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謎解き島田、写楽 閉じた国の幻(上) [島田荘司]

* 010000 はじめに
壮大な構想と迷路のような複雑な筋で読者を幻惑し、最後に感動の結末を与える島田荘司さんの「謎解き島田」を提供する。中身はいわゆるネタばれに溢れてる。本作品を未読の方にはすすめられない。

* 020000 現代編I、謎の肉筆画、平賀源内、新説
** 020100 自宅、浮世絵研究者佐藤が考える、不思議な署名
*** 020101 奇妙な女の顔
佐藤信三の書斎。佐藤は一枚の肉筆画を見たそ。和紙、毛筆の女の顔。絵は褐色でおおきな「日」の字の中。こげている。火事にあったもの。この絵も家が火事。やけ残り。江戸期の火事か。そうでないか。不明。ながい顔、ちいさな豆粒のような目。町女。おちょぼ口。デフォルメされた顔。だが腕はよさそう。無彩色。浮世絵の錦絵の下絵か。異色。美人画にならない。だが、浮世絵に関心がある者は注目。刺激的。自分は北斎の研究家。N大学の江戸美術を講義。その後、日本浮世絵美術館の学芸員。北斎を渉猟、著書もある。めずらしい。その一つ。

*** 020102 不思議な署名
左側に毛筆で不可解な欧文。江戸期にはめずらしい。「Fortuin in Duivel buiten 」。英語でなさそう。欧文の最後に「画」という字。しかし書体がちが特殊。「一」と「田」をつなぐ縦棒がない。この署名の心当たりは二人だけ。まず歌麿。「歌麿筆」だが、初期にこの書体。ではこの絵は歌麿か。否。画風がちがう。歌麿は独自の美学、こんな顔はない。もう一人は。そこに声。開人、息子が。絵を引き出しに。ガレージにおり、助手席に子ども。甲州街道に。やがて首都高から六本木へ。また欧文につき考える。

意味は。特殊書体の「画」から、かいた者の名前。すると欧文の意味は考えても無意味。固有名詞か。しかしおかしい。この着想は昨夜のこと。まだ、意味の解読、もしあるとすればだが、まだやってない。あの絵を手にいれた経緯。

*** 020103 出あった契機、蔦屋重三郎
自分の著書の読者からの手紙。大阪西区の北堀江にある大阪市立中央図書館に勤務。地下に木村蒹葭堂の資料。その資料箱の中に、八丁堀松よしと名づけた葛籠に版木にまじり一点の肉筆画、興味をひかれた。八丁堀松よしは蔦屋重三郎の親戚筋ということも。調査を推奨。あまり期待せず数ヶ月後に訪問、驚愕。木村蒹葭堂は江戸中期、元文から享和年間(1736~1804)の人。丹念な日記をのこす。司馬江漢、谷文晁、春木南湖、丸山応挙、池大雅が登場。八丁堀松よしは、料亭か茶屋。蔦屋重三郎から版木をあずかる。それを所蔵の蔵が第二次大戦で戦火、版木は消失という。蔦屋重三郎は寛延3年(1750)から寛政9年(1797)の人。自分は2冊目の著書のためかりうけ、調査分析中。

* 030000 ふたたび警告
この後に、ネタばれの内容がつづく。本作品を未読の方に閲覧をすすめない。

写楽 閉じた国の幻〈上〉 (新潮文庫)

写楽 閉じた国の幻〈上〉 (新潮文庫)

  • 作者: 島田 荘司
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2013/01/28
  • メディア: 文庫



* 040000 現代編I(続)、謎の肉筆画、平賀源内、新説
** 040100 六本木、回転ドアで死亡
六本木ガーデンの駐車場にはいれなかった。路上に駐車。書店に。家庭に問題をかかえ、美術館をおわれ、研究フィールドからもおわれ、一発逆転をねらい、2冊目の本を。北斎の名声が再浮上、今日はアニメ化された北斎の原画とフィギュア展にきた。洋書店はアメリカの研究所を調査。成果なし。車をうごかそうとしたが追加の貨幣なし。開人がいそぎ、とびだす。回転ドアにはさまれ死亡。

** 040200 病院、錯乱、非難の声、自分の過去を回想
三田のS会、中央病院へ。救急車内。病院廊下、即死と説明。回復に数日。我をとりもどす。過去を回想。東大の4年間。大学院を希望。N大の修士課程。浜田山の実家から通学。意識がもどる病院で嘔吐。妻、千恵子。立ち去る。病院のベンチ。昭和62年(1987)、大学の講師。縁談、M物産の重役の娘、千恵子、N大学卒業。昭和34年(1959)生れ、自分ど同年のうまれ。結婚。大学の政変。長野県塩尻の日本浮世絵美術館の学芸員。電子音。岳父の叱声。

** 040300 病院、回想、開人の誕生
叱責。集中治療室、霊安所。回想。N大をおわれた以降。両親の体調不良、病床。不妊治療。北斎研究、フィールドワーク。出版の見込み。美術館での軋轢。離職。父死亡の浜田山マンション一階で学習塾。千恵子鬱病。両親の死亡。開人を妊娠。36歳。1995年。開人6歳。

** 040400 自宅、妻と口論
自宅。狂乱の妻。

** 040500 マンション、葬儀、第三者調査委員会
浜田山駅。井の頭線、渋谷、神保町、明大通り、マンション八階の部屋。寝室のテレビ。報道。部屋を交換したと自覚。浜田山の学習塾の将来を懸念。書斎の収蔵物の破壊を懸念。大阪市立の肉筆画は。義父の秘書から連絡。四谷で葬儀。電話連絡、第三者による調査委員会、出席要望。父親だから。

** 040600 神田、委員会に出席
神田錦町の学士会館。会議室。M建設の村木。小児科医の反部、N自動車の小宮山。

** 040700 神田、片桐教授が登場、事故原因の判明
東大工学部片桐教授。回転ドアは軽量でなければならない。大原則があった。

** 040800 お茶の水、絶望、自殺の失敗
日本に導入され、改良がほどこされ、大重量。大原則は日本のメーカーに伝承されず。いらつく開人をとりにがした。その原因は日本のパーキングメーターの仕組み。アメリカのものでは。これも日本流の改良。衝撃。会議が終了。お茶の水駅を橋の上。下を。飛び降りよう。ひきもどされた。

** 040900 マンションへ、フォーチュン・イン、デビルズ・アウト
転落。教授。家まで。何故、たすけた。ドアプロジェクトに参加したから。何故、死ぬ。直接の動機は大切な資料をなくした。大阪市立中央図書館の資料の複写。これか。然り。マンションがちかづく。生きる力がない。何をいえば元気が。しばらくの沈黙。コピーの絵を、これは何と。オランダ語。意味を英語でいうと、フォーチュン・イン、デビルズ・アウト。

** 041000 マンション、福は内、鬼は外、写楽
教授の出現は。自分は本郷通りの坂をのぼる時、人にぶつかった。その際に資料をおとした。だろう。それをひろう。わたす。それで自殺の現場にと推理。

天啓。大阪市立中央図書館の資料の意味。「福は内、鬼は外」。意識を集中。伝統の掛け声。自分は不知。何者かが。結論を。それを夢のかたちで。誰が。自分の脳。潜在意識。否、何者かだ。衝撃。「福は内、鬼は外」の先にある結論。これの衝撃だ。大阪市立中央図書館の発見。その時も衝撃。

豆のような両目、たかい鼻、おちょぼ口。この絵は浮世絵らしくない。売り物らしくない。醜女(しこめ)。江戸の絵草子屋は当時の情報発信センター。メインの商品は錦絵。役者絵、遊女絵、茶屋の看板娘。美男美女。先年までのブロマイド屋。定型的な美形以外は売り物にならない。とこが、例外が。東洲斎写楽。役者をからかった風。皺も。男の役者から女形まで。それで一時代をつくった。そして歌麿、北斎にならぶビッグネーム。世界にとどろく。大阪市立中央図書館の絵。似てる。そう感じた。写楽。まさか。と思った。だが紙は江戸期。あの絵には。天才写楽のみができるデフォルマシオン。自分の鑑賞眼にかけて断言。だがそれだけでない。写楽の正体をしめす暗号がわかった。なら、その名がいえる。

** 041100 マンション、自分の着想を反省、比較する
*** 041101 クルトの写楽説を見なおす
9時。義父の秘書の三宅に。写楽の資料、着かえを依頼。確認のため湯島図書館に。写楽探しの諸説。ドイツの美術史家、ユリウス・クルト、阿波藩の能役者、斎藤十郎兵衛説。さらに寛政7年(1795)に変名、転職、絵師歌舞伎堂艷鏡。のちに艷鏡は研究で狂言作者の中村重助と判明。ほかに別人説。写楽として活動する以前にその能力により有名。絵あるいは別の能力。その人物が一時期、写楽として活躍。これが有力となった理由。当時江戸一といわれた板元の蔦屋重三郎が東洲斎写楽という無名の絵師の作をすんなりと、それも大量に出版。さらに黒雲母(くろきら)摺りという歌麿、北斎クラスのものにするような待遇。それは正体が大物。というもの。とすると。写楽画でえた名声をすて、10カ月で忽然と姿をけした。また元にもどる必要。写楽の成功に固執しなかった。納得。具体的には。

*** 041102 別人説を見なおす
絵師、円山応挙、絵師、谷文晁、浮世絵師、葛飾北斎、浮世絵師、鳥居清政、浮世絵師、歌川豊国、絵師、酒井抱一、絵師、司馬江漢、絵師、片山写楽、浮世絵師、喜多川歌麿。絵師以外は。俳人、谷素外、戯作者、山東京伝、戯作者、十返舎一九、テレビでさわがれた歌舞伎役者、中村此蔵(このぞう)、狂言作者、篠田金治、さらに蒔絵師、飯塚桃葉、欄間彫師、庄六。

*** 041103 北斎説を批判する
自分は北斎の研究者。北斎説に批判。この説のそもそも。個人本であった浮世絵類考。これは浮世絵師の人名録。これをかきうつし。文政年間(1818から30)の写本、風土本に、「写楽、東洲斎と号す。俗名金次、是(これ)また歌舞伎役者の似顔絵を写せしが、あまりに真(まこと)を画(か)かんとてあらぬさまにかきなせしゆゑ、長く世に行なわれずして一両年に止めたり、隅田川両岸一覧の作者にて、やげん堀不動尊通りに住す」とある。この情報の出所不明だが、隅田川両岸一覧、これは正確には「絵本隅田川両岸一覧」。文化3年(1806)に葛飾北斎の著作。これから北斎説が。しかし、同本の後世の写本に「写楽、天明寛政年中の人、俗称斎藤十郎兵衛、居江戸八丁堀に住す、阿波侯の能役者也(なり)。号東洲斎」という記述。これをひいたユリウス・クルトの研究書「SHARAKU」で有名になったので、この北斎説は写し間違いか誤情報。と現在は無視。自分も同感。初期は北斎でない。しかしそれ以降ならあるかも。写楽の概説。

*** 041104 あらためて写楽の全作品を検討する
全作品が140数点、それを4期に。幕末に世界に散逸。正確な点数は不明。

1) 第一期は寛政6年(1794)の5月。江戸3座、都座、桐座、河原崎座の夏の28点の大首絵。
2) 第二期は寛政6年7、8月のえど 第三座の秋の上演の37点と都座の楽屋頭取、篠塚浦右衛門の口上図。66
3) 第三期は寛政6年11月と閏11月の江戸三座の顔見世狂言の芝居の役者絵が58点、追善絵が2点、相撲絵が4点。
4) 寛政7年正月の桐座、都座の新春しばい の10点と相撲絵2点、武者絵2点。

*** 041105 写楽の謎を分析する
写楽はすくなくとも140点余を寛政6年5月から翌寛政7年新春にかけての10カ月間に。すべて。単純計算で2日に1点、このハイペースも謎。ちなみに歌麿も蔦屋とかかわってだした絵がほほ同じ、しかし写楽より長期間。この謎にこたえょうというのが別人説。写楽絵がヒット。すると。大物なら例あり。また力量、量産も可能。では誰が。となる。困難。後に本人が自分が写楽という。何故だまってた。説明困難。犯罪でない。春画でない。かくす理由は。説明困難。ふと周囲に。あり得る。この謎の絵師。なら終始ちかくにいた人物。蔦屋工房の絵師、歌麿、北斎、蔦屋自身、食客だった十返舎一九、蔦屋出入りの彫師、摺師、戯作者、狂歌人、何故正体にふれない。説明困難。

*** 041106 版画家、池田氏の説を検討、奇妙な肉筆画の出現を考える
版画家、故人の池田満寿夫氏。大首絵に着目、おおきな顔、ちいさな手、バランス発想に無頓着。プロでない。素人。自分は同感、すくなくとも浮世絵世界、さらに歌舞伎世界にもくわしくないと見る。池田満寿夫氏は蒔絵師の篠塚桃葉。狂言作者の篠田金治。戯作者の十返舎一九。能役者の斎藤十郎兵衛、欄間彫師の庄六。歌舞伎役者の中村此蔵。となるが、蔦屋は素人と承知で依頼しすぐ出版。黒雲母摺りの待遇。すると、蔦屋が以前からしってる。あるいは血縁者。池田満寿夫氏は十返舎一九と中村此蔵の合作と指摘。面白いが自分はちがう。歌舞伎のことをよくしらない。この感じがひっかかる。いずれにしても写楽の正体は謎、これからも。ところが自分に奇妙な肉筆画が。左肩に不思議な欧文。その意味は「福は内、鬼は外」。欧文の末尾に特別な書体。ということは。この肉筆画が写楽。なら。「福は内、鬼は外」と名のる。はず。

** 041200 湯島へ、図書館で福内鬼外、源内が写楽の正体か
*** 041201 お茶の水、江戸時代の様子
義父の秘書の三宅が到着。荷物を受取り。湯島図書館に。お茶の水橋。東京医科歯科大、順天堂大。これは元は天保9年(1838)に江戸薬研堀にひらいた蘭方医学塾。幕末、進歩的文化人は、長崎にゆき蘭学をまなんだ。お茶の水から神田にかけた一帯は大学関係の施設がおおい。それはここにおおきな空き地があったから。JR線の南は武家地。さらにその南の靖国通りから江戸城の掘割にかけては広大な防火地帯。開成学校の前身は幕府老中の阿部正弘が開設した洋学所。阿部正弘は洋学禁止令を解除。踏み絵を廃止、大船建造禁止令を廃止。さらに身分主義にさからい榎本武揚など平民をオランダに留学。洋学をおしえる学問所を開設。お茶の水橋から湯島に。

*** 041202 湯島の様子、そこにいた江戸の奇人
湯島には江戸時代、この地にすみ何度も物産会を。高名な奇人が。風流志道伝という冒険小説をかき、春本をかき、狂歌をものし、浄瑠璃台本をかき、日本で最初に油絵をえがき、弟子にこれを指導、精密な博物図鑑をつくり、 鈴木春信とともに絵暦交換会のための多色摺り技法の錦絵を完成させ、浮世絵の隆盛に貢献、摩擦起電機つくり、温度計をつくり、気球を設計、不燃布までつくった。本草学者と薬学の知識から東都薬品会を湯島で開催。解体新書の杉田玄白と親友。夏場の売上不振になやむ鰻屋のため土用の丑の日に鰻をたべる習慣をつくった。明和6年(1769)に歯磨き粉、漱石膏の今日いうところのコマーシャルソングをつくった。「福は内、鬼は外」との関係である。この人物を連想。湯島図書館で確認。中の書棚の人物伝をみつけた。平賀源内。

*** 041203 平賀源内、筆名、福内鬼外、写楽の正体か
それによると、江戸時代の発明家、博物学者、小説家、浄瑠璃作家、讃岐、志度に、高松藩の小吏、白石茂左衛門の子としてうまれた。父の死後、家督をつぎ平賀姓を名のった。長崎に遊学した後、藩務を退役、妹婿に家督をゆずる。大坂をへて江戸にでると湯島聖堂に寓した。宝暦7年(1757)に田村藍水とともに日本最初の物産会をひらく。9つの浄瑠璃台本を福内鬼外の筆名でかいてる。発見。驚。あの肉筆画は平賀源内か。もしあの絵が写楽自身の筆、なら写楽の正体。

