謎解き京極、絡新婦の理その3 [京極夏彦]
この京極作品を未読の皆さんへ
不用意にのそくことをすすめない。 (この連作の趣旨、体裁は「謎解き京極、姑獲鳥の夏」で説明した)
あらすじ3
9,10,11
第18日目、勝浦町である。理事長室で美由紀が回想する。隆夫の犯行を隠匿するため学院が美由紀ほかを幽閉。翌日、生徒のほとんどが帰宅。3日目、学長室で真佐子が美由紀の話しをきく。その後、碧がよばれる。理事長室で美由紀と碧が対峙。碧が自分を正当化した。榎木津が哀れむ。碧が隙をみて逃走。木場が登場した。
学院関係者にも目潰し魔の被害者がいる。事情をきくため、きたという。隆夫が碧を人質に逃走。屋上につづく扉の前で隆夫が対決。到着した京極堂が話しかける。偽装誘拐をやめるよう碧にいう。碧に危険を警告する。木場に保護される。屋上ににげた隆夫は榎木津に取りおさえられる。引きわたしをもとめる警察を制し京極堂が事情をあきらかにし、事件を解決にみちびくと約束する。
京極堂は学院の成りたち、学院の七不思議、さらに連続絞殺魔事件、連続目潰し魔事件、蜘蛛の巣の僕の秘密をあばく。おおくの死が生じた後、真犯人の蜘蛛が指摘され、事件は終結する。
日目 | 勝浦 | 奥津 | その他 |
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27年 | 12月、目潰魔純子殺害 |
4月、紫死亡 10月、絞殺魔弓技殺害 |
5月、信濃町、目潰魔妙子殺害 |
第1 | 28年2月、四谷、目潰魔八千代殺害 | ||
第2 |
絞殺魔本田殺害 夕子、小夜子投身 |
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第8 | 雄之介、死亡 | ||
第9 | 是亮脅迫、小夜子約束 | ||
第11 | 海棠、美由紀脅迫 | 絞殺魔是亮殺害 | |
第12 |
四谷、志摩子逃亡 神保町、美江榎木津依頼 中野、増岡京極堂依頼 |
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第14 |
榎木津絞殺魔指摘 絞殺魔小夜子殺害、海棠負傷 隆夫捕縛 |
目潰魔志摩子殺害 | |
第15 | 生徒帰宅 | 今川、依頼、京極受諾 | |
第18 |
京極堂、憑き物おとし 2名死亡 |
京極堂、憑き物おとし 3名死亡 |
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4月 | 京極堂、真犯人指摘 |
おことわり
京極作品を未読の皆さん、どうかここを不用意にのぞいて将来の読書の喜びを損なわないよう、よろしくお願いする。
再度の警告。本文にはいわば「ネタバレ」が溢れている。未読の方にはすすめられない。では本文である。
謎解き京極、絡新婦の理その3
9
第十八日目、千葉の勝浦町である。美由紀は理事長室にいる。事件のことを回想する。美由紀は隆夫の犯行後、また部屋に幽閉された。益田はすばやく現場を脱出し、榎木津は別の部屋に軟禁されたようだ。碧も部屋に足止めされたらしい。学院が警察側との接触を防ぐためだった。警察の要求にもかかわらず隆夫の引き渡しを拒否した。売春の事実を否定した。しかし学院の碧への不信感は確実に高まっていった。事件の当日、小夜子の両親が到着した。泣き喚くふたりに大丈夫だといいはった。その翌日、ほとんどの生徒が親元に帰らされた。三日目の朝である。美由紀が学長室に呼ばれた。学長室には学長、柴田、事務長がいた。学長が真佐子が美由紀の話しをききたいといって来学したという。真佐子は碧のことを気にせず、率直に話してほしいといった。口籠る美由紀を虚言だという学長に真佐子は碧には虚言癖があると入学時に断わったと指摘した上で、説明を促した。美由紀はこれまでの発言を繰り返した。なおも抵抗する学長を制して真佐子は碧を呼ぶことを要求した。美由紀は理事長室に移動し、碧が呼ばれることとなった。冒頭部分に戻る。美由紀はあらためて自分が正しかったのか考えた。
