはと佐藤。ざっとしらべた。ない。のこした史料も、日本からもちかえった史料も。そもそも帰国した形跡がない。成程。佐藤さん。あの三人のうち楽候補は誰に。ラス。成程。

*** 070103 写楽の候補者、ラス、
まだ27歳の若者。面白い人物。ドゥーフと好対照と教授。型にはまらず。あばれ者、ちゃんとした商人タイプではないよう。日本人にもそう。大槻玄沢も西客対話に。帳簿つけをしない。なら商人でない。だから商人のタイプでない。ゴッホ、モジリアーニのような。この時代はオランダにとっては戦乱の時代。国が消滅も。そんな混乱の時代に彼のようなタイプがあらわれる。帳簿をつけない商人。はい。オランダにかえってない。まあ、今のところ。もしそうだとすると。写楽研究の盲点。オランダに痕跡をもとめても。ない。追及が立ち往生。ではどこに。バタヴィアと教授。成程。それは盲点。その可能性は。ある。オランダの研究員も。当時、バタヴィアには多数のオランダ人が。成程。もしかしたら彼はバタヴィア生れかも。

*** 070104 消息はバタヴィアか、 写楽現象の真相
つまりバタヴィア人。へえ。混血。自分の想像と教授。では生涯、オランダには。然り。すでにオランダは存在しないから。彼がかいた絵、スケッチ、歌舞伎をかいたスケッチも。ない。あれば大発見。オランダにむかわず、インドネシア。でもオランダのほうがのこりそう。大学もあった。インドネシアでは。さて、オランダは戦乱の時代。成程、オランダにいって消滅。では次の追及はインドネシアと佐藤。想像の人柄なら自分で廃棄かも。出島資料館の学芸員と話した。ほとんど本国にもちかえったと。出島には何もと佐藤。成程。銀座、お茶の水。出版はと教授。間に合う。大阪市立図書館でみつけた肉筆画は何だっのかと佐藤。何の意味もない。無価値と教授。

佐藤が謝辞をくりかえす。教授がいう。写楽は日本の宝、正体が外国人となれば、今後猛烈な批判が。然り。だが写楽現象は「しきううつす」楽しみ。当時、大はやりで歌麿を激昂させたしきうつし。蔦屋が逆手にとって、おごれる役者たちに痛烈な皮肉の一矢。という事件。外国人の絵をつかって。はい。これは時として危険。これを蔦屋はきびしく隠蔽。世間に、特に同時代の仲間に。これがわれわれを目くらまし。しかし当時も。だから。浮世絵類考も何もしらなかった。蔦屋がかくしたから。

なら、写楽現象は蔦屋そのもの。一人の外国人の才能だけでは。写楽の名作群はそれがなくては誕生しなかった。蔦屋の信念の故。それから歌麿の才能。ラスの才能。ふうん。この三者 が一同に会したから。世界三大肖像画家が世界にむけて国をとじてた極東のこの国に。はい。握手。またリベルテで。はい。わかれた。これからいそがしくなる。浜田山の家の始末。息子の裁判。そして離婚。力がもどってきた。生きぬく。あの蔦屋のように。

* 080000 感想
推理小説の作家は万能の神、という存在である。作者が創造した世界で伏線、トリックをはり、その迷宮中で翻弄されながら結末にいたる。そこで大いなる満足をえることが読書の醍醐味である。読者は作者がきめた犯人をうたがうことは、ゆるされない。さて今回は写楽の正体は誰か、である。数々の論争があったがまだ定説はない。

作者はこれまで提唱された別人説を紹介、批判し、最終的にその正体をしめしてくれる。そこにいたる筋道は委曲をつくし、この作者らしい論理で真相をおいつめてゆく。それは面白く、斬新で充分に納得させられる。しかし、あの推理小説の結末があたえることができる満足感はえられなかった。これは名探偵が見事に真相にたっしたが、犯人はにげてしまった。その時のもの足りなさと共通する。

この作品は、1) 歴史の論文でありながら、推理小説仕立てで提供しようとしたものか、2) 歴史上の謎を推理小説として提供しようとしたものなのか、よくわからなかった。つまりこの作品において江戸時代に登場する事件、事実を史実 としてあつかうべきか、よくわからなかった。そこでこの後の評価においては推理小説として評価するので、一言おことわりする。

* 090000 テーマ
写楽という異彩の浮世絵師の正体を斬新な目でさぐることである。これは歴史の専門外の人もふくめおおくの人びとをひきつけた。このことを作品中にも充分説明している。

* 100000 評価
1) 写楽の正体は、しきうつしをする楽しみの意味。長崎出島のオランダ商館員、ラスがかいたスケッチを、歌麿がしきうつしし、それを彫師、摺師をへて出版。これを出版人としてすぐれた眼力の蔦屋が全体をプロデュースし実現させた。つまり写楽はこの三者の合作である。こう作者は主張する。

2) 原理的可能か、現実にありえるか、という問題は、現実にあり得るかにしぼられる。純粋な学術論文としてあつかわないことはすでに、ことわった。では推理小説として成立しているかが問題となる。すると蔦屋という人物が1) ラスの才能もみぬき、2) 歌麿に浮世絵として仕立てる仕事をさせる。またそれを説得し、3) 時代に革新をあたえるほどの傑作をうみだす。それほどの人物であるといえたか。それが問題となる。

3) 蔦屋は、大衆文化をあいし、出版をつうじそれを先導した。民衆に楽しみをあたえる歌舞伎をあいし、その発展をねがった。他方、貨幣経済の台頭を背景にのさばった千両役者、 札差の横暴をにくんだ。同時に鎖国に安住しひとりよがりのお上に反発した。またせまりくる列強の圧力にひそかに怖それをかんじてた。写楽の大首絵はこのような閉塞感にみちた現況を打破しようとするものであり、おごりたかぶった千両役者への批判の一矢だった。

このような人物が推理小説の中でリアリティをもった人物として存在しうるかである。わたしは、すこし近代的、あるいは現代的すぎるようにかんじた。

4) 上記1)の結論にいたるに、あたり蔦屋の人間像にせまるほか、浮世絵の歴史、錦絵の出現、役者絵と歌舞伎界の関係、日本の対外関係、政治の怠惰、腐敗などを丁寧にたどっている。写楽の謎の特徴を明確にし、別人説を紹介、批判してる。およそかけるところがない。

5) 上下二巻の大作において、オランダ語で福内鬼外と署名された謎の肉筆画を発端として上巻においては平賀源内が生きのびて写楽となったという別人説が追及され、やがて下巻のオランダ人絵師の登場にうつる。上巻において読者の目を別にそらし下巻で真相にみちびくのは、長編の推理小説の常道かもしれない。しかし歴史論文のような体裁であるこの作品では、どうもなじめない。違和感をかんじた。

(おわり)

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