ここでさらに考える。可能性はある。充分な絵心。長崎で油絵、日本で一番最初に油絵。それは西洋の女の顔。また秋田藩に。この技法をつたえた。人を食った性格、歌舞伎役者をからかった風な辛辣な表現。ありそう。歌舞伎の世界、浮世絵の世界をまるでしらない。ありそう。あるいはしってて、これをこわす。あり得る。しかし疑問。これまで平賀源内説はない。何故。

** 041300 お茶の水、教授と遭遇、写楽、源内説の破綻、すでに死亡
お茶の水駅モールの外、西側のベンチ。声。教授。今日は何を。図書館。何がわかったか。自分の命運。どう。つきた。何。写楽。で。その正体が謎。成程。自分は浮世絵研究に命をかけてる。成程。教授が自分の命を昨夜救助、写楽の正体も。それで。福内鬼外とい浄瑠璃作家。それで。奇才といわれた。浄瑠璃の台本をかいた。その筆名。だから自分がかいた肉筆画にもそう署名した。洒落心。オランダ語で。当代一流の文化人。ふうん。自分は欧文の意味がわからない。しらべようとした。子どもの事故。頓挫。呆然自失、絶望。あのコピーが命をつなぐ唯一のもの。それを紛失。自殺を。教授がすくった。聖橋で。教授の示唆で平賀源内を。これで生きる勇気。これまで平賀源内説はない。新発見と。ところで彼の没年を調査。写楽画は寛政6年(1794)から7年(1795)。平賀源内は安永8年(1779)に没。佐藤はわらう。やがて痙攣まじりと。

** 041400 病室、教授の助言
病室で覚醒。眠り。また。看護師。救急車か。然り。今は何時。7時40分。朝。トイレへ。声。教授。謝辞。医師によれば過労。佐藤がはなす。絶望の後に大発見。しかし没年で破綻。成程。では、あの絵は。写楽らしい。署名にもゆかり。でも15年も前に死亡。それでたおれた。然りと佐藤。仕事に没頭しては。これが仕事、これしか。でも体にわるい。もう涙がでないのか。いじめが趣味か。二度たすけた。たぶんそちらが趣味。失礼だが子どもはと佐藤。無し。では結婚は。無し。では、子どもをなくし、妻に罵倒される気持はわからない。でもわかることも。何。浮世絵は佐藤の疫病神。やめた方がよいと教授。

** 041500 病室、体調不良の佐藤が熱弁
*** 041501 教授が体調を心配、浮世絵を批判、反論
佐藤はしばらく沈黙。浮世絵はポルノグラフィと教授。成程。でも風俗史の一部なら。アートでない。否、しかし学問としては風俗史の一部。ゴッホ、ゴヤと同列。とはいえない。でも初期のゴッホは下手。下手もふくめゴッホ、モジリアーニの芸術にたいする姿勢を評価。教授にとっては浮世は尊敬の対象でない。風俗史としての意義をみとめる。はあ。佐藤は北斎の研究家であると教授。知悉と佐藤。東海道五十三次、風景画の大家。否、広重。北斎は富嶽三十六景。で風景画の大家。春画はかいたかと教授。然り。歌麿、国芳は。然り。狩野派の絵師は。然り。それは権威筋だから。否、いる。無名の若手は。それは需要がなかったから、性器がかかれてない浮世絵のほうがめずらしい。然り、春画に最高の技術があったとも。ゴヤの着衣のとマハと裸のマハでは裸のほうが気合がはいってる。腿に静脈がうっすらとうかぶ。教授は性がえがかれてるから軽蔑ではと佐藤。

*** 041502 春画の意義を、体調を心配
否。ほう。性の吸引力はつよい。西洋にも女性をよろこばせる淫靡な機械があるが、これは機械工学でなく風俗史の一部。しかし有名絵師で春画がない絵師。誰。写楽と佐藤。ふうん。ただ一人かと教授。まあ。成程。その意味でも謎。当時、有名か。浮世絵類考には否定する記述も、しかし自分は有名と判断。うれたからか。然り、初期大首絵には異版がおおい。つまりうれた。栄松斎長喜の絵の中の団扇に。写楽画が。享和2年(1802)に式亭三馬の黄表紙、稗史億説年代記(くさぞうしこじつけねんだいき)に著名な絵師の勢力分布の挿絵。写楽は独立した島としてる。成程、なのにかかなかった。然り、もう時間が。そろそろ。まだ話しがのこってると佐藤。

*** 041503 夕食にさそう
体にわるい。あなたは謎と佐藤。たちあがった教授に、今夜食事。病院の食堂か。もうでる。すずらん通りのリベルテで。体は大丈夫か。ことわったらまた、とびこむ。笑。今夜7時。教授がでていった。声、医師が体調をきいた。午前中はゆっくりやすめ。MRI検査の日程がとれるかしらべるといって、でていった。携帯電話。S選書の常世田。子どもの不幸に弔慰。週刊Tに佐藤の北斎論文は間違いだらけと浮世絵同人研究会の記事。衝撃。

** 041600 赤門、佐藤非難の記事に対抗、新説出版へ
常世田と赤門そばルオーで。挨拶。記事を見る。不動明王図は小山岩次郎の贋作と佐藤が主張。間違い。為斎(いさい)である。などを誤りを次々に指摘。北斎は多数の画号。弟子にうる。そのため贋作がでやすい。こんな状況もあるから贋作問題は日常茶飯事。これで一般大衆に佐藤がいいかげんという印象操作をしてる。しばし茫然。教授や病院の医師がこの記事を見てたことに気づいた。常世田がいう。この会の会長は友田。K物産の会長。六本木の回転ドア事件のミツワ・シャッター、この会社の親戚筋。さらにいう。北斎卍研究を世にだしたのは当社。このままでは。ひっこみがつかない。この会はK舎でこの内容を出版するという。本当、何時。6月25日発売らしい。では、こちらも。6月20日発売でやらないかと常世田。泥仕合をしたくないので、別の分野ですごい新説をださないか。

** 041700 赤門、平賀源内説を説明、執筆作業へ
原稿の締切は。4月20日。ミツワ・シャッターは倒産の危機、友田もおいつめられてる。実は、あると佐藤。何。写楽。へえ。北斎卍研究の読者から手紙。不思議な肉筆画をしる。写楽か。かも。すごい。絵の署名に「福は内、鬼は外」とオランダ語で。ひょっとして。平賀源内。驚。成程、いわれてみれば盲点。でも、はまりすぎと佐藤。たしかに平賀源内ならやりかねない。でも、平賀源内説は。きいたことなかった。然りと佐藤。そう。こんなすごいことがまだのこってるか。で調査。案の定。15年前に没。ああ。挫折だが、ではあの肉筆画な何か。福内鬼外は写楽だけ。然り、その絵は今どこに。神田のマンション。見たい。ゆくか。ちょっとまってと常世田。

平賀源内は神田橋本町の自宅で。殺傷事件。米屋の九五郎を斬殺。その動機は。借金説、発狂説など。小伝馬町の牢に。断食、一ヶ月後に牢死。という。然り、友人の杉田玄白が墓石に。「ああ非常の人、非常のことを好み...」。否、遺体はなかった。罪人の遺体は遺族にわたされない。遺体なしで墓石を。だから生存、逃亡説が。宝船通人之寝言などにと佐藤。それは小説。実際に生存したという風聞がほかに。本当かと佐藤。しらべる。史料として。つかえる。これは面白い。説得力をもって展開できれば北斎の揚げ足取りなどふっとぶ。常世田はマンションまで。コピーをしたいと資料をもってかえった。湯島図書館で調査。学習塾の竹富に連絡。塾を一時閉鎖することとした。教授に連絡、退院したので予定どおりと連絡。図書館をでた。お茶の水橋。神田川をわたる。明大通り。すずらん通りへ。

** 041800 神田、リベルテで教授と会食、江戸の歴史を解説
*** 041801 明暦の大火
リベルテ。教授がおくれてテーブルに。パスタ。すずらん通り付近を説明。裏はすぐ。お堀、江戸城。明暦の大火で天守閣を。この教訓から火除け地を。靖国通りから南は広大な空き地。振袖火事、少女が上野の花見で美少年の寺小姓に恋。彼がきてたのとおなじ柄の振袖をきてた。恋の病。死亡。棺に振り袖を。供養。当時の習慣。法要がすむ。寺で働く者が供物の衣類を。古着屋に。それをかった娘が翌年の同日に死亡。それが棺に。また寺にもどる。古着屋に。それをかって娘がまた次の年の同日に死亡。その振り袖がまた寺に。この本郷丸山の本妙寺でこの振り袖を供養、火に。風にあおられ、もえながらまいあがるり、江戸に大火災。日本史上最大の火事。ロンドン大火、ローマ大火とならぶもの。外堀の内側はほほ焼け野が腹に。お城の天守閣は再建されず。そのかわり、このような大規模の火除け地も整備。千住大橋だけだった隅田川に、火災以降に両国橋、永代橋と。火事の原因に幕府陰謀説も。振り袖が原因は本当か。作り話。本妙寺隣りに老中安倍忠秋の屋敷。そこが出火元。真相らしい。

*** 041802 幕府の都市計画、蔦屋の耕書堂
火事の後に幕府の都市計画で、江戸三座は浅草にと教授。否。その移住は天保13年(1842)。明暦の大火でうつされたのは吉原遊廓。明暦3年(1657)に浅草日本堤の新吉原に。吉原はもともと日本橋の芝居町に隣接。成程、蔦屋重三郎が活躍した、いわゆる浮世絵の黄金時代は。写楽があらわれたのは寛政6年(1794)。その頃と佐藤。明暦の大火の後かと教授。然り、吉原は移住、芝居町はまだ。という時代。蔦屋重三郎の書店は。耕書堂、出版社兼小売店、日本橋通油町。天明3年(1783)からここに。一流書店が軒をつらねてた。書店街。

** 041900 神田、浮世絵の常識、常識外の写楽、魅力
*** 041901 浮世絵の常識
寛政という時代は蔦屋の耕書堂と芝居小屋はちかかった。蔦屋も出入りの絵師も芝居小屋にかよった。浮世絵の題材に役者がおおかった。然り。浮世絵は、ブロマイド、スター写真。当時のスターは役者、遊女、相撲の力士。これらが3大スター。浮世絵のモデルもこういう人たち。美人画なら遊女、茶屋の看板娘。役者絵もおおい。ブロマイドなら対象はスター。然り、でないとうれない。つまりそれ以外の錦絵は存在しないということ。それに、きれいにかくものと教授。然り、浮世絵は似顔絵。どんな顔をしてるかという報道。しかしきれいにかかなければ。きれいに、それ以外は存在しない。春画もそう。つまりうつくしくかいたスターの絵と教授。然り、ところが一つだけ例外が。

*** 041902 うつくしくかかない写楽
写楽の絵の話しをしてよいかと佐藤。したいのなら。うつくしくかかなかった。リアルに辛辣に。写楽のことですね。皺も。特に女形、遠慮なく醜女(しこめ)に。錦絵の常識からはずれる。でもうれたと教授。然り。異版が。第一期の大首絵、28点誅、21点に異版。成程、作品の力。然り。 大首絵とは。全身像でなくバストアップ。それが写楽画の典型と教授。然り、代表作はすべてこれ。また写楽はスター以外もかいた。いわゆる千両役者を対象だったのに。うれないから、やらない筈と教授。然り、大衆の興味がここだから。ところが無名のごく下っ端の役者も。こんなことした絵師は写楽だけ。

それはきれいな人でなくてと教授。然り。でも、うれたのか。おそらく、うれた。異版があるから。もしかしたら子どもにうけたのかも。ああ、面白い見方。あり得るかも。黒目があんなによって、アニメ的と教授。それも後世にあたえた影響の一つ。黒目が中央による。鼻のちかくに。これが後世の役者絵の典型に。写楽以前にはなかったか。すくないと思う。後世におおくなるが、ただ中央によせてるだけ。そんなものかなと。ふかい考えがない。

*** 041903 写楽の創作精神
これも写楽があたえた衝撃。その証拠。うれない。真似しないと教授。然り。よってるだけ。然り、迫力がない。写楽のは筋肉の緊張とともに、目もよってる。だから必然性。体にたまる。力が。あれは役者の見得切り。その瞬間をかいた。だから両手のつっぱり。肩のいかり。口もとの緊張。表情のこわばり。真ん中によった黒目も、そういうものとともにある。目だけでない。総合効果。ふうん。

写楽のどれかと教授。奴江戸兵衛(やっこえどべい)。世界の名作にない。創作メソッド、迫力を。えっ、そう。然り、かって世界の名作の複写をならべて比較した。モナリザとか。然り、フェルメールの真珠の首飾りの少女、レンブラントのサスキア、フランシスコ・デ・ゴヤのマヤのアップ、エルグレコ、ルノアール、ミケランジェロ、...。鳩尾(みぞおち)の上の、上半身と顔をかいた肖像画。

比較。で。もちろんどれも傑作。しかし奴江戸兵衛に比肩し得る絵画は一枚も。へえ、どういう意味。傑作。が、それは描写の筆力といことと佐藤。へえ。ところがすべて静止画。スタジオの写真撮影とおなじ。被写体にうごくな。そう指示、撮影。成程。だから花瓶の花、籠の中のリンゴ。写楽はちがう。動体の撮影。うごいてるもの。一瞬の姿。ぴたりと。成程。だから写楽からは筋肉にたまった力が。欧州名画からはみんな力がぬけてる。成程。こちらをまきこんでくる腕力がない。両者は別物。はあ。だから写楽の創作精神がすごくすすんでた。200年すすんでた。

*** 041904 傑出した写楽の評価
あれは人間の動きを一瞬こおりつかせたもの。対象へのアプローチが全然ちがう。写楽以外の浮世絵も静止画と教授。然り。にたものは。欧州のものではと教授。ドガの踊り子。成程。でも厳密にはちがう。あれは光と陰の陰影の構図の妙。作家の思いはそこ。目が踊り子単体に肉薄してない。ではレンブラントの夜景のようなものかと教授。然り。つまり他になかったといこと。否、一つだけ。あつめた名作のうちに。どれ。どれだと思う。絵画ですか。否、彫刻。ほお。快慶の仁王像。ああ。男の筋肉が最大限力をこめた一瞬の凝固、定着。日本にはああした表現の伝統があるのかも。連綿とつづいてるのかと教授。否、連綿とは。数すくない天才が歴史の一瞬にあらわれて、ああした仕事を。連綿でないとして、その解釈はすばらしい。はじめてと教授。

*** 041905 写楽の魅力の発見
写楽の魅力をはじめて理解できた。誰かが。写楽はレンブラント、ベラスケスとならんで世界3大肖像画の一人だと。ユリウス・クルトと佐藤。写楽の創作精神に気づいたから。きっと気づいた。表現はちがうが。大変な才能と教授。そう、写楽は。否、あなた、佐藤さん。えっ。浅学非才。否、もっと自信を。非凡な能力をもった。えっ。運勢なら非凡。もっともツイテない男。すぐちゃかすと教授。うれしい。あなたほどの人にいわれて。だったら女房にいって。では紹介をと教授。でも一緒するのはライオンの檻に一緒にゆくようなもの。自分もライオンかも。へっ。そんな真剣におどろくこと。でも悲観的ばかりは。そのとおりに。言霊の力がと教授。言霊、日本人もしらないような。東大教授なら当然か。このわたしとは月とすっぽん。自虐が楽しみか。否、聖橋のことを思いだしてと佐藤。

** 042000 神田、写楽の正体、別人説、写楽は写楽説、蔦屋の英断
*** 042001 写楽の正体は
クルトの評価は定着かと教授。まあ日本では。クルト自身の評価も。日本で。ううん、自分はすき。写楽の再評価の時代をひらいた。世界にか。欧州、日本での高評価はおまけ。成程。この大戦後、日本でも写楽研究が隆盛。クルトの歌舞伎への理解があさい。誤解もと批判。そして彼自身も写楽別人説を。それはどんなと教授。写楽とは写楽という名前の絵師だった。この単純な説明に不満足。そんな人たちがとなえた。どんな。

*** 042002 別人説の解説、その弱点
写楽という名前で活躍、その以前に別所ですでに名のある大物絵師。寛政6年から7年にかけ10カ月だけ写楽という変名をつかい役者絵をかいた。そんな主張。何故、そんな考えが。理由。10カ月の活動でさっと姿をけす。二度ともどってこない。謎。これが最大の理由。写楽画はブームをおこしたはず、江戸期に。成程。なら、そのまま活動をつづける。どうして名声をすてた。突然消息をたつ。江戸から。ふうん。のみならず作品以外存在したという痕跡もない。普通、死ぬまでに一言ぐらい。なのにない。これも謎。