碧が犯人であることに自信がなくなった。突然、榎木津の声がした。それはないという。また死んだ小夜子は生き返らない。前向きで生きるよう励ました。また椅子に戻って寢た。柴田が入ってきた。後に碧がいた。柴田は碧は真佐子の前でも相変らず否定した。柴田は困った。ふたりの話し合いで真実を見いだすのがよいと思った。美由紀に碧と話し合ってくれといった。美由紀は呆気にとられた。後に碧が立っていた。美由紀を見て笑いだした。碧の告白がはじまる。あの時、神を信じないという美由紀の態度が気に入った。他の仲間は遊び気分である。最後の逃げ場を用意して悪行に遊んでいただけだ。夕子のような女はどうしても許せない。美由紀は自分の気持が解るだろうという。美由紀は神も悪魔も信じないといったはずという。自分は祝福されずに生まれた悪魔の申し子だ。もし美由紀が自分の気持を解ってくれないなら殺してあげると迫った。理事長の机の後から榎木津が立ち上がった。碧を見て、悪魔ではない。可哀想にという。碧が扉のノブを後ろ手に触れた時、当然扉が開いた。すばやく碧は外に脱出した。そこに木場が立っていた。
志摩子を殺害して足かけ四日目となるが平野は依然逃走中である。この辺りに潜伏しているはずだが、ここにいる千葉の刑事はまったく頼りにならない。平野の被害者四人はこの学院の関係者だと知った。そのため事情をききに来たという。美由紀は簡単に経緯を話した。ただし先ほどの碧の発言は話さなかった。四谷署の刑事が顔を出して、千葉の警察の態度に文句をいっていると、廊下で大勢の足音が響いた。隆夫が碧を人質にとって逃走したという。榎木津が自殺に適した場所に向ったという。美由紀とふたりで校舎の屋上に向う。逃走につき学長と刑事がやりあう。学長は部屋に鍵を掛けていたという。玄関から中庭に出る。背後に教員棟がある。左手から個室棟、聖堂、礼拝堂。厨房棟と食堂。正面に円形の泉。泉の向こうに三棟の寮。寮の後方には果樹園。温室。畑。校門につづく道がある。校舎の正面玄関の扉の隙間から。女装の着物が見える。柴田、学長、警官も校舎に向う。屋上に出る扉の前に葵を抱えた隆夫が立っていた。美江が止めるよう呼びかけた。美由紀の横に木場が到着した。弁護士の増岡と京極堂、その後ろに刑事の青木が現われた。京極堂が語りかける。
隆夫の憑き物を落とすという。その着物は八千代の友禅である。返してくれ。隆夫に近づく。救助を求める声を上げる碧に偽装誘拐を演じるのを止めるよういう隆夫は碧を本当に殺すつもりだ。隆夫が碧に従順なのは、その着物を着ていない時だけだ。その着物を着ると自分の意志で人を殺すという。碧は暴れて着物を剥ぎ取ろうともがいた。隆夫は扉にぶつかり、着物を掴んだ碧は壁に当って倒れた。隆夫は自分は人間の屑だといった。京極堂が碧を木場に預けた。隆夫は屋上に逃げた。屋上で待ち構えていた榎木津が隆夫を押さえた。やがて刑事たちに引き渡された。国家警察千葉県本部の警部が木場に碧の引き渡しを求めた。夕子殺害の重要参考人であるといった。京極堂が警部に自分に少しの間任せてほしい。このままでは隆夫も碧も自供しないだろう。その際、警察が知らない重要情報を提供しようという。木場の口添えもあり、了承された。一行は聖堂に向うこととなった。それは隆夫、碧、千葉の警部と刑事、柴田、学長と事務長、教務部長。木場と四谷署の刑事。今川。榎木津、益田、増岡、京極堂。真佐子と美由紀、美江だった。玄関で真佐子に今川が京極堂を呼んだわけを説明をする。それは茜の意志かときく。美由紀は校庭で益田に会う。京極堂が構内の建物を見回す。