大物であれば。だったら、そっちにもどる。沈黙をまもる。だから別人説。でも奴江戸兵衛をかいた。そんなこといってもと教授。然り、大物だっていいたい。春画でうれた。そんな類でない。バラして恥。でないと佐藤。成程。だったら一度くらいいいそう。なのに、大物、無名。口頭でも、書き物でも。ふうん。これが最大の謎かも。そして別人説の最大の弱点でも。ほう。つまりどんな別人説も。これを説明しなければ。誰だって一言くらいいいそう。成程、自己顕示欲と教授。人間なら。だから弱点。この点から不成立。いえるかも。はあ。そうかも。それだけでない。

*** 042003 写楽の正体不明の異常さ
蔦屋も、耕書堂に出入りの摺師、彫師、絵師、作家、食客の一九、誰一人として。写楽は誰某。素性は。風貌は。生れ、性格、いっさい無し。誰も。へえ。異常。だから写楽は謎。死んだのかもと教授。あり得る。死亡、発狂。写楽の画調に、眼前の歌舞伎役者に本当に驚愕。子どものようなういういしい感動が。この点を、あまり知能のたかくない画家の故。と考える人も。でもそれだって周囲の者がいう。つき合いがあったそばの人間なら。ううむ、別人説以外でもそれはおなじと教授。成程ね、写楽は写楽説でも、いうでしょうねと佐藤。今までにも日本史上で高名な絵師は大勢と教授。然り、浮世絵師でも2千数百人。こんな風に記録ののこってない絵師は。いない。大なり小なりのこってる。なのに写楽だけ。不可解、蔦屋も皆んなも。実際にあってる筈と教授。然り。そうなると別人説だけでなく写楽は写楽説も不成立。謎、でもうれなかったらと教授。

然り、それなら。納得できるが。あり得るのかと教授。無し、異版。後世の絵師への影響。稗史億説年代記の挿絵の写楽島。作品数は144点。これは今までに判明したもの。ああ。これだけ大量を10カ月で。2日に1点のペース。成程。尋常でない。うれなかったら蔦屋もださない。然り、絵師自身もこんな無理しない。ブームがおきたからこそ。成程。教授は小考。

*** 042004 別人説のさらなる根拠
佐藤がいう。別人説に補足を。写楽は浮世絵史上で異端。スターのブロマイドでない絵。それよりもさらに型破り。蔦屋がそんな変な絵を大金をかけて刊行した。うなづずく教授。写楽は無名。刊行にはリスク。大プロデューサーがあえてやるか。無名にたいする軽視、封建社会の発想からも異常。逆に才能を見ぬいた蔦屋の才覚の証左でも。この決断が別人説の必要を説明。

どんな。才人蔦屋も不安。だがもともと実力派で高名なら。決断もそれだけ容易。ああ。それに黒雲母摺り。何。第一期の大首絵の背景は銀色。その顔料に雲母の粉。これは豪華版。つまり、金がかかってる。デビューに金を。然り、だが。雲母はそれほど高価でもという人も。しかし、豪華な印象。別格的な待遇。つまり歌麿級の待遇。この手法は歌麿の大首絵で定着。当時、一九、馬琴が絵をかいてきても蔦屋はみとめない。当時はまだ駆け出し。新人デビューに黒雲母摺り採用の例は。無し。超人気絵師歌麿ではじめてやったこと。それを間をおかずに写楽に。だから超大物。成程、で、あなたの考えは。ある程度首肯せざるを。やはり何らかの保証のようなものをみつけたと。新人なら刊行はせずかと教授。不明、蔦屋ほどの才人ならあるいは。でも28点同時刊行。そこまでの決断はどうか。この頃蔦屋は発禁本、自身も身上半減。経済的に苦境。大コケは夜逃げ。では推理成立と教授。えっ。蔦屋は夜逃げせず。成程。でも、だからこそ起死回生にでたとも。

*** 042005 蔦屋の決断が不可解
それは後でいうこと。無責任な後世の人間の評価。今の評価では写楽は大物。しかし当時は先行き不明。やはり蔦屋の英断。通常は春画の類でしのごうと思うと教授。常識的にそう。安全確実。冒険はお金ができてから。そもそも無名の役者までかかせてる。不可解とも。成程、これまでの説明を総合すれば絶対にうれないと教授。然り、だから別人説。蔦屋は3年後に没。体調も不良。自分の目だけをたよりに英断。それは超人業。だから保証がありそうな説にかたむく。その話しはちょっと変ではと教授。

何。寛政6年当時、高名の絵師は。歌麿。当時のナンバーワン。然り。だったら歌麿の絵をだせば。然り。たしかに。春画より、辛辣な役者絵よりも。安全確実と佐藤。歌麿がかいても無名の役者はださせないと教授。ううむ、歌麿は子飼い、気やすい。醜女の絵もと教授。はねるか、でも歌麿は醜女は絶対にかかない。独善的なまでの美学の持ち主。これまでの話しなら、写楽は歌麿よりも偉い人。かいた絵は無条件でみとめる。黒雲母摺りの待遇。無名の役者絵も醜女の絵も。そんなにえらい。ううむ。そんな例は他には。無し。そもそも28枚も新人の絵をだした例がない。そんなえらい絵師、どこにと教授。佐藤が腕組み。まるで将軍、ミカドと教授。

** 042100 神田、浮世絵の歴史を解説、写楽と比較
*** 042101 写楽は幽霊のような
教授がいう。別人説も写楽は写楽説も、どちらも不成立という。面白い。意味深。どういう意味と佐藤。実際に写楽は存在。その痕跡はない。江戸には。然り、絵があるだけ。文書は。浮世絵類考、十返舎一九の初登山手習方帳(しょとうざんてならいじょう)。姿をけした後の足どりは。ない。蔦屋、ほかは、写楽について。はなさない。噂もない。では、写楽は存在せず。最初から。成程。幻。亡霊か。然り、肉体をもたない。そんな存在なら、将軍かミカド。否と佐藤。どうして。作品がのこってる。圧倒的な傑作が。ほかの誰もかけないもの。あり得ない。では幽霊と教授。あるいは神様。話しをもどしてと教授。佐藤がいう。

*** 042102 クルトの説は疑問
クルトは阿波侯の能役者、斎藤十郎兵衛。その後に歌舞伎堂艶鏡という。浮世絵師。別人説のはしり。そして歌舞伎堂艶鏡説は彼一人の説。フィールドでかならずしも、支持はない。佐藤の意見はと教授。同感、当初はあったが、現在は能役者ができるか疑問が提出。能楽は武士の式楽、武士社会指定のアトラクション、一方歌舞伎は大衆芸能、位がちがう。さらに斎藤十郎兵衛が絵をかいてたという痕跡、風評もない。実在は最近みとめられたが。この説が支持されたのは逆説的にいえば、斎藤十郎兵衛がかいた絵がでてないこと。でてればすぐ判断できる。つまり写楽でない。歌舞伎堂艶鏡のように、ちがうとわかってしまう。写楽はそれほど特徴的。特に初期の大首絵では。教授がうなづく。

クルトの主張には種本。斎藤月岑の増補浮世絵類考。これは写楽と同時代の大田南畝の浮世絵類考から。斎藤月岑は幕末、明治の人。この増補浮世絵類考で「写楽は斎藤十郎兵衛で住まいは江戸八丁堀、阿波侯の能役者」。一方、時代がすこし前の写本に栄松斎長喜かかたった。その内容として付記。この栄松斎長喜は写楽と同時代の絵師。この人の錦絵の中の扇子に写楽のかいた四代目松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛がかかれてた。この幸四郎は鏡像だった。ここから栄松斎長喜と写楽は面識。確度のたかい情報。しかしケンブリッジ大学の斎藤月岑の直筆原本にはこの記述がない。以上支持されなくなった理由。ふうん。

*** 042103 浮世絵の解説
教授が初歩的とことわって質問。浮世絵と錦絵はどうちがう。浮世絵は総称、錦絵はあとからでてきた言葉と佐藤。言葉の発生は江戸期か、浮世絵は。然り。で浮世絵の意味は。現代風といったところ。成程。確認される最古の例は。井原西鶴の好色一代男。成程。浮世絵の発生は。明暦、大火のあった。最初は手書き、肉筆。つづいて木版。初期は墨、単色の墨摺絵、やがて丹絵、紅絵、墨、紅、緑の紅摺絵。ここまでが浮世絵の初期。明和2年(1765)、総天然色の錦絵。成程、多色、鮮明からこの呼び名。然り、当時は吾妻錦絵、江戸の土産。寛政の頃の歌麿、写楽も錦絵。成程、有名な土産品。然り。で家にかえって壁に。否、むしろ当時の週刊誌、柳行李にいれて時々だしてたのしむ。はなれてみる。否。ちかくでみた。だから余白にちいさな文字が多数のもでる。錦絵の登場が浮世絵文化の開花。印刷技術の発展により、下絵師、彫師、摺師の分業体制。この人たちの技術が向上、非常にこまかな仕事をするように。すると文字の出版文化の底辺をささるようになる。これが浮世絵の中期。では写楽は。この中期。成程。彼らはこの中期にあらわれたスター。勝川春章、北尾重政、喜多川歌麿、東洲斎写楽。歌川豊国。

*** 042104 初期の歴史
では初期の人は。鈴木春信。かれは明和2年に歌暦交換会を開催。ここで十色摺の吾妻錦絵の絵暦を考案。この印刷技術をおしえてたのが平賀源内。鈴木春信と同一の町内の縁があった。多色刷りが可能となった背景に「見当」。また高品質の紙。これが需要におうじて登場。成程。

*** 042105 中期から後期
絵が爆発的にうけた。鈴木春信のうまさ、可憐さ。その死後、北尾重政は写実的な美人画、勝川春章はリアルな役者絵で一時代をきづく。そこに喜多川歌麿が登場、北尾重政をさらにおしすすめ、繊細で上品な美人画、大首絵を完成。うれすぎでお上の横槍が。松平定信の寛政の改革か。然り。それだけ流行ということ。然り、同時に春画の流行。そこで幕府の規制。それで比較的規制のゆるかった役者絵で写楽の登場。成程、勝川春章でリアル、そこから写楽へ。まあ、そう。では後期は。喜多川歌麿のあと、渓斎英泉、葛飾北斎、歌川広重。成程、北斎は写楽よりあとの人、後期の人。然り、写楽が登場した寛政6年当時、35歳だった。

*** 042106 歌麿、ほかの絵師と比較
では、蔦屋が喜多川歌麿より格上として考えたのは、この初期の絵師たちでは。例えば、勝川春章。すでに死亡。鈴木春信は。20年以上まえに死亡。北尾重政は。存命。しかし当時は喜多川歌麿の方が人気では上。では見返り美人の。菱川師宣、この人は100年前。成程。佐藤が場所をかえようと提案。

** 042200 神田、喫茶店、写楽新説の必要性
*** 042201 事故に関連し出版社への攻撃
喫茶店、ラドリオに。教授がいう。写楽の謎。その正体は誰か。然り、だがこれまでの話しのとおり、正体不明。自分は平賀源内に可能性を。しかし寛政6年にすでに没。佐藤がいう。週刊Tを見たか。自分を名指しでバッシング。然り。北斎卍研究を出版してくれたS社が浮世絵同人研究会に対抗する本をと息まく。すこし教授が身がまえる。このままではと担当編集者。自分も出版社も詐欺師扱い。こんな主張を浮世絵同人研究会の会長の友田氏は。あの回転ドアの訴訟がつづくかぎり。それは何と教授。あの回転ドアを製造したミツワ・シャッターの会長の親戚。

ああ、姑息。現実。ほう。自分をみてわらってる人が。でも顔をしらない。否、美術専門雑誌には。顔写真。北斎卍研究にも顔写真。まあ。S社の担当者も心配。回転ドアは社会問題となる。なるでしょう。社会的責任の追及。その反動で自分が社会からほうむられる。まさか。否、被害者側が強硬。先方も強硬。ビル側、メーカー側に同情も。マスコミの同情をよべれば、自分のような落伍者は格好の餌食。佐藤さんは被害者。然り、また浮世絵同人研究会とマスコミの被害者。自分はよい。自殺を志願したから。でも出版社は。こまる。だから戦いの狼煙。教授が沈黙。

*** 042202 対抗手段は、写楽の新解釈、成算があるか
どうやるのか。だから写楽。まあ。画期的新解釈をとS社が。そうですか。表情がきつくなった。でもそれは困難といった。誰も成功してないと。然り、だからやりたい。成功すれば浮世絵同人研究会のいちゃもんは。けしとぶ。失敗するでしょう。社会的にほうむられる。否、勝算が。すごいものが。大阪から。教授が何やらしゃべった。何と佐藤。フォーチュン・イン、デビル・アウト。然り。繰りかえす。浮世絵は佐藤さんにとって疫病神。今度こそ成功させる。これ以上の転落をのぞむか。まだ下が。あると。うしなうものがない。躊躇する必要がない。どうして写楽を。むずかしいものを。

あんなすごい肉筆を手にして。やめられるか。平賀源内、別人説ですね。ふうむ、まだ、でも、そうなるかも。では、源内は。何故告白しなかった。お見事、そこです。第一、すでに没。然り、でも遺体はなかった。杉田玄白は遺体なしで墓を。それは罪人だから。でも何らかの方法で牢ぬけ。まさか。その顔、魅力的。たしかに写楽は魔物と教授。でも死んだ人。どうして絵を。だからひそかに生きのび。世をしのぶ。告白できない。バレたら。それで週刊Tに対抗を。そうすればバッシングは北斎の比でない。世間の笑い者に。もうなってる。教授の反応に後悔の念。そうなったら、またたすけて。否。佐藤もうなずいた。

*** 042203 多数をひきつける写楽別人説の魅力
教授がいう。別人説はそんなに魅力が。写楽をすこしかじると、あまりの不思議さに、はまる。まるで肉体をもたない。透明人間のよう。そう。江戸の町を濶歩。誰も見ない。いわない。蔦屋すらいわない。だから平賀源内の幽霊。然り。ラインのローレライ。そう岩の上で歌。船乗りを水にひきこむ絶世の美女。破滅。本望。クルトの斎藤十郎兵衛説は。決定打でなかった。どうしてと教授。

*** 042204 浮世絵類考の検証
無理な点、不審な点。クルトをふくめ大勢の人が勘違い。どんな。今、2冊目の準備で調査。浮世絵類考。クルトの根拠。そのうち斎藤月岑による増補浮世絵類考。ほう。

1) 斎藤月岑本
天保15年(1844)に斎藤月岑によってうつされ、若干の情報が加筆。これに「写楽、天明寛政年中の人、俗称斎藤十郎兵衛、居江戸八丁堀に住す。阿波侯の能役者なり。号東洲斎写楽」。ひっかかるのが「天明寛政年中(1781〜1801)の人」。どうして。だって写楽は寛政6年5月からの10カ月間、江戸にあらわれただけ。そして素性、生没年不明。天明に絵をかいた記録はない。成程。
2) 渓斎英泉本
この版の前、天保4年に渓斎英泉が補記した「続浮世絵類考」。
3) 達磨屋五一本
これの前が天保元年頃の達磨屋五一の「浮世絵類考」。書きこみ。「写楽は阿州侯の士にて、俗称を斎藤十郎兵衛というよし、栄松斎長喜老人の話しなり」。斎藤月岑もこれを見てた可能性。ふうん。これで信憑性がたかまった。栄松斎長喜も写楽と同時期に蔦屋から美人画をだしてる。だから彼は写楽を見しってた。そうなら写楽と言葉も。ということ。で。写楽が斎藤十郎兵衛といわれても、斎藤十郎兵衛が蔦屋と仕事上のつき合いがあった証拠が。ないなら信憑性もない。蔦屋は当時小謡(こうたい)の本を沢山。能役者がこれを監修。しかし斎藤十郎兵衛がこの本の監修をした記録がない。しかし増補浮世絵類考の書きみにより、ようやくつながっただけ。成程。
4) 式亭三馬本
達磨屋本の前は文政年間(1818〜1830)の式亭三馬によるもの、
5) 加藤曳尾庵本
文化年間(1804〜1818)の医師、加藤曳尾庵のもの、
6) 山東京伝本
その前は享和年間(1801〜1804)の山東京伝のもの、
7) 大田南畝本
そしてさかのぼって最原点が大田南畝。つまり大田南畝本をうつし加筆。それで。この原本にだいたい30名くらいの。浮世絵師の名前。この中に写楽の名前がある。ところでこれは加藤曳尾庵によれば寛政のはじめの頃。つまり1790年頃。すると写楽が登場する1794年より前になる。不可解。ふうん。まあ寛政12年という説も。そうなら問題ない。

どうやら式亭三馬写本のあたりから「写楽号東周斎、江戸八丁堀に住す」という記述がはいるらしい。ほう。文政元年(1818)頃かかれたという「諸家人名江戸方角分」に「写楽斎という号の人物が、江戸八丁堀の地蔵橋に住んでいた」という記述が発見。へえ。

** 042300 神田、写楽斎は写楽とはちがう、斎藤十郎兵衛とも
*** 042301 写楽と号したわけ、誤解を指摘
写楽が写楽斎と名のったことはない。えっ、でもどこかで読んだが。否、その史料から誤解が。たまたまおなじ発想の名をもつ別人では。つまり「しゃらくせい」の駄洒落。狂歌人の号。ふうん、この人も絵師かと教授。のよう。だから斎藤月岑のいう天明寛政年中の人とはこの絵師。でも、そんな偶然が。偶然でないかも。というと。そこから別の考えでの見かたが。でる。かも。

だから何。写楽は特別な名前でない。江戸は判じ絵、洒落、いわばジョークの王国。写楽斎。あちこちにあった凡庸な発想の号。かも。だから写楽とつけた人(当人か蔦屋)。普通名詞のような気でつけた。ちょっとひねった名前。そんな程度。かも。そうか、片山写楽。そんな人もいたと教授。然り、上方の人。だから蔦屋がこれを真似。かも。ええっ。天下の板元、蔦屋がと教授。有名。だったら真似不可。成程。もちろんさけたかった。でもできなかった。かも。何故。不知だが、さぐればでてきそうな予感。これでないと。いけないという理由。あったかも。

*** 042302 写楽斎と斎藤十郎兵衛の結びつき
写楽斎は当時はやってた洒落をなぞって号とした。そんな人がいた。それが八丁堀地蔵橋の写楽斎。それを東洲斎写楽とまちがえた。浮世絵類考をうつした式亭三馬、達磨屋五一、渓斎英泉、斎藤月岑がまちがえた。そんな事情があった。のでは。そしてこれが世紀の誤解のスタート。

へっ。嘉永7年(1854)に出版された本八丁堀辺之絵図。ここに斎藤与右ヱ門の宅。これは阿波侯の能役者の家。斎藤家は代々、十郎兵衛、与右ヱ門を交互につかう。この与右ヱ門は写楽時代の十郎兵衛の息子。だろう。そして文政元年(1818)頃にかかれた諸家人名江戸方角分には写楽斎とい名前がのってる。さらに最近、埼玉県越谷市の法光寺に斎藤十郎兵衛一族の記録多数が発見。これらを総合する。誰かが八丁堀地蔵橋に写楽斎がいるのをしってた(達磨屋五一かも)。それを東洲斎写楽と誤解した。そこに斎藤家があった。で、斎藤十郎兵衛、能役者となった。でも、ほかにも住人がいるのに、何故そう特定した。ここは特殊な地域、奉行所役人の家宅がおおい。そうでない人物。こう特定できる。成程。さらに斎藤月岑は神田の町名主、地域の事情にくわしい。記録類も。あったろう。これが根拠。ふうん。

だが疑問が。江戸方角に記載された写楽斎はこの時点で故人。つまりこの資料が刊行された文政元年には死亡してる。ところが法光寺の過去帳では、斎藤十郎兵衛は文政3年に死亡。つまり存命。だから両者は別人。文献からそういえそう。成程。まだまだある。過去帳から斎藤十郎兵衛は寛政10年から享和元年まで阿波侯藩邸に居住。つまり地蔵橋でない。だから別人。ほう。藩邸で役者絵はかけない。然り、芝居小屋にゆくことも、通油町の耕書堂に下絵をとどけることも。だから別人。

*** 042303 斎藤十郎兵衛が絵師でないわけ
写楽の正体を誰もがしりたがった。断片情報をあつめて推理した。成程。斎藤十郎兵衛の周辺からは一枚の下絵もでてない。無関係。で別の人物をさがした。ちょっとまってと教授。え。栄松斎長喜が何故、達磨屋五一に写楽は斎藤十郎兵衛といったのか。これは自分の想像。写楽は「阿波の十郎兵衛だ」といった。どういう意味。栄松斎長喜は写楽に面識無し。不知。そうならどう。嘘をついた。否、達磨屋本は1830年頃。その10年前に式亭三馬本。ここに「東洲斎、八丁堀周辺に住す」とあった。そこで達磨屋五一か、その仲間が調査、斎藤の家を発見。

そこで写楽斎に直接あえば。不可、1818年に死亡。成程。で栄松斎長喜をたずねた。達磨屋五一は栄松斎長喜が耕書堂で写楽と面識もあったと思いこんだ。何歳か。おそらく70歳。でうるさがって「阿波の十郎兵衛」との言葉がでた。 これが自分の推測。

人形浄瑠璃を説明する必要がある。傾城阿波の鳴門の名セリフ。「あいー、父様(ととさま)の名は十郎兵衛、母様(かかさま)の名はお弓と申します」。しってる。然り、有名。つまり栄松斎長喜はジョークのつもりだった。しばらく沈黙。それを真にうけた。然り。ううむ。そして斎藤何某は十郎兵衛。はあ。やっぱりと達磨屋五一は思った。本当か。でもこの話しのどこにも無理がないと佐藤。斎藤十郎兵衛と写楽斎は死亡年がちがう。文献を信頼すれば。成程。納得できたか。まあ。もう一つと教授。

*** 042304 写楽、北斎説
写楽は葛飾北斎という説。それは隅田川両岸一覧の作者、俗名金次。それは文政4年(1811)の嵐山本。いわく「写楽、東洲斎と号す。俗名金次、是(これ)また歌舞伎役者の似顔絵を写せしが、あまりに真(まこと)を画(か)かんとてあらぬさまにかきなせしゆゑ、長く世に行はれずして一両年にて止めたり、隅田川両岸一覧の作者にて、やげん堀不動前通りに住す」。然り。これは間違いという考えが定着。北斎が金次となのる。自分は不知。題名も不正確。この作者は鶴岡盧水。金次はこの人と判断。でも葛飾北斎は多数の名前。あったかも。さらに写楽の後期では葛飾北斎風とも。どう思う。なんとも

* 050000 江戸編 I、26夜待ち、地球の地図
** 050100 神田、26夜待ち、蔦屋のこれまで
*** 050101 26日待ち、蔦屋の出版事業
神田三河町、火除け地の草原。蔦屋が八つ半(午前3時)、東の空に26日の月をまつ。明暦の大火の以降、明和8年(1771)と同9年に大火。8年の2月に火事、さらに4月に吉原から出火。翌9年の2月、目黒行人坂から出火、吉原が再度全焼。その夏は冷夏。秋に風水害。安永の改元 。蔦屋重三郎が吉原大門前の引き手茶屋、同年、蔦屋次郎兵衛の店先をかれて書店業を開始。

大火の後に花魁たちがぼちぼち。蔦屋はここで吉原細見をうった。吉原はおいににぎわい。本がうれた。しかしこの時期は鱗形屋(うろこがたや)が刊行。蔦屋の耕書堂はたんなる取次所。小売り。蔦屋は安永4年(1775)版用に平賀源内に序文。これは旧知の大田南畝の仲立ち。これがさらに売れ行きを促進。一目千本(ひとめせんぼん)花すまい、急戯花之名寄(にわかはなのなよせ)。絵いりの吉原評判記を刊行。大当り。あわせて現金安売りばなしという江戸笑話も刊行。これはおおく吉原内で取材したもの。

恋川春町の金々先生栄花夢も大当り。順風満帆、鱗形屋手代の徳兵衛が大坂の柏原屋与左兵衛らの合作早引節用集という本、盗作発行。徳兵衛は家財没収、江戸10里4方向追放。鱗形屋孫兵衛も監督不行き届きで罰金20貫文、この事態に吉原細見の奧付にはその名前を遠慮。蔦屋に板元。鱗形屋は再興したが耕書堂と競争した。やがて衰微、廃業。ここの専属のようだった恋川春町も朋誠堂三二も耕書堂に移籍。まことに耕書堂は幸運。

先をよむに敏、人なつっこい性格の蔦屋は文化人の人脈つくりが得意。時代の先頭にいる戯作者や狂歌師、絵師、また将来性のある人物を取りこみ。みるみる先端の才たちの親睦の集いを。吉原の裏の裏までしりつくす地の利も。吉原でうまれた蔦屋は大衆のもとめるものをしりつくしてた。だからその洒落本、狂歌本は次々大当り。とりわけ朋誠堂三二の黄表紙が一世風靡。耕書堂はたちまち江戸随一の板元。開業わずか10年で日本橋通油町(とおりあぶらちょう)という一流板元がひしめく桧舞台へ進出。とんとん拍子の出世。

*** 050102 京伝、蔦屋、春朗、定信解任に意気あがる。
蔦屋は町のほうにもどる。26夜待ちの大騒ぎ。女房のお糸と娘のお由。お糸は観世音菩薩の扮装。26夜待ちはおそい月の出とともに後光のさした仏様たちが、帆をかけた月の船にのってあらわれる。特別な夜。阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩。山東京伝がきた。

山東京伝は山伏の扮装。さわがしい。今日の騒ぎは。松平定信樣の解任。ほんの3日前のことと。春朗(北斎)。貞一(十返舎一九)。河童の扮装が蔦屋。木霊が一九。蔦屋が意気軒昂。だが不自由な足に不平。

** 050200 神田、蔦屋の凋落
*** 050201 月の出をまつ、蔦屋ほか
蔦屋、妻、娘、山東京伝、春朗(北斎)、貞一(十返舎一九)。春朗の扮装をきく。唐天竺にすむという血吸い侍。わかい女にくいついてすう。難波屋おきた、高島屋おひさのような女。水茶屋の看板娘を。黒山の人集(だか)り。歌麿の美人画がうれる。歌麿は引き抜きに。蔦屋がたのべばかいてくれる。

唐天竺はないだろう。血吸い侍は。オランダ。かも。 蘭学者にきいたから。そうかも。その血吸い侍は。誰、先生は。司馬江漢。そこで世界図も見た。この国はちいさい。その中にすんでる。ちいさな島。今年か来年、閏11月の11日にオランダ正月をやりたいという。何故、11月が正月。来年は閏11月が唐天竺の正月元日。へっ。11月に何を。さあ。

月の出が。まだか。親孝行が。老婆をせおった息子が登場。トンボをきった。蔦屋が銭をあたえる。老婆に扮し、息子の人形を前につけて芸をみせる大道芸。願かけ坊主の一行。佐々木小次郎に扮した男。どよめきの声。月の出。月のくらい部分がみえる。月をおがむ人びと。蔦屋は順調にきた耕書堂の将来と不安をかかえた自分の健康を真剣にいのった。

*** 050202 蔦屋の回想、将来の不安
順調だった運命が不調となった。鈴木春信とともに錦絵世界を開拓し、吉原細見の序文もかいてくれた平賀源内。彼が米屋の九五郎殺害の罪で捕縛、獄死した。金々先生栄花夢で黄表紙の世界を恋川春町、松平定信の出版取締令下、召喚。これにこたえず死亡。黄表紙を娯楽の王道におしあげた人気作家の朋誠堂喜三二も召喚、秋田佐竹藩主により叱責、執筆をやめた。蔦屋が鱗形屋からゆずりうけた財産はこのように松平定信により破壊された。さらに遊廓を題材にした山東京伝の娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)、仕懸文庫、青楼昼之世界錦之裏(せいろうひるのせかいにしきのうら)で摘発、手鎖50日、蔦屋はこれらの本を絶板、重過料、罰金30両。松平定信の解任はまったく朗報。錦絵の方である。

それなりに順調。色数と版木の枚数をおさえた大首絵で、浅草観音境内の水茶屋の看板娘、難波屋おきた、両国薬研堀の煎餅屋の高島屋おひさ、吉原の芸者、富本豊雛をモデルに歌麿にかかさえた。大当り。これで歌麿の名声が確立。40数軒の板元からの依頼が殺到。歌麿は蔦屋をはなれたがっている。

** 050300 日本橋へ、月に礼拝、地球の根付
*** 050301 商売はどうか
京伝がきく。元気がもどったか。然りと蔦屋。ところで、かいてくれるか。戯作者払底。寛政3年に地獄を見たと京伝。一番目だったのを生贄。それ以来、面白い洒落本はでないと貞一。水清ければ魚すまず。芝居が不振。中村座、市村座、森田座。歌舞伎がなくなる。そうなると役者絵が駄目に。美人画か。歌麿とその板元は繁昌。春朗たのむ。専門でない。では、どうする。改革は一頓挫だ。将軍の不興、改革の旗がおりたわけでは。きびしい方向は継続。然り、商売替えか。

*** 050302 蘭学の知識の重要性
日本橋へ。茶屋に、いいところに案内。看板娘がいる。否、別の趣向の。今宵の月。しってるかと蔦屋。何を、26夜のご三尊だと春朗。島国根性がぬけてない。へっ、どういう関係がと貞一。然り、仏様のご利益とお糸。否、あれは地球照り。何と四人。世界はすすんでる。 蘭学者におしえてもらった。庶民も学問が必要。わかった。だから、地球照りはと京伝。司馬江漢の世界図をみたか。不知と春朗。解体新書は見たか。四人、否。見ろ。五臓六腑が正確に。たいしたもの。蘭学が世界をかえる。見た。陸と海。なんだか嘘くさいと京伝。否、本当。ちゃんと元本。蘭学の本。平賀源内に薫陶を。壺や皿に世界図をかく。それをうる。源内焼き。誰に。唐天竺にと蔦屋。また唐天竺か。あの図はたいらな紙に。然り。印籠をはずしみせる。

*** 050303 地球照りのわけ、仏とちがう
印籠か。否、根付と蔦屋。地球だ。こんなまるい。だから地球。象牙製。その表面に世界図。江漢の図を長谷川町の根付師にほらせた。春朗がきく。海もこの表面に。然り。冗談、水が下に。否と蔦屋。球の下はさむい。こおってる。おちない。不審、笑い。横の水は。こおってないだろう。蔦屋がだまる。笑い。とにかく、おちない。ご三蔵樣がおしてると貞一。まあ、そんな。で、地球照り。太陽が月をてらすように地球もてらす。その光を反射。それが月をてらす。月のくらい部分がうっすらとうかびあがる。それのこと。蔦屋がすたすたあるきだす。

*** 050304 地球照りの結論
信じないと京伝。それもよい。が、どうだと貞一と春朗にきく。あの模様は。何。もともつあるもの。ご三尊樣で。ない。その証拠に、明日の月にもおなじ模様が。見える。見れば。誰も見ようとしない。おそくまでおきてないといけないから。ふうん。茶屋にゆく。

* 060000 現代編 II、源内説の否定、列強の進出、別人説の検証
** 060100 お茶の水、料理店、佐藤、常世田、教授が会合、定信、田沼、源内
*** 060101 人魚のため息で打ち合わせ
お茶の水すずらん通り、料理店、人魚のため息、2階の部屋。常世田。女主人、彩子の趣味。歌川広重がすきだった。という料理が。教授がやってきた。鯛の塩焼がはいった湯豆腐、赤貝のあえもの。ひらめの刺身、ニシンの煮しめ。常世田にきかれ彩子がいう。

*** 060102 風景画、異版
浮世絵、広重、北斎がすき。広重はもうかってたか。名所江戸百景があたり、東海道五十三次もと佐藤。風景画は美人画とくらべるとつつましい。しかし広重は別格。そうはいっても買取。印税払いでない。ほう。あたっても絵師に無関係。版権がすっかり板元。かってに色をかえられたり。ええ。近江八景之内比良暮雪、広重は墨と藍だけ、板元が緑や黄色を勝手に。何故。派手に。成程。東海道五十三次の日本橋と佐藤。あれにも別の絵柄。どうして。ちょっとさびしい。でも早朝のこと。それでも江戸の賑いがほしかった。成程。だから広重が大勢をくわえる。別版も。そんなに立場がよわい。然り。成程、ではあたって絵で世に流布してるものは一種類とはかぎらない。然り。細部、色、構図、絵柄が。絵師が誰かの絵を裏返し。背景に利用も。そこにヒントがありそうと教授。何、写楽。