美由紀が京極堂に礼拝堂の浮き彫りと象形文字が読めるのかきいた。読めるという。美由紀に学院の七不思議のことをきく。血を吸う黒い聖母、十三枚の星座の石。涙を流す基督の絵、開かずの告解室、血の滴る御不浄、ひとりでに鳴る洋琴、十字架の裏の大蜘蛛という。その所在地は。黒い聖母が礼拝堂の裏、基督の絵は図書室の横の壁、つまり校舎の中、ひとりでに鳴る洋琴は教員棟、血の滴る御不浄は個室棟の一階、開かずの告解室は礼拝堂にある。ぽつりとここは基督教ではないという。美由紀は入学したとき、食堂寄りの学寮棟に階段が一段増えるという話しをきいたという。京極堂が黒い聖母と十三の星座の石を除き、階段を加えた六不思議が本来の姿だという。美由紀と益田の質問に答えながら京極堂はこの六つの地点からそれぞれ三点を結び、重ね合わされた二つの正三角形を作る。これは六芒星の姿となる。ソロモンの印章、あるいはダビデの星の姿だという。益田にお宮から神像を持ってくるよう指示する。
京極堂が聖堂で話しはじめる。ここに集まった人はこの学院で起きている連続絞殺魔事件と千葉と東京で起きている連続目潰し魔魔事件に関わりのある人々である。このふたつを俯瞰するなら同じ事件だが、個々の人にとっては別の事件だと見える。まずこの学院で起きている事件から整理する。この学院には蜘蛛の僕と称する少女たちがいた。黒弥撒というふしだらな儀式を行なっていた。その一部に売春が含まれていた。この儀式をつづけてゆく上で支障となり得る人物が発生した。その人物を目潰し魔が殺害していった。ところがある時点から、これを絞殺魔が引き受ける形で殺害をつづけていったというのがひとつの事件として見たときの流れであるという。柴田が隆夫が小夜子が本田に復讐するのを防ぐために先回りして実行した。蜘蛛の僕のために実行したわけではない。ひとつの事件と見るのには無理があるという。京極堂がたしかにそのように見えるところがある。しかし本当か。隆夫の殺害目的が何だったかをよく見極める必要があるという。
隆夫に本田、是亮、さらに小夜子を殺害したかときく。然り。その理由は。不答。なぜ小夜子まで殺したのか。不答。京極堂がここから昔の話しをするという。隆夫はかって小学校教員だった。妻の美江は凡庸な教員だったといっているが認めるか。否。子どもにも劣る人間だった。その理由は何か。ある時、子どもが怖くなった。自分は子どもの規範となるような人間ではない。劣った人間だと自覚した。怖いと思った具体的理由は何か。遊びで子どもに頸を絞められた。身の危険を感じた。止せ、止せといったが通じなかった。京極堂がそれが恐怖の正体だという。あなたは言語による意志の伝達が不能になったと確信して不安に陥いった。そこで逃げ出した。然り。京極堂が恐怖という感情は対象と接触することで生まれる不快を忌避する感情である。その不快を与える対象を子どもから大人まで広げた。その理由は何か。あるいは隆夫は何時から大人になったのか。回答不能。子どもと大人を分ける境界はどこにあると思うか。回答不能。隆夫はその境界を定める基準を見失なった。然り。隆夫が語りはじめる。