** 060200 お茶の水、写楽、源内、田沼の政治、蔦屋との出会い
*** 060201 広重と板元の軋轢
広重に怒りはと彩子。あった。どんな。那須ミネへの書付。広重の京橋の家に出入りの仲間の娘。55歳のこと。それによると、普段おだやかな人。飛鳥山花見の図の版下絵。これに江戸名所筆納と。つまりもうかかない。然り。これは人気のある頃。それから天童藩のため肉筆画。大量に。そう。天童藩の依頼があってやったことかも。どのくらい。200輻。領民への褒美。名声は天童まで。然り、肉筆画は版画より画料がたかく格が上。版下絵で成功、肉筆画へ。当時の成功のパターン。成程、肉筆なら板元の勝手が。きかない。相当うんざりしてたという。没年は。たしか62。では晩年のこと。もう版画は。否。60歳から名所江戸百景を。これは黒船来訪、花見の名所品川の御殿山。削除。沖に御台場建設。安政の大地震、安政の大風雨。江戸はおわりか。それで江戸の風景を。かきのこしたい。被災者のはげまし。地震でまがった浅草寺の五重塔を。まっすぐに。倒壊した西本願寺を修復して。想像してかいた。

*** 060202 情報がない写楽の謎
健康、食道楽。魚づくしを。どんな死にかたを。幕末の動乱の中、コレラで。アメリカの黒船が長崎にもってきた病気。ずいぶんくわしい。江戸の絵師なら。よくわかるのかと教授。まあ幕末の人。でも写楽は。わからない。だから謎の写楽と常世田。情報がない。異常だ。然り。だから実は写楽の人生もよくわかってる。えっ。だから別の人の生涯。が、実は写楽。それが写楽別人説。でも尋常な別人説ではない。常世田が古書らしきものを。

伊勢市の神宮文庫から。聞くまゝにの記。きいたままに記録。で、平賀源内のこと。然り。神田橋本町の事件はノイローゼでも発狂、借金などでもない。手文庫にとある諸侯の機密文書。これを九五郎が見た。成程。国の命運をきめかねない重要文書。とある諸侯とは。つかえていた高松藩の。否、これは香川県坂出市の郷土博物館から。高松藩おかかえの儒者。片山何某。平賀源内伝。伝聞、田沼意次。高松藩でなく時の権力者、老中田沼と平賀源内が結託。日本の国家財政の抜本的建て直し。どうやってと教授。どうやら海外貿易。長崎をつうじて。一つはそれ。それに。

当時の貨幣経済は江戸は金、上方は銀。商品生産が拡大、全国規模に。金銀の交換比率の固定化。長期経済計画も必要。そのために金が。しかし当時は貿易赤字が拡大。このため輸出拡大策が。これが財政建て直しの大命題になりつつあった。ううん、そうと佐藤。オランダは合法、他にアイヌとの交易、それを経由したロシアとの貿易。ごれは絶対のご法度。ははあ。つまり田沼は平賀をつかって蝦夷地の豪商もうごかしアイヌ貿易、ロシア貿易の実情調査。証拠は。源内の友人の戯作者の平秩東作(へづつとうさく)が田沼の隠密に。江刺の豪商の村上八十兵衛(やそべい)の屋敷に泊りこみ。調査。一説にはロシア人となら米や酒の2両分で100両分の毛皮と交換。源内がこのプロジェクトの背後に。この調査活動のことを平秩東作は死ぬ間際に。書付。莘野茗談(しんやめいだん)。平秩などからこのような調査報告書が源内の屋敷に。もし九五郎が敵陣営の回し者だったら。

*** 060203 ひそかな田沼の目論見
本当かと彩子。それで納得できることと佐藤。老中をひきついだ松平定信。彼は田沼の暗殺を。何度も。その蛮行をかくさない。将軍に報告も。これは黙認。では何故。賄賂だけではよわい。鎖国やぶりという大罪。なら、あり得る。然り、これをすすめると開国。貿易は危険な魔物。長崎は悪の権化。頭のかたい人物にとっては。でも国は貿易赤字。国の舵取りにとっては赤字はこわい。定信なら倹約一本槍で黒字化。マクロの経済をしる田沼、源内は貿易で富国化。何がわるい。海外事情に圧倒的にあかるい源内は鎖国は時代遅れ。鎖国体制を維持、貿易立国。成程、輸入削減、輸出拡大。今なら当然。貿易はもうかる。源内は温度計、不燃布、アイデアだけだが気球。唐三彩風の焼き物、源内焼きの壺、金唐革紙の壁紙、トンボを利用した多色摺りの錦絵。すべて海外を意識。納得できる。田沼はこれを計画してた。成程と佐藤。この秘密をまもるため殺人。小伝馬町の牢へ。田沼が源内をすくったと常世田。

*** 060204 脱獄後の源内の消息
成程と佐藤。でてからどうしたと教授。田沼の庇護のもとどこかに。江戸。田沼の屋敷、静岡県の自分の領地。それから。田沼が失脚してから。パトロンをなくし夢をなくし透明人間のように。15年後に江戸に。蔦屋に遭遇。どうして江戸に、蔦屋にと教授。不詳、しかし絵心。ここに西洋婦人の図。教授に。写楽の画風でないと教授。

** 060300 お茶の水、源内説を検討、否定
*** 060301 教授が源内別人説否定
源内別人説は無理と教授。ほう、どういう理由。源内が生きのびた。そうして話しをする。何故自分が一時期写楽だっと。告白しない。もともと世をはばかりかくれてたから。では、どこに。田沼の領地、遠州相良。噂は。あるが、さらに調査。どんな。相良の町に源内屋敷。ここで蘭方医。それから壺をやいてた。土地の人におしえた。成程。なら昔、写楽だった。そういう噂が。不明。源内は秋田藩で蘭画をおしえた。遠州では。その噂は無し。15年もいて。否、もっと35年、たしか80代後半まで生存。そんな長期間、一度もかかず、写楽とも。でも浄瑠璃台本は、戯作は。難癖では。でも絵なら手軽。それがない。不自然ふうむ。噂がない。写楽でない。写楽は秘密でない。江戸で浮世絵師だったという噂も。ない、きいてない。では、信じられないと教授。

*** 060302 源内の相良生存の噂検証
では牢ぬけ生きのび説は。壺はのこってるか。そういわれてる壺、皿が。やはり絵がのこってない。不自然。壺だけ。彼はそこにかくれて何を。田沼とくんで日本の輸出拡大の方策をねってた。壺、皿の試作も。そのため。連絡のためひそかに江戸に。その時、蔦屋とであう機会。と想像。そこで歌舞伎も見た。然り。蔦屋との面識は。あり、吉原大門にいた頃に吉原細見。その序文を源内に依頼。その縁故で蔦屋と再会。お金もほしい。それ、へんと教授。脇役までかいてる。お金が目的か。うん、まあ。脇ならうれない。そんな事情を源内は熟知。さらに黒雲母摺り。源内筆ともかかない。死んでることになってる人。ですね。でも綺麗にかくでしょう。また、歌麿、北斎、一九が、京伝が。何故写楽の正体をいわない。蔦屋も。え、それは。源内は罪人、小伝馬町で牢死。でも15年もたって。二人の組み合わせは江戸の話題と。だから、やはりいえない。

*** 060303 田沼、定信の失脚、写楽登場の政治状況
成程、では田沼は失脚。然り、で。家治の死を前にして後ろ盾をうしなった。それで徹底的に処罰。失意のうちに2年後に死亡。源内の牢死は安永8年(1779)。失脚は天明6年(1786)。7年後。生存、庇護の期間は7年間。然り。それから定信の改革圧政の時代。田沼政治の否定。そこで登場。そうか。寛政6年には彼をうけいれる余地はない。たしかに。相良で源内が輸出品をこつこつと、つくる意味はうしなわれてる。然り。彼は落胆。蔦屋組の人たちも田沼に気をつかう必要がない。さらに寛政5年に定信の失脚。なら写楽現象の数年後には公表していい。と思うと教授。成程ね。初登山手習方帖。写楽の絵をだした。そこで一九がにおわせても。暗号化しても。成程、では教授の考えでは時代がかわった。なのに公表できない。ヤバイ人。然り。誰ですか。不 知。了解、でもその否定論だけなら。子どもでもと常世田。誤解のないよう。はい。自分は写楽の研究家でない。自分の保身でない。では。常世田、佐藤を心配。危険だから。週刊Tも浮世絵同人研究会も同様に反撃を。源内説はすきだらけ。詐欺師と非難されて、さらにこれでは。マスコミのよい餌食。

*** 060304 教授のきびしい否定と示唆
では大阪市中央図書館のあの絵は。福内鬼外はと佐藤。さああと教授。さらにいう。佐藤がいってた。写楽の絵は世界に例がない。高速シャッターでとらえたような。ういういしいさで役者にむかってる。あの解釈で追及をすべき。謝。源内は浮世絵世界も歌舞伎世界も吉原もしりつくした人。俗な文化人。でしょう。彼は家に旗本をよんで芸者をあげてエレキテルのショーをみせる。お金をとる。彼が15年ぶりに蔦屋に接近するなら、お金目的。でしょう。脇の役者までかくか。蔦屋が黒雲母摺りを。佐藤さん体調はと教授がきく。佐藤はたちあがり、無意識に外にでた。

** 060400 マンション、写楽別人説の検証と批判、自由な発想で
*** 060401 諸説の紹介
写楽探しは百家争鳴。まだ決定打は。ない。諸説を整理、要約。

1) 1910年(明治43)、ドイツ人の、美術研究家ユリウス・クルトが「SHARAKU」。写楽はオランダのレンブラント、スペインのベラスケスとならぶ世界三大肖像画家の一人。
2) この指摘にあわててた。で日本でしらべた。記録がない。有名無名であれ、どの絵師も。生地、生年、生い立ち、絵師になるいきさつ、板元、風貌、性癖、など。大なり小なり。文献、噂話、版下絵、肉筆画、習作もない。
3) 写楽は寛政6年の5月から翌年正月までの10カ月間のみ。江戸。その間に140数点。以降忽然と消滅。理由は謎。それ以前、以降にも写楽の痕跡はない。
4) 板元蔦屋。無名の彼を大抜擢した事情、その素性をいっさい口外してない。写楽の活動の時期、蔦屋の工房に出入り。写楽と遭遇。絵師仲間、戯作者たち。歌麿、北斎、一九も口外してない。つまり写楽が江戸にいたという証拠がない。ただその作品群があるのみ。
5) 日本人研究者はこの難問に立ち往生。しかし、彼はひっそり活動。否。大首絵は黒雲母摺り。派手な売り出し。つづいて役者絵、相撲絵とあわせ140数点も。これは作品がうれて大ブームに。その証拠。
6) さらなる不思議。影響をうけた絵師。作風を追随する絵師。弟子、影響をうけた絵師が。いない。その理由は作品がうれなかった。否。特殊な作風、他人の真似を拒否。その故。

*** 060402 作品が散逸、研究に遅れ、先人クルトの評価
開国と文明開化以降、日本人は浮世絵に。軽蔑心。無価値と作品が散逸。ため写楽の正確な作品数が現在にいたるも不明。無抵抗に海外流出。国内にあるものがすべてか。不明。今後、あらたに発見する可能性も。これが専門外の人間を参加させることになった。

こんな戯画的な事情で日本の研究は。難儀。クルトの追跡は。評価できる。斎藤十郎兵衛、江戸八丁堀、阿波藩能役者と。結論。当初はこの結論を受容。戦後、クルトが歌舞伎に理解が。あさい。誤解がある。ためこの説に異議。

*** 060403 十郎兵衛、写楽斎、北斎説の否定
斎藤十郎兵衛。実在か。当時は未確認。かりにいたとして。絵をかいた。という痕跡。無し。その習作画、能役者が絵をかいたという。第三者の証言。無し。噂話も。無し。

そもそも能楽者。武士階級の指定式楽。精神鍛錬の必須の手習い。格式のたかい芸能。諸藩の家臣におしえる。専属能役者をかかえる。阿波藩も。いわば聖職。下賎な娯楽である歌舞伎役者の姿をかくか。日銭をかせぐ。許可されるか。春画のイメージがつよい浮世絵をかく。はばかるのでは。封建社会の実情をしらない外国人研究家の妄想。とまで。現在の状況。

能役者、斎藤十郎兵衛は実在。ところがこのほかは。既述のとおり。写楽斎と号する絵師が江戸八丁堀、地蔵橋に。これと東洲斎写楽の混同。阿波藩の屋敷にくらしていたおかかえの斎藤十郎兵衛が独立して地蔵橋にひこっした。このため写楽斎と混同。すると東洲斎写楽とも混同。これが写楽は能役者と浮世絵類考の写本に加筆。これが斎藤月岑写本となりクルトの目にとまる。このように実情を推測。写楽登場の寛政6年には斎藤十郎兵衛はまだ阿波藩の屋敷に。地蔵橋には6、7年後。これと写楽斎の没年と斎藤十郎兵衛の没年はちがう。文献史料による傍証。さらに浮世絵類考の写本。

文政4年(1821)の風山本、文政10年(1827)の坂田本に注目すべき記述。風山本。写楽、東洲斎と号す。俗名は金次。是また歌舞伎役者の似顔絵を写せしが、あまりに真(まこと)を画(か)かんとてあらぬさまにかきなしゆゑ、長く世に行はれずして一両年にて止(や)めたり。隅田川両岸一覧の作者にて、やげん堀不動前通りに住す。この一覧は既述のように文化3年(1806)に葛飾北斎があらわした有名な狂歌絵本。一見するとこの写本は写楽は北斎と。ところが北斎は絵本隅田川両岸一覧。たんに隅田川両岸一覧は鶴岡蘆水。このように江戸期からおおくの説。だがすべてが伝聞。写楽についてたしかな知識。無し。これはとてつもなく奇妙。おなじ日本人。何故情報がない。写楽は江戸ぐらし。でない。なら。集中出版の直後、江戸をさった。死んだ。などの伝聞が。その情報もない。

代々、浮世絵類考を大事にしてきた文化人たち。写楽を不知。するとクルトの「SHARAKU」も同等の位置。となった。またクルトが歌舞伎堂艶鏡を写楽と。これも信頼性をひくめた。

*** 060404 写楽の謎、独自性、辛辣な目
写楽の謎の第一。画法の独自性。誰からの影響もうけず。どんな修行。師匠。弟子仲間。情報がない。後世への影響。すくない。追随者無し。模倣の痕跡も寡少。なまじのことでは。真似できない。高度に洗練。頭脳的な作風。それを伝授できる師匠。いそうもない。写楽の描写。リアルで辛辣。浮世絵世界の意識変革。それまでの役者絵はすべからく役者の美貌に奉仕。いわば広告画。絵を見た人は役者への憧れをたかめる。芝居小屋にくる。舞台をみる。役者絵にまた手がのびる。役者絵と歌舞伎。相互依存。ところが写楽は。この慣習を無視。破壊。写楽の絵を見た役者。不愉快に。写楽があと10人も大首をかく。と小屋と板元。トラブルも。あるいは記録にないが、あったかも。後期になるにつれ凡庸安全に。その理由の最大のものかも。

*** 060405 歌舞伎への愛よりむしろ無知
しかし初期大首絵に。写楽の棘のある作風。これは歌舞伎世界へのふかい愛。という。これが今日の専門家のいわば慣例。ふかい知識と造詣。役者の内懐に迫真。これは冠婚葬祭の祝辞のようなもの。遠慮のない意見。専門家はこの安全な構文を暗唱。安全な世渡り。逆説的に見る。と、写楽の名声が確立。それに順応したのみ。

写楽は庶民の娯楽の王者、歌舞伎の高度な技巧、これへの敬意。もたず。千両役者。誰が。わからず。ありがたが味。わらず。素人。無邪気。無遠慮に。千両役者の見得切りポーズ。ただ面白がった。この考えが自然、合理的。たとえば。既述の相互依存。危機におとしてもよい。これは愛情よりたんなる無知。さらに無知を指摘できる。

写楽は寛政6年、控え櫓の歌舞伎の5月公演の舞台をかいてる。写楽は千両役者から無名の役者まで。無差別。これは謎の二つ。当時の非常識。役者絵 はブロマイド。無名。大衆にうけず。板元も絵草子屋もよろこばず。こんなこともしらぬ。すなわち無知。

田舎絵師。江戸の風潮、無知。歌舞伎世界、無知。そこが何するところ。しらず芝居小屋に。はじめてみる舞台。見得切りなどの演技。びっくり。どれがえらい役者。無知。つまり絵にしたらもうかるか。無知。ただ驚きと感動のみ。筆をうごかした。と推測。合理的。

*** 060406 先進性、動画的描写
この考え。異次元のもの。今日まで。なかった。この考えでクルトの評価は過大でない。写楽以外の浮世絵、役者絵、遊女絵、相撲絵、これらがポーズをモデルがとり、じっとしてる。そこをうつす。記念写真的静止画像。写楽のものは一瞬の動を的確にとらえようとする。前例がない写真的手法。圧倒的独自性が。これまでの絵師と発想が根本的にちがう。子どものようなういういしい感性で。歌舞伎と初対面。その驚き。創作の衝動。という空想をよぶ。と同時に広告画。歌舞伎となれあった画でなく、役者にポージングの協力を期待しない。観客席からゲリラ的に描写。という印象。

*** 060407 見得切りと関連、これと天才の出会いの幸運
もっとも、これは写楽の天才ゆえ。それのみの産物。ではない。歌舞伎。日本に独自の芸能の特殊性のたすけ。写楽の大首絵。役者の筋肉がもっとも力をため、動きを凝固させたもの。その一瞬の活写。歌舞伎は見得をきる。この独特の所作が。定期的にある。ここに面白さ。その刹那に写真機をむけシャッターを。写楽の筆にその発想がおおい。

江戸期にすでに写真的という先進的発想を。驚異。まさしく天才の発露。同時に歌舞伎のもつこの見得切り。画家にとってそれほど魅力的、印象的。そう考えれば。歌舞伎、日本独自の芸術。写楽、まれな絵師の感性を刺激。天才的着想をひきだした。つまり世界三大肖像画家とその世界的傑作群。この幸運な出会いから。こんな理解が。

見得切り。画家にとりまことに魅力な写生対象。18世紀の頃、世界でこれほど面白いモデル。なかった。画家は基本的に対象物が静止。でかける。がしかし人間。花瓶の花のようにとらえる。創造的でない。うごいてるものの写生。むずかしい。無理をすれば想像画に。ところが日本の歌舞伎は動をふうじこめた静。見得切り。定期的な極限。筋肉の力でフリーズ。かいてくれとモデルからいってるよう。力量のある画家。これを見れば。驚愕、創作意欲の刺激。新鮮な驚き、素朴な感動。創作衝動。

** 060500 マンション、写楽の特徴、特異性、独自性、異常性
*** 060501 孤高の存在、形だけの模倣
これが後世、模倣する人がない。理由。中央によせた黒目。かたいちを真似る。力を集中、硬い凝固した筋肉。それゆえにうまれた肩、体のいかり。ここまでかかなくて。写楽の視線、思想を体得した。といえない。ブロマイド作風になれた後世の絵師。これに気づいたか。否。故に模倣もなかった。あるいはしようとした。あったかも。だから模倣をこころみた。できたと絵師によっては。できたと思てるかも。だが、この基本構造がわかってない。だから他人が見たら。写楽風でない。ということ。

*** 060502 世界的にも独自、その理由、共同作業
日本の浮世絵、世界の名画にあって写楽絵だけが異様に変種。まったくあたらしい想像精神がうみだした。だからクルトの評価に同感。対象をうつす精神のあたらしさ、革新性。今日性から。三人の中の第一位。とまで思う。私見をいう。写楽の独創性。あまり指摘されてない。つまり気づかれてない。その理由。

写楽は欧州名画とちが点。版画。油絵、テンペラ画と背後事情がちがう。大衆アートとして世にでる。その手前に絵師、摺師。さらに写し師(もしか仮定があってるなら)が介在。当時の彫師、摺師。ベテラン。確立した線、像をもつ。彼らの介在。下絵がどれほど個性的でもできあがりは他の版画作品に接近。最終的な摺り画像。彫師、摺師のイメージがつよく反映。革命的な下絵。その描線。彼らの熟達した浮世絵線に整理。他絵師の標準作にちかづく。それが爆発的内部。妙にまろやかな外郭描線の写楽画。という理由。と考える。この辛辣な描写精神なら。下絵はもっとごつごつ、とんったもの。と信じてる。だから写楽画の場合。鑑賞する側が。積極的に作品の内面に。彫師、摺師の仕事にまどわされず。肉筆下絵の残像までみる。それがなければその独自性、創作精神まで気づかない。

*** 060503 作者をかくす共同作業、どこに真の作者は
たとえば歌麿と写楽。スポーツならゴルフとフットボールの違い。しかし版画となったら。一見両者の違い。目だたない。それは中途に。もつ線が歌麿とにた彫師、摺師が介在。板元が蔦屋。だから、おなじ彫師、摺師が担当かも。つまり版画だから。真相を埋没させた。つよい力のこもった線。ふとい線。その原画の線(だったと思う)。ほそく流麗な一本の描線でなぞった写し師。その後をうけた彫師。写楽の秘密を隠蔽。画期的な思想の写楽画、ジャンルをみたす凡庸な浮世絵群に埋没。佐藤の考え。

いささかファンタジーか。あり得ない空想か。これまでのべてきたこと。万が一。真実だったら。別人説がいう。歌麿、北斎。一九。京伝。不成立。となる。彼らは江戸文化の専門家中の専門家。歌舞伎ともたれあってた浮世絵世界の商売構造を熟知。到底ういういしい子どもの気分で歌舞伎世界と初対面。無し。歌舞伎をしらず、子どもの感性の天才画家と歌舞伎役者の見得切り演技との初遭遇。歴史的傑作、奴江戸兵衛がうまれた。

*** 060504 歌舞伎に無知な人、特異な人物か
18世紀末の日本に成人するまで歌舞伎をみず、きかず。そんな人いるか。歌舞伎は相撲、吉原とならび江戸庶民の暮らしの中心軸。歌舞伎の見得切りは子どもでもしってる。赤子ならある。だがあの絵はかけない。また田舎絵師、かりに精神障害者でお江戸にでてその風俗、出版界、歌舞伎世界の事情は心える。小屋に案内した者もスターの誰かをおしえる。無名の役者では板元がよろこばない。耳打ちする。聴覚障害者であるまい。かりの話しである。

辺鄙な場所にある屋敷の座敷牢で赤子時代。世間から隔絶。精神障害の患者がいた。成人後、奇跡。完治。天才的な画才。江戸に進出。だったとして。なら、どうして蔦屋と知りあうか。歌麿、北斎、一九をかかえた大物文化人。ちかづけるか。でも、さらに幸運。とする。蔦屋とであい、絵。驚。ここまで順調。しかし黒雲母摺りの破格待遇。あるか。たとえば寛政6年当時に、歌麿、北斎、広重をかかえ、ここでまだ駆け出しの一九、馬琴が絵を希望。黒雲母摺り無理。

*** 060505 尋常でない人物
さらにどんどん思考実験。当時の超大物絵師、歌麿。ぼうだら長左衛門をかいた。黒雲母摺りするか。脇役者の絵。否。だったらこの別人説。尋常でない人物。誰だ。歌麿すら無理。だったら時の帝。将軍が。ぼうだら長左衛門なら。これクラスとなる。自分はすでにのべた。写楽絵は歌舞伎にまったく無知。素人のかいた絵。で巷間にそんな絵がある。そうしよう。それらを一点もらさず。黒雲母摺りか。ないない。この職業出版人蔦屋の判断。何だ。最大の謎。出版すれば歌舞伎と浮世絵の相互依存の関係を危機に。しってた蔦屋。一体どうした。無謀な冒険。

*** 060506 一切口外なしの異常さ
さらなる疑問。とてつもない幸運がつづいた。とする。写楽は一夜にして時代の寵児。ならこの運をのがすな。どんどん創作。金もうけ。これは蔦屋の望でも。が、10カ月で忽然と消滅。この不可解はまずおいて、こんな幸運。消滅という椿事があった。として。歌麿。北斎、一九、京伝。さらに蔦屋自身がこの怪現象を見てた。ところが写楽。何者。生地、氏名。登場の経緯。まったくかたらない。何故。作家の松本清張がいった。無名の絵師が。再度精神障害を発症。狂死。だったら、その旨をいうだろう。彼らは何故かたらない。狂人のこのような顛末をかくす。必要はあるか。この起用が見立てちがいの大失敗。だったら消滅。こうなれば謎でない。だが、だまってる理由は。一つ。まったくうれなかった。だから、だまってた。あり得る。

*** 060507 うれたのに口外なし
浮世絵類考の「あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしゆゑ、長く世に行われずして、一両年にて止めたり」。一見呼応。うれなかった。だからわすれた。だったら誰も口外しない。10カ月できえた。当然。後世への絵師への影響。乏しい。誰も真似たがらない。でも本当か。写楽作品は異版。おおいのはうれたから。でないか。特に初期の大首絵に異版がおおい。よくうれたから。浮世絵の鑑賞法。当時は壁にかけない。今日の週刊誌のグラビアのようなもの。手にもって間近から鑑賞。壁なら醜女はうれなかった。かも。消滅から7年、1802年に式亭三馬。稗史億説年代記に。おおくの弟子をもつ絵師を図示。その中に独立した島として写楽。弟子をとらず強烈な個性。流派もつくらず。孤高の絵師。孤島をあたえた。さらに憶測をどんどん。写楽が写楽・孤島。おおくの絵師からなる地図による図示。かも。栄松斎長喜作の高島おひさ。団扇をもつ。そこに写楽絵。肴屋五郎兵衛。一般が写楽になじんでた。その証拠。

後世の絵師への影響。すこしは。黒目が中央。おおくの役者絵に。これもうれた傍証。「あまりに真に画か...」は、どうして止たとききたい。が個人的推察のみ。写本した誰もがこれが史実といってくれない。止めたのは売れ行きともいってない。

*** 060508 多数をひきつける写楽の謎を自由な目で
これらが写楽の謎。どんな説をたてても。破綻がくる。おおくの才能ある人をひきつけた。だが依然謎。迷路に。自分は既述の非権威的な解釈に。学芸員時代からひかれた。写楽の独自性は。歌舞伎世界へのふかい愛情。理解。皮相的、おざなり。いわば権威化した定評への政治的配慮。自身の立場、給料への保全。とも。下野した。今は自由な発想。現状。感謝せねば。今日支配的な権威的発想は、写楽、蔦屋のやわらかな着想とは。蔦屋はこれを「茶」といった。「万事茶でなくちゃいけねぇや」と。原点の柔軟さと隔り、どうやら動脈硬化。写楽は世界にほこる最高級の芸術。だからなんとか辻褄あわせ。汲々四苦八苦。学芸員でいた頃の世界で日常感じてた。

** 060600 相良、源内屋敷へ、田沼政治
*** 060601 常世田と相良に、源内説にこだわる
数日後、常世田の車で相良に。郷土史家の川原彦次郎をたずねる。教授の機嫌をそこねると常世田。源内にだけこだわる。ならそうと佐藤。源内は無理か。何故もらさなかった。でもそういうなら別人説は全部不可。蔦屋別人説もある。だが自身いわず。別人説はすべて駄目。ききながら佐藤が考える。別人説がちがう。写楽は写楽説。そうでもない。もっともっとちがう。発想の根源的な転換。必要なのでは。びっくりするような単純な。常識の制約から自由になれ。

写楽絵は存在。だまってる。だから謎。だんまりに理由は。といわれても。寛政6年、パトロンの田沼も、定信もいない。これはまずいが。源内説は駄目か。でもまだすてるのはと常世田。

*** 060602 源内屋敷に、とぼしい決め手、浮世絵とは無関係
何を考えてるかと常世田。あの肉筆画と佐藤。あの紙は江戸期。保証する。ではどうして存在するか。ともかく、かきはじめて。別人説の線で。結論が誰。それは先で。序論、写楽の人物像、一般的解説と常世田。了解。相良牧の原インター。海側に。コンビニ。川原が出むかえ。源内かと川原。然り、田沼の庇護のもとに生きのび。隠れ住み。この話し。信憑性は。まあ土地のものは。源内屋敷が。ほう。言い伝え。証拠の品がと常世田。壺、皿、でも決定的とは。決定的というと。源内と名前をかいたもの。鳩渓(きゅうけい)、風来山人とかいう号。ないか。無し。昔。浮世絵師だった。というような書付。噂話はと常世田。浮世絵師。然り。否。誰かほかの人が。きいてないが、不知。

で、ここで源内は何をと佐藤。田沼の手伝い。ブレインとして幕府財政の立て直し。元禄バブルで幕府が財政難。吉宗が享保の改革。幕府の三大改革の一つ。あとは定信の寛政改革。水野忠邦の天保の改革。いささかでも効果、享保の改革だけ。吉宗は徹底した倹約。然り、大奥から美女50人を放逐。でも倹約だけでは。享保の改革の後、老中の田沼。手賀沼の干拓、蝦夷地の開発。田をふやし、増収。もうかった豪商に課税。通貨の統一。西は銀、東は金、国を二分。南鐐二朱判。金貨の通貨単位で通用価値をしめした銀貨を発行。

*** 060603 享保の改革、田沼、貿易、開拓、貨幣、医学、薬草
江戸ではこまかな金の払いが困難だった。釣り銭がうまくもらえない。大雑把な生活態度、宵越しの金はもたない。江戸の気風の背景。田沼のその対策だった。さらに貿易拡大。中国の生糸、オランダの商品の輸入。そのため国内の金銀が大量流出。海外から金銀をとりもどす。長期計画を立案。それは新井白石も。然り、長崎の輸入制限。従来型の禁止罰則。田沼は輸入の制限でなく輸出の拡大。あわび、なまこ、ふかひれなど中華料理の食材。これら俵ものを非課税、生産を奨励。銅山を開発、輸出拡大。これで金貨、銀貨を買い戻し。それと忘れてならないのが、文化政策の自由化。蘭学の禁を廃止、奨励。翻訳で解体新書の発行。日本の医学がおおいに進歩。大量に輸入されてた薬草の国産化。その流れで源内は田沼の目にとまった。源内はこうした政策にすべて関与。田沼は身分秩序にこだわらず能力本位。

*** 060604 源内の役割、商品開発
源内の起用は海外への輸出拡大プロジェクトのブレインとして。然り、温度計、不燃布、壁紙の製作は。これらは思いつきでない。外国人の購入を想定。いわば売れ筋商品の開発と常世田。これらは江戸期の日本人はかわない。外国人がかう。川原は路地に。海外貿易なら莫大な利益も。国内と市場規模が桁違い。すみやかに国をとませる。そおして通貨制度。文化。政治形態。これらを改革。どれほど日本のためになったことか。成程と常世田。

*** 060605 田沼政治、先見性のため失脚
田沼は賄賂、ダーティな政治家。誤解、田沼はとんでもなく有能な政治家。先見性がありすぎ。失脚。然り、相良の城は破却。進歩的政策もことごとく否定。貨幣統一、輸出拡大、すべて明治維新以降。成程。100年後の新政府がやったことと常世田。100年すすんでた。まだある。中央集権国家の完成。へえ。幕府の税収拡大なら。何。直轄領地、天領から徴税。だが諸大名からは。徴税すれば大幅アップ。成程。田沼はこれを。で、きらわれた。成り上がりへの反発。たとえば御三家。失脚。ふうん。遠大な構想。なら源内の関与、知恵も。然り。これができてらら。明治維新はちがってたかも。

*** 060606 列強の圧迫、田沼への嫉妬
国が貿易しない。外国産の近代兵器が薩長ばかりに。外国の情報がないから。軍事力におおきな差。外国から目をそらしてた。嫉妬。田沼は歌舞伎役者顔負けの美男子。大奥でも大人気。ああそうか。川原彦次郎がふるい土蔵を指さす。訪問。