自分は子どもを叱る自信を失なった。子どもと大人では大人の方が偉いという無条件の特権がなければそんなことはできない。ではその特権とは何なのか。男と女のどちらが偉いのか。社会で自立していることか。働いていることか。金を持っていることか。わからない。隆夫は警官の手を振り解いて、自分と世界を分つ境界はどこにあるのか教えてくれという。誰も教えてくれなかった。国のため、陛下のために死ぬことが美徳だ。それだけを教わった。戦後、金を稼げといわれた。経済的に自立することが社会人の条件で、社会に適応できない自分は人間の屑だ。京極堂がわかった。隆夫は屑だという。屑の隆夫を捨て美江夫人が去り、隆夫は一人となった。そして柚木加菜子に出会った。加菜子は二十七年の夏に死亡した武蔵野連続バラバラ殺人事件のヒロインである。隆夫の家は柚木家の隣家だった。隆夫は隣家をのぞき見て加菜子を知ったという。
隆夫がいう。加菜子は子どもでも大人でもなかったから怖くなかった。のみならず女でも男でもなかった。ただ美しい人間だった。美江に去られ自分は対人恐怖症が日増しにひどくなった。自分を拒絶する属性を持たない加菜子に興味を持った。京極堂が、隆夫が偶然加菜子が頸を絞められているところを目撃したという。驚いた隆夫に人間らしい感情が戻ったようだ。それはどんな光景だったのか。白い細い頸にしなやかな指が食いこんで、もがき苦しんでいたようだ。それは恍惚の表情だった。死んだと思った。京極堂がしかし死んでいなかった。それは愛憎半ばの感情を抱く家人の戯れに過ぎなかった。追い詰められていた隆夫は加奈子の存在に救いを見いだした。加奈子は大人でも子どもでも、女でも男でもないばかりでなく、さらに普通には越えられない一線も越えたという。生と死のどちらにも立っていなかった。京極堂が加菜子はどういったのかときく。加菜子は着物から出る手は母親の手である。冥界から伸びる死んだ女の手だといった。京極堂がそれが女装して頸を絞める表向きの理由になったという。このことで隆夫の精神は一時快方に向った。しかし加奈子は死亡した。再び精神の均衡を失なって家を出たという。話しが続く。
京極堂が隆夫が浅草の秘密倶楽部で弓技と知り合い、弓技を通じて蜘蛛の僕のもとに送られた。学院で本田、是亮、小夜子を殺害し、海棠を襲った。然り。隆夫は弓技に腹を立てていた。然り。加菜子と同年代の少女は神聖なものだった。売春は許されない。弓技の死には溜飲を下げた。しかしそれでも隆夫は弓技の奴隷だった。然り。学院で隆夫はより完璧な支配者に出会った。然り。その少女の名前は何というか。不答。隆夫が蜘蛛の僕と接触した。それはひとりとだけだった。然り。隆夫は蜘蛛の僕の集団に仕えていたのではなく、ひとりの少女だけに仕えた。然り。その人物は売春を行なっていなかった。京極堂の解説である。悪魔と魔女は違う。この少女は魔女を使う悪魔である。それ自体が冒涜だから売春を行なう必要がない。青木が何かをいおうとするのを制止して、この少女は本当の蜘蛛ではないという。隆夫は少女から本田を痛めつけよと命じられたが、殺した。然り。本田は事前工作だった。これでさんにんを屋上に誘い出して、美由紀、小夜子を畏怖させ、夕子を突き落とす計画だった。小夜子の投身は予想外の出来事だった。屋上に本田がいると小夜子に囁いて誘いだしたという。
隆夫は美由紀と小夜子の話しを立ち聞きして少女に報告した。純粋に小夜子のために殺害したと主張するのは疑問だ。着物の話しとなる。隆夫がいう。あれは死んだ女の着物だ。袖を通すと本当の自分に戻ったような高揚感がある。京極堂が庭で受け止めようとしたのは夕子だったのではないかという。小夜子を受けとめたために夕子は墜落死してしまった。是亮の話しとなる。少女は隆夫に是亮の殺害を命じた。葬儀の時、是亮を尾行したのではなく少女の指令を貰いにいったのではないか。そこで少女は是亮、小夜子、海棠の殺害を命じた。隆夫にとって小夜子はもはや神聖な少女ではない。そこで小夜子を呼びだして殺害した。美由紀が我慢できずに隆夫を殴って、泣いた。京極堂が指摘する。命じられたとはいえ、殺人はやはり隆夫の意志で実行された。隆夫はそこで自分は人間の屑だという。京極堂が一喝する。そろそろ自分を貶めることに嫌気が差しているはずだ。だから人質となった碧を本当に殺害しようとしていたという。この少女ももはや神聖な少女ではない人殺しだ。同じ人間の屑だ。そう思わないか。否。京極堂がそんなに自分を貶めようとする本当の理由は、女が男より劣っているという戦前の教育の影響から抜けだせないのと、自分の中に押え難い女性性を持っているからではないかという。榎木津が隆夫は女装の変態だ。しかしそれを恥じることはないという。京極堂がつづける。
隆夫は自分の女性性を覆い隠すために多くの方法を試し、多くの言葉を費した。だから言葉が通じないことからくる恐怖を誰よりも強く感じた。自分を隠す言葉を失なうとただの屑となった。隆夫はもともと男でも女でもない境界人だった。隆夫は同じような境界人であり、完璧な加菜子が羨ましく妬ましかった。彼女のような完璧な姿を持てば隆夫の女性性は輝くはずだ。それができない隆夫はまるで復讐でもするように、女になって少女の頸を絞めたのではないか。然り。隆夫は大声で自分を説明し認めた。京極堂が隆夫の中にある女性性は恥ずべきことではない。しかし殺人は大罪である。自分が人間の屑だという言い訳で糊塗することはできないという。ここではじめて碧が隆夫に殺人を示唆したと告白した。京極堂が美江に離婚するかきいた。否。自分の態度にも非があると思うといった。京極堂がこれで隆夫の話しは一応終ったという。
木場が長過ぎるといった。京極堂が隆夫を含む個々の事件は、それらをひとつにまとめる全体の事件につながっているという。隆夫にきく。二十七年の夏、加菜子が姿を消した後に短期間働いていた。どこで働いていたのか。信濃町の印刷工場。そこで加菜子の話しをしたか。然り。聞き上手な青年がいた。名前は川島喜市。刑事が驚きの声をあげる。その職を周旋したのは誰なのか。隣りの家を訪問した紳士。増岡が武蔵野連続バラバラ殺人事件の関わりで当時、加菜子の家を何度も訪問していた。自分が紹介者のようだ。隆夫のいった印刷所には武蔵野の事件のを報告書を印刷させた。この印刷所は是亮の大学時代の同窓生が経営していた。京極堂が隆夫はこの時点で全体の事件の真犯人によって登場人物に選ばれていたようだという。弓技と秘密倶楽部で知り合うまでの経緯はどうか。八月末、幻覚に襲われ家を飛びだしこの印刷所に行った。わずかだが未払いの給料があった。無断欠勤したにもかかわらず全額支払ってくれた。その上にあの倶楽部を紹介してくれた。京極堂がこれは偶然ではない。こうして最後に学院にたどりつくまでの過程は事前に準備された仕組みにより誘導されたものという。柴田が小夜子、本田のこともその全体の事件の一部分かときく。京極堂がそのとおりといって、碧に君も踊らされていた。わかったかときく。不答。碧が愉快だと笑いだす。