** 060700 相良、源内屋敷、遺品
*** 060701 小守家の土蔵へ、薬草園跡、蔵内の生活、遺品
上部、白壁、下部、板塀。石垣の上にのってる。小川にそってたつ。石橋をわたる。土蔵がたつ民家の庭。木造家屋の玄関。小守さんと声かけ。あの土蔵は今も源内屋敷とよぶか。然り。田沼の庇護でここにかくれすむ。そう言い伝え。死ぬまで。然り、自分の先祖は田沼の家臣。ここで何を。医者。蘭方医。ほう、でも杉田玄白、前野良沢とも親交。中を見たい。土蔵に。背後の庭。当時、ここに薬草。村人にその薬草を。然り、煎じ。粉に。たしかに源内は本草学者。中に。

ここで。然り、蟄居。当時のままか。否。中二階に。座卓。書棚、火鉢。江戸からすぐここに。否、一時、蝦夷地。船で相良に。蝦夷、では村上八十兵衛と。ああ、そんな名前を父から。牢ぬけから7年後に田沼が失脚。だから蝦夷地滞在は7年以内。そのあたりのいきさつはと常世田。不知。全然。然り。源内焼きがあるとか。上に。板の間の隅。大型の箱。中から褐色の壺。ほう。花瓶か。牡丹。色見は三彩。つぎに皿。図。何。世界地図。はあ、インドも。また皿。南北のアメリカ。やはり源内が。然り、言い伝え。唐三彩、中国のイミテーション。これで中国、欧州に輸出をと。源内は幕府へ意見書で源内焼きをと川原。外貨獲得に。然り、国益、日本全体のため。ここからその意見書を。否。斬殺事件前。源内は田沼の援助で長崎に調査。貿易状況の視察。然り、その時、薬草の国産化も検討と佐藤。

*** 060702 源内の遺品か
これは本当に源内の作かと常世田。源内がつくったものと類似とも。だとしても意見書をだした当時の作が、ここにもちこまれたとも。そうかも。田沼としたしかったのは事実。作品がこの地にきた。そうかも。然り。ここで焼き物をした。あるいはおしえたとの話しは。ある。が確たる証拠は。無し。ほかに何か。小守が巾着袋のようなものを。何か。口にちょっとした仕掛け。簡単にはひらかない。これ、知恵の輪。この金具をはずす。ひらく。でもさびてる。中に何か。否、空。蘭学事始に。知恵の輪つき袋。日本橋の長崎屋で杉田、前野がてこずってた。源内が登場、またたく間にひらいた。ここにも。絵はないかと常世田。無し。土地で絵をおしえた。という記録は。不知。

** 060800 相良、書簡、謎の命須照
あとこんな書。漆塗りの文箱、はげて生地がでてる。黄ばんだ和紙。草書体。佐藤がよむ。「ことのほかのお褒めを賜わり恐懼に存じ奉り候へども一生の暇乞ひ、心中で涙...」か。これは。書簡の一部。これだけと川原。誰が。不明、源内とも筆跡がちがうとも。誰に。不明。あとは。「のちの世をおそろしと存じ奉り候へども、まこと私ごとに候ふ命にあらず候あいだ、こは人たるもののつとめにて候。かにかくに因果はめぐると思ふばかりにて候ところ、大恩ある主君の嘆き給ひしなれば...」か。「命須照捨ておかば、国益の損なふところ大なりと存じ奉り候...」。あとは。ない。裏に無し。これで終わりか。然り。手紙。だろうが、どうしてここに。不知。ただ祖父がもってた。そう父親が。命須照とは。これがポイント。何のこと。コンビニでコピーをと常世田。

** 060900 相良、抜け荷の横行、幕府の取締、掛川のオランダ人の墓
*** 060901 源内の殺人の真相
コンビニに。佐藤がいう。源内がいたかどうか不明。でも誰かがいた。然り。小守家に。あの土蔵。でも誰か、絵をかいたかは。不明。佐藤が川原にきく。源内は神田橋本町で九五郎を斬殺。然り。発狂説、借金説、ノイローゼ説。この理由にかんして何か。それはないと川原。源内は田沼の命で財政再建の計画をたて、成功の可能性をさぐってた。その報告が蝦夷から頻繁に屋敷にとどいてた。そのはず。それを九五郎にみつかった。然り。すくなくとも源内はそう思った。手文庫の中の密書。もし九五郎が家の中をさぐってたら。もし九五郎が定信の密偵だったら。ロシア貿易は抜け荷。長崎以外の貿易も国禁。だから殺害。国中が大混乱。計画がもれたら田沼は失脚。厳罰。かりに九五郎が密偵でない。だとしても源内はパニック。斬殺。かも。もしそうした密書が家にあった。なら。見られた。なら。短絡。殺害。源内は大小をもった士分。いざとなれば。侍。成程と佐藤。

*** 060902 抜け荷の横行、諸藩の窮乏、幕府の無策
実はもれてた。田沼への苛酷な処分。その証拠。城まで破却。然り、城があれば反抗。かも。長崎は国の病。しかし、なら幕府は罪状を公表。否、いわば総理大臣の犯罪、体面からも公表は不可。ロッキード疑獄か。然り、あれも貿易がらみと川原。関ヶ原がまた。かも。それなら倒幕側に大義名分が。また幕府に金がない。戦争はしたくない。抜け荷は裏ではちょくちょく。そう世界はもう大航海時代。日本の鎖国、無理がと常世田。下手にさわると薮蛇、各所の抜け荷が判明。もはや幕府にそれらをおさえこむ力は。ない。そんなにも。どこが。九州か。薩摩はそう。だが能登輪島、石州浜田、新潟など日本海側。お庭番報告が頻繁に。おおくは琉球、清あたりとやった。異国人の出没もけっこう。成程、密貿易が厳罰なのはそんな事情。諸藩がやってたから。成程。だから田沼、源内はおそい方。諸藩は破産状況。抜け荷はもうかる。やりたい。幕府が必死にとめる。本来、自然なこと。それに極悪のイメージ。

*** 060903 抜け荷が倒幕の資金、舶来品の崇拝
禁酒法時代のアメリカ。酒の密売でアル・カポネがおお儲け。最新の武器を購入。FBIと互角に。飲酒は今は誰でもできる、そんなにわるいことでない。法で禁止。だから大犯罪。粗悪品がでまわる。ギャングがもうける。貿易も。薩摩、長州がおお儲け。軍備拡張。薩摩藩の家老の調所広郷は抜け荷で赤字財政を立て直し。しかも備蓄まで。この富。なければ倒幕は。幕府はどこかの藩が抜け荷でおお儲け。軍備増強、倒幕。おそれた。南蛮渡来をありがたがる。ご禁制の品ならと佐藤。何でもうばいあって購入。解体新書の原本「ターフェル・アナトミア」が3両と。蘭学事始に。10数万円。コンビニに到着。

*** 060904 海外貿易の重要性
命須照、命すてるかと常世田。なら、そうかくと佐藤。複写した文面を見て、常世田がいう。「命須照捨ておかば、国益の損なふところ大...」。テーマは抜け荷では。どこの藩と佐藤。不明。だが命須照。人か場所か不明だが、抜け荷をやってた。幕府でないところで。すると藩の富強化、軍備拡大、幕府の弱体化、国益。だからすておけない。ううん。本当か。強引では。川原がいう。安永、天明、寛政。抜け荷は財政担当の政治家の第一の関心事、あるいは渇望事項。かも。やりたかった、表にでないが。ご禁制だがもうかる。現状をすくえる。魅力のある事項。海外貿易を制する者は、国を制する。然り。幕府への反発。抜け荷でもうけて幕府打倒へ。武器整備。だから渇望事項、国の病。成程。

*** 060905 文書の意味を解析
「ことのほかお褒めを賜り恐懼に存じ奉り候へども」はと常世田がきく。それは源内が田沼にほめられた。かな。では「一生の暇乞ひ、心中で涙」は。田沼とは無関係となり生涯あわない覚悟。これは決別の涙。源内らしくない。真面目すぎ。でも大恩ある田沼。あり得る。かも。「のちの世を...」は、後世のことを考えたらおそろしいとも。だが自分の命で、自分の命でない。「こは人たるもののつとめにて候。かにかくに因果はめぐると思ふばかりにて候ところ...」は人間として、家臣としての任務。やるほかない。何を。不明。

「因果は...」は偶然が発生。驚、こんな奇遇があるのか。で、次。大恩ある主君がなげくようなこと。だからこの命須照を自分が処分する。こんな意味では。このままでは国益をそこなうからと常世田。まあそう。なら神田橋本町の事件とおなじ構図。あれも定信に報告される。長期計画がぽしゃる。幕府財政が破綻と常世田。まあ、長州戦争、鳥羽伏見、で幕府倒壊。のようなもの。数でおとる薩長軍に手もなくやられた。理由は金がない。装備が関ヶ原の時代と佐藤。おなじ構図。横行する密輸を放置できない。自分が始末。首謀者を。あるいはみせしめに。首謀者を。だから一生の暇乞い。涙。人の道。主君と縁切り。単独責任。こういうことかと常世田。

*** 060906 源内の伝聞、掛川へ、三貨制の解説
ううん。小説家的な解釈。だが抜け荷の藩を征伐。より安上りかと佐藤。遠州に抜け荷の記録は。無し。この書簡について川原の解釈をきく。ううん。いいたくない。何か。ではちょっとだけ。源内が掛川宿にいったという噂。ほう。自分は後世のつくり物と。で何を。ううむ。いいたくない。どんな事情。子どもじみた作り話と川原。川原は掛川の郷土史家、疋田玄随をおしえてくれた。車中。貨幣制度の不備で江戸の者はうまくお釣りをもらえなかった。でも大坂では。もらえたということかと常世田。あれは金銀銅の三貨の制度。それぞれが独自のルール。交換相場が固定してない。円しかしらない現代人にはむずかしい。

1) 江戸の金なら。一両。これの1/4が一分で一分金。これのさらに1/4が朱。それぞれ金の硬貨が用意。これでは大雑把。二分金、二朱金という硬貨も。それでも大雑把。だから宵越しの金はもたないという気風。成程。
2) 一方、上方の銀。単位の硬貨でなく、重さをはかって支払。秤で。然り、貨幣をきってつかう。然り、だからこまかな払いにも対応。ふうん。ただしこれは元和年間(1615~1624)に禁止。ふうん。でも銅銭もあったでしょう。
3) それは文。然り。では、端数がでた。それで処理と常世田。ところがむずかしい。へえ。計算が面倒。銅と金あるいは銀との交換レートが変動。
4) 1両は4000文から6000文。ところが幕末には10000文。きまってないと常世田。というより公定レートがすぐ値崩れ。
5) 大坂の銀も。元禄の公定が1両が60匁。すぐ値崩れ、幕末で100匁。はあ。
5) それに10000文の文銭は用意できない。たいへん。文銭は1、4、10文。1両だったら10文銭で1000枚、たいへん。おもい。蕎麦1杯が16文。1両でお釣り。たとえば5984文のお釣りとか。成程。一分金、一朱金をつかっても3分3朱359文。かぞえるのも面倒。だから小判などつかわない。そもそも長屋にすむ庶民は一生小判など見ない。そう、皆んな文銭でくらしてと常世田。

*** 060907 銭の暮らし、両替屋、貨幣の統一、田沼の再評価
然り。江戸に三職。大工、左官、鳶。おおかった。江戸は発展途上の大都市。建築ラッシュ。家をつくる専門職が最多。大工が最多。江戸っ子の3人に1人は大工、その連中が皆んな手間賃が。日払い。どのくらいと常世田。1日500文から600文。1万数千円。ふうん。それを毎日ちょっとずつ飲み食いに。家賃もふくめて。長屋の家賃は1日35文。すると1000円。やすいか、たかいか。だが、それは押入もない簡易住宅。中期あたりから供給過剰。現代のわれわれをくるしめる住宅費と教育費。江戸では両方ともやすい。おまけに長屋組は税金なし。ともかく庶民の日常生活上の経費はこんなふうに、たいがい文で表示。で、売り手側の価格が金なら金で支払い。文なら文。

でも両替屋は。あった。が、金と銀なら毎日相場がたつ。変動。で、おお儲けとか。不合理。成程、それで田沼などは改善。ために江戸・大坂の通貨を統一しようと。じゃ田沼はいい政治家と常世田。然り。それから抜け荷か。鎖国のイメージがかわる。歴史。おおぜいによる嘘。とか。勝者の答弁とか。教科書の鵜呑みでは。江戸時代も外国とつながってた。かもと常世田。然り。閉じたと思ってたのは幕府だけ。つながってないのほ勝者の徳川だけ。歴史書かいたのが定信みたいな堅物。ふうん。禁酒法でたとえ。禁止したら。ビール一杯も高級品。渡来品を禁止。オランダ渡りがとんでもない高級品。そのとおり。

*** 060908 天然寺へ、オランダ人の墓、メイステルの称号
駅前で待ち合わせ。疋田の案内で墓地へ。天然寺という。挨拶。紹介の経緯を。あれと指さす疋田。何。石造りの柵。中におおきな長方形の石。ちいさな城のような石垣。その上にのってる。上面がかまぼ形の丸み。文字。英語でない。異人の墓。いつ頃。カピタンの墓。へえ。何時の人。死亡が寛政10年(1798)。掛川の宿で。オランダ人か。然り。どうして長崎でなくここで。江戸からの帰り道。参府旅行の。ふん。オランダ商館員の一行。これは、長崎出島のオランダ商館は館長以下が定期的に江戸にでる。将軍に拝謁。商務報告。義務。まあ実際はご機嫌伺いだったろう。貢ぎ物を献上、土産物を賜ってかえる。

然り、この人は商館長。名前はヘンミー。二人がしってるのはシーボルト。たしか文政年間(1818~1830)。シーボルトは館長の随行。ヘンミーは有名かと常世田。研究者の中では。正式には。ゲイスベルト・ヘンミー。生涯はどんな。父親はドイツのブレーメンの出身。アフリカ喜望峰のオランダ商館商務員。1747年6月に喜望峰で誕生。オランダ東インド会社の社員。日本の出島に。風貌は前歯がかけ、常に眼鏡。江戸であった大槻玄沢が。日本側の史料もある。然り。玄沢の西賓対語。成程。オランダ商人がここで死亡。源内とどのような関係が。ヘンミーは商人だが、ユトレヒトで勉強、メイステルの称号をもってる。えっ。

** 061000 掛川、ヘンミー斬殺説、北斎の登場
*** 061001 命須照は称号、変死、日記の記述、日時の照合
そう。メイステルの称号をもって日本に。メイステルとは。英語でマスター。学位の称号。ふうん。命須照とは学位の称号と常世田。だから商館長に。それでここで、どのような死に方。予想外の死と疋田。一応は病死。掛川藩主がつくらせた 掛川詩稿で、ヘンミーは寛政10年はじめに長崎を出発。3月15日に第11代将軍の家斉に謁見。4月に長崎へ。帰途の4月21日に掛川連雀の本陣で発病、客死。旅の疲労と日射病によると。成程、それは信頼できる記録か。文献自体はしっかり。しかしかかれたのはヘンミー客死の17年後。世にかたりつがれたものを記録。ほかに記録は。天然寺の過去帳。通達法善居士。オランダ商館日記の記録は。オランダ商務日記をある学者。それによれば3月12日長崎を出発。4月28日に江戸に到着。将軍に30日に謁見。5月16日に江戸を出発。掛川の記録とずいぶん日付がちがうと常世田。ヘンミーが病気のため途中から簿記役兼上筆者のレオポルト・ウィレム・ラスが日記を担当。

*** 061002 死亡時の事情、自殺説、商館の窮状
ヘンミーは高熱、吐き気に。安倍川、大井川。6月5日に掛川。何度も失神。8日の夜11時半に永眠。天然寺に埋葬。享年52。この墓碑銘に寛政10年6月8日に往生、9日に埋葬と。日付は日本の年号か。オランダ側は館長は服毒自殺ではと。自殺か。どうもヘンミーの出島経営、乱脈。借財も。では露見をおそれて。然り、でも証拠無し。この変死事件。後世にいろんな噂。憶測。成程。激務で胃をやられた。らしい。むずかしい時代だった。ヘンミーは寛政4年に着任。が、国際情勢が多難。バタヴィアからの赴任に遅れ。6年間出島にとじこめられた。着任の年にロシアの船が根室に。日本側は海外貿易に神経質。江戸で蘭方御殿医の桂川甫周にロシア関係の蘭書を提供。それまでに幕府はオランダ船の許可数を削減。取引高の上限も。