碧は踊らされていたことを否定し、蜘蛛の僕の中心人物として自分の意志で行動した。数々の冒涜行為もそのとおりという。しかし呪いによる殺人を裏付ける証拠がないと開き直る。柴田、学長ほかも驚愕する。碧が語りはじめる。自分は最初敬虔な基督教の信者だった。しかし学院で学べば学ぶほどわからなくなった。マルボードという基督教の司教の書物、聖書創世記の神の詞を引用し女が諸悪の根源であると教えられたという。疑問をもった自分の質問にたいし行儀作法を身に着けた良家の子女として恥ずかしくない女になれといった。女はどこに救いを見いだせばよいのか。失望した。だから悪魔を信じた。碧は魔女の槌を引用して魔女の実在を主張した。驚いた京極堂がそんな本をどこで読んだのかきく。この学院には、ソロモンの鍵、レゲメドン、ホノリウスの書、形成の書、光輝の書、秘法開顕もある。魔女は存在する。自分の呪って順に呪った相手を殺した。弓技のときは半信半疑だった。しかし呪いが成就された。悪魔との契約が成立した。怖れだした仲間に魔女の刻印を押した。隆夫は自分の意のままに動いた。蟲だといった。隆夫は自分は犯罪者だが目覚めた。蟲ではないという。京極堂が碧にもういうことをきかないという。悪魔論争がはじまる。
京極堂が碧のいう悪魔は、悪魔なのか、魔王なのか、悪鬼なのか、冥王かという。これらは起源が違い役割が違う。属性が違う。碧の学んだ禁書魔書は十二世紀から十八世紀に書かれた。悪魔学は十五世紀に盛んになった。悪魔という概念はこのような背景の中で形成され、複雑で混乱のあるものとなった。それをそのまま鵜呑みにしてはいけない。そもそも悪魔とは何か。悪魔は本邦を含む基督教と乖離した文化圏に跋扈する妖怪悪鬼の類とは根本的に異なる存在だ。悪魔とは基督教における神の敵対者である、基督の対蹠者とされる。しかしそれは拝火教やグノーシス主義者のいう、いわゆる善悪の対立する二元の一方といしての邪神ではない。基督教は一神教である。神と拮抗する力を持つ者の存在を認めない。神は完全なる創造主、悪魔も神の作ったものである。基督教では神が許す範囲でしか存在を許されない。つまり悪魔は神を正当化するためにのみ存在している。そもそも悪魔は神の下僕だった。罪人を責めて引き立てる怖ろしい顔をした天使こそ悪魔の原型である。碧が自分のいう悪魔はもっと古来から存在したという。
それは基督教が侵入するまでは悪魔でなく神だった。基督教が入って基督教の悪魔に変容した。いいかえれば悪魔は基督教の概念、その外にはない。悪魔は神が造ったもの。そこに基督教の憂鬱がある。悪魔が神の創造物である限り神には絶対勝てない。悪魔が弱ければ神の偉大さが際立たない。しかし強大な力を持った悪魔を造ると、偉大な神に近づく。一神教の基督教は根本的な葛藤を持った宗教だ。基督教はもうひとつ、女性原理の問題における葛藤を抱えている。基督教は男性原理に支配された女性蔑視の構造を持っている。それは碧がすでにいったことだ。しかし聖女を賛仰する動きもあった。このほとんどは男性の視点からの女性礼賛であったが、聖母信仰もあった。一方で貶め、他方で崇める動きである。中世の魔女狩りだ。そこでは聖女として女性を崇めるとともに魔女として焼き殺している。悪魔と魔女が結びつけられる。こうして結びつけられた悪魔学は魔女狩りに応用される。魔女の背後には先行する信仰、宗教儀礼がある。信仰対象である土地神も悪魔化された。奢覇都は先行する宗教儀礼だ。基督教の倫理観で見ると忌まわしいかもしれないが本来は健全な宗教儀礼だ。話しがつづく。
そこにある医療行為、癒しと魔術の関係も考慮する必要がある。魔術と科学は本来同根だ。白魔術が自然科学、黒魔術というのは穏秘学だ。この違いがわかるかと碧にきく。白魔術は公のため、黒魔術は個人の利益のために用いられるもの。そのようだと認めるが話しがつづく。白魔術は原理原則が詳らかになっているもの。