*** 061003 幕府への要請、本国の危機、ずさんな管理、
オランダ側はたびたび陳情。寛政10年に、向こう5年間にかぎって2隻と倍増。他方、寛政6年(1794)にフランス革命軍がオランダ本国に侵入。総督がイギリスに亡命。極東派遣の船の確保が困難と。以降、中立国の船をやとってオランダの旗。これが大半のよう。経営、借財のスキャンダルもそんなところかと佐藤。かも、オランダ側の取引激減、利益は減少、出島使用料は莫大。ヘンミーの苦悩。ストレス、胃潰瘍。オランダ側の史料は 正確。のようと佐藤。これはシキリイバ、書記官ラスが商館長にかわりかいた。この人の評判も相当にわるい。死後商館長代理。やがて交代、本国へ。後任のウィレム・ワルデナールが着任。記録、在庫管理、帳簿、書類がひどい状態。シキリイバは書記官、商館長がカピタン。否。カタピタンはポルトガル語。らしい。オランダがくる前はポルトガルと交易。その慣習をオランダがそのまま。

*** 061004 斬殺説、犯罪行為、幕府の密偵
小守から入手の史料の複写をみせる。作成者、宛先、経緯など不明だが、国益をそこなつ。自分が始末する。という。成程。だからここに案内。というと。実はこのメイステルは斬殺されたという人も。いる。へえ。朝、死体となり発見。とも。その前夜、さかんに紙をやぶる音を。それはヘンミーが。然り。都合のわるい書類を処分。では。ふうん、出島には書類がなかった。それも。然り、ヘンミーは重大な犯罪行為にかかわってた。幕府の隠密がつけてた。スパイだった。こんな説も。オランダのスパイだったと。だったら重大な犯罪、国益をそこなう。まさしくと佐藤。

*** 061005 源内犯人説、オランダ側の配慮
それでヘンミーを掛川宿で待ち伏せ。始末しようと潜伏中の源内が。話しの筋はとおる。どうですかと疋田にきく。さあ。以前、米屋の九五郎。だったら異人もと。成程、そう自分たちが考える。源内の評判をおとす。ひいては相良の評判もと。川原さんは考えたと佐藤。かも、幕府は銅3000斤を贈呈。慰労。かも。この墓は日本側が。不知だが、出島から費用がでただろう。というのは安政元年(1854)の大地震で損壊。すぐにオランダ側が費用を。以降、参府の際、立ちより、慰霊。明治維新後はあれたが、大正14年(1925)に日本側の寄付で修復、オランダ公使も。供養。成程。予想外だった。で、何かほかにと常世田。何について調査かと疋田。

*** 061006 北斎の出現
返答にこまる。佐藤が考える。追及は横道に。商館長の不審死の詳細。不要。浮世絵世界と無関係。だから源内が写楽と告白。わらわれる。正体さがしの話しを告白。無駄話をさせたと思う。申し訳ない。罪悪感。源内がここにきたのか。オランダ商館長の死亡にかかわりがあるのか。まあと佐藤。この点はどうかと常世田が疋田に。否定。江戸からおってきた隠密にきられたという人。幕府は目をつけた。ようだからと疋田。調査はこれで。佐藤が疋田にきく。浮世絵のことは。広重はすきだが。佐藤は北斎の研究家と常世田。北斎だが、言い伝えで、ヘンミーが死亡、この際、北斎が姿をあらわした。へっ。

** 061100 掛川、薩摩と密貿易
*** 061101 北斎も隠密、絵を手渡し、絵の詳細
本当か。然り。何のため。北斎も隠密の一人だった。ヘンミーを監視してた。ということ。成程。ヘンミーは北斎と付き合いが。自分のかいた絵を手渡し。どんな絵か。不知。詳細をしりたい。なら名古屋市立博物館の興絽木。

彼はかってここに調査で来訪。ほう。北斎は畳120畳分の紙に大達磨の絵。かく会を名古屋で主催。たしか文化年間(1804~1818)と疋田。しばらく考えて思いだした佐藤。ああ、たしか文化14年。北斎漫画の宣伝。へえ。北斎大画即書細図という記録。記録したのが高力種信という名古屋の絵師。名古屋市立博物館に。然り。ずいぶん現代的と常世田。否、現代人にない。大胆な発想。蔦屋仕込み。北斎漫画というのは全国 にちらばってる弟子のための、絵の手本。然り。ベストセラー。明治になってからも重版、弟子が絵を追加。するとそのイベントは弟子がふえてから。然り、大勢の助手がいるから。この後にすぐ名古屋にいった。とか。否。この事件よりずっと後。北斎は宝暦10年(1760)生まれ。という。寛政6年には35歳。ヘンミーの死亡、39歳。北斎大画即書細図、戴斗の時代で50代以降。文化14年なら。58歳。北斎はずいぶん有名。興絽木氏はその絵についても。しってる。だろう。博物館にあるか。ない。だろう。たぶんオランダ。

*** 061102 名古屋へ、北斎の家柄
翌朝、名古屋へ。隠密説は本当かと常世田。これは作家、浮世絵研究家の高橋克彦氏の説。相当の根拠。根拠は。北斎は武蔵国葛飾郡の生れ。地名から号。もとは川村。元浅草の誓教寺に墓。この墓石に川村。その墓はオリジナル。何。地震、空襲で移転とか。否。姓。侍。ということ。8代将軍吉宗の時、紀州から。薬込役とか馬口之者という子飼いの役人。17家。密偵組織を編成。川村家はこれの筆頭。成程。で、上から。お庭番、徒目付(かちめつけ)、小人目付(こびと)、隠密廻り同心。

1) 隠密廻り同心は江戸町奉行の支配下。水茶屋の娘が人気。高慢になった。こんなことまで。
2) 小人目付、徒目付は目付の管轄、お目見え以下の者の監察。役人の素行を調査。江戸城内の宿直、登城時の玄関の取締り、将軍お成り先の警備。諸大名、旗本などの内偵。
3) お庭番は将軍の庭先まではいれる。諸大名の動向を将軍に直接報告。格がたかい。外様の謀反、戦いに発展しそうな不穏な動き。大事の監視。

*** 061103 川村家、隠密説のいわれ、隠密活動、浦賀に
川村家は。お庭番の家系。北斎の次男が養子。徒目付に。という記録も。特殊技能。簡単に仕事につけない。ついたら、やめれない。北斎は着るものに無頓着。乞食と見間違い。日常。飄々として絵をかく。が実は隠密の仕事も。そういう説。ほう。引越しを繰替えす。世情調査。弟子が全国に。しょっちゅう全国に出張。戴斗時代。もう有名人だから。弟子志願が殺到。とおおい弟子。倒幕の動き、外様の藩。不穏な者、組織、豪商。北斎の頻繁な地方旅行、多数の弟子も情報収集に便宜。

成程、ヘンミーも北斎の監視下か。まあ。江戸の上層部から指令、監察報告。ということかも。ではヘンミーがずっと目をつけられてた。あり得る。ではきったのも北斎。まさか、北斎の剣術の経験は。それにお庭番、隠密。そんな派手な動きは。ただ情報収集。自分の印象、実際に隠密。だったとしたら晩年の動き。それらしい。ふうん、どんな。

モリソン号事件、天保8年(1837)に日本の漂流民をのせたアメリカの商船。漂流民を送還。通商の要求。浦賀に来訪。砲撃、追い払い。薩摩に。そこでも追い払い。北斎はその時、浦賀に。三浦屋八兵衛として滞在。何のため。これは明治に出版の葛飾北斎伝に。その理由は不明。どうやら三浦の隠れキリシタンとの関係をおそれた。らしい。連絡がとれるか。妖術をつかう。と信じられてた。で不審な動きは。なかった。らしい。この時、北斎は70代後半。情報収集。らしい。浦賀の真福寺にマリア観音。ここが隠れキリシタンの集会所。とか。ここに北斎は滞在。

*** 061104 名古屋の博物館、ヘンミーの変死、密貿易
名古屋。投宿、翌朝。博物館。興絽木。オフィスのソファ。何をと興絽木。文化14年、北斎がここ名古屋で大達磨の絵をかくイベント。然り。西掛院で。印刷物をもってきた。北斎大画即書細図。巨大な筆をふるってる北斎らしき人物。実物を見たいのか。否。以前にも。常世田がわってはいる。掛川で客死したオランダ商館長のこと。ヘンミー。幕府の監視下だった。然り、あり得る。何故。薩摩と密貿易。へっ。

** 061200 名古屋、北斎、隠密説、ヘンミー、シーボルトと親交
*** 061201 薩摩と密貿易か、幕府、薩摩、琉球、倒幕運動
死後、商館長が携帯してた手紙から発覚。という。今、手紙は現存してない。それは事実。然り。長崎に赴任した近藤重蔵が確認。とか。しかし近藤重蔵は寛政10年に江戸に帰任、最上徳内と蝦夷地探検にと佐藤。そう。では失礼と興絽木。掛川でヘンミーは死亡前夜、書類をやぶってた。という話し。そのようで。しかしのこってたと興絽木。で、薩摩への処分は。無し。事実上の容認。せざるを得なかった。鹿児島までの遠征は相当の費用が。まける危険も。幕府にと佐藤。かも、幕末の長州征伐みたいに。あやうい。で密貿易についてはうんざりするほど。

また幕府と薩摩の間には密約。中国とは上限。その範囲で黙認。そんな話しも。しかし文献史料がでない。さらに対中国といっても。本当は対琉球、対欧州。と薩摩は手をひろげた。では、野放し。どうやら。監視カメラがある現在。でない。厳密には。薩摩藩自身が自国領内の抜け荷商人に厳罰。

いわゆる享保の唐物崩れ。とかいう事件も。それはどんなと常世田。薩摩の坊津の密輸。摘発。ここは昔から三重県の安濃津、福岡県の博多津。三箇津(さんがのつ)の一つ。ここにおおくの外国船。難破、漂流をよそおって。それは鎖国令の以降も。然り。それで坊津は密輸の拠点。繁栄。土地の商人はおお儲け。密貿易屋敷。薩摩藩の利益に悪影響。享保の摘発で豪商が壊滅。それで藩自身が密貿易。藩財政を立て直し、備蓄も。それが明治維新の軍資金にも。でしょう。外国の最新兵器購入の資金。黒潮が最初にぶつかる地域、先進の外国商品。兵器も。では、出島も。

*** 061202 ヘンミーが薩摩と、後任はきらった、監視はつづく、北斎
オランダ商館も本国はフランスに併合、入港の船の制限、経営困難。薩摩との密貿易の話しにのった。後任の商館長、ドゥーフはきらった。ヘンミーの時代はやってたという。幕府は。うすうす。薩摩には疑いの目。で、証拠は。まあ、でも軍事行動には巨額の資金が。では監視は。そう。でも抜け荷はあちこち。

北斎が小布施の曹洞宗の寺で天井画。ああ岩松院の八方睨み鳳凰図。89歳、遺作となったと佐藤。あの時も新潟の商人が薩摩をつうじて、日本海回りで外国と密貿易。それで北信濃路界隈に幕府の隠密。跋扈。だから北斎も。一ヶ月土地に滞在。じっくり情報収集。小布施の豪商、高井鴻山邸周辺。ここからも北斎隠密説。ふうん。信州でもあったから九州まではと常世田。成程。然り。薩摩、巨大な密貿易専門藩。国内の需要を一手に。外様。関ヶ原以来、幕府はゆるしてない。なら罪悪感はすくない。やっぱり国をとじてると思ってたのは幕府ばかり。しらぬ間におお儲けの連中。そうかも。あの鳳凰の絵は退色がない。それは辰砂(しんしゃ)、孔雀石、鶏冠石。この鉱石は中国渡来と。150両とも。

*** 061203 北斎の西洋の知識、ヘンミーに肉筆画
他におかしなことはと佐藤。小布施の祭り屋台、これに北斎は絵をかいてる。背中に翼のある天使。欧州の教会の壁画のよう。これはやってよいのか。成程、われわれのしらないところで。輸入品にささえられてる。それでわかるのでは。佐藤さんと常世田。何が。相良のあの手紙。源内かどうか。不明。だが薩摩と密貿易。放置は由々しき問題。幕府に打撃。だから自分が掛川でオランダ商館長を始末。みせしめと。まあ筋はとおりそう。幕府もヘンミーの監視を。その一人が北斎。そうかな。ああ源内は北斎をしってたか。然り、どうですか興絽木さん常世田。北斎が監視。まあ。北斎がこの時、ヘンミーに肉筆画をわたした。本当か。然り。否、この時かどうかは不明。どんな絵か。風俗絵巻。江戸の町人文化をうつしたもの。ヘンミーは日本をはじめ本国、欧州に紹介したかった。ということ。彼も学位をもつ教養人。

*** 061204 それはオランダ、シーボルトにも、事件発覚
その絵はどこに。オランダ、ライデン民俗学博物館。ほう、それはよいのかと常世田。何が。幕府の隠密。国内の諸事情をもらす。国益に反しないか。でもそれは後世のシーボルト事件のほうが重大と興絽木。日本の侍の武具、鎧、兜、刀、槍、鉄砲、大筒。精密に彩色してかいてる。これを国外にもちだした。ほう。風俗絵巻とちがう。専門家が見れば武器の性能、ひいては軍の実力がしれる。これは第一級の軍事情報。たしかに、シーボルト自身の説明。ある日本の友人にもらった。迷惑がかかることをおそれてる。ことの重要性に気づいてる。シーボルト・コレクションは膨大。本国が買いあげ。ドイツもと佐藤。

日本家屋の精密な模型も。これは職人につくらせた。お茶の葉のコレクションも。紙の見本帳。ほう。和紙、 襖紙。布の見本帳。一種のタイム・カプセル。ともかくシーボルトのコレクションが発覚。つんだ船が長崎で出港待ち。台風の襲来。座礁。離礁できなくなる。禁制の品々が発覚、大騒ぎ。伊能忠敬の日本地図の縮図。北斎がかいたらしい武具の図。国防問題に発展。大勢がきびしい取り調べ。彼は日本に帰化を申し出。でも、結局、国外退去。しかし禁制の品々、大半がシーボルトに返却。だから国外へ。

*** 061205 北斎の絵提供、お咎めなし、北斎と二人との関係は
不思議な裁決。まあ結局はよかった。これで欧州に日本学が。黒船来航の際、シーボルトが日本のために尽力。再来日して外交顧問。われわれは当時の日本の製品が見られる。もう一つ不思議なこと。武具の絵をかいてわたした北斎に咎めなし。しらべられてもいない。そう。どう考えるべきか。隠密だからか。隠密がこんなことをやるか。興絽木がいう。そこまでしたから。ヘンミーもシーボルトも信用した。成程。武具の絵がどんな意味があるか。わかってなかった。かも。どうせ戦争用の装備。似たり寄ったり。デザインの差くらい。とか。町娘の服装をかく。おなじようなもの。とか。ながい間、戦争がなかった。鎧兜は男の衣裳。とか。しかし、それより自分が変と思うもの。北斎がどうしてオランダ商館長、シーボルトのようなえらい人に親交を。然り、当時は一介の町絵師。今でこそ世界的有名人。だが桂川甫周のような将軍つきの医師でも、杉田玄白、前野良沢、大槻玄沢でもない。こんな大物が短時間でも話しがしたくて長崎屋にいく。なのに北斎がこの二人にあえたのか。

*** 061206 北斎と二人の接点は
彼らは国賓。乗り物駕籠にのる。庶民にできない。江戸をうごく。大名行列みたい。監視されていた。民衆から隔離も。いわば雲の上の人。誰が紹介したのか。成程、当時の身分制では。街頭の似顔絵かき。杉田玄白、前野良沢、大槻玄沢の知り合いでも。紹介した。ならば西賓対語にあらわれそう。でてない。謎。有名だった。浮世絵師としてと常世田。シーボルトの頃ならあるいは。ヘンミーの参府した寛政10年には、北斎はまだ39。宗理の時代。国賓に。それほどの大物では。それにどんな理由でお目通りするのか。大物になった。としても蘭学と無関係。しかもお上ににらまれてる蔦屋の浮世絵師。国賓にあわせる理由は。桂川甫周などの大物の学者たち、この事実をしってたか。成程、しらかったような。秘密だったか。しかしシーボルトは北斎を日本の友人といってる。何故。どうして友人になれたのか。謎。

(上のおわり、下につづく)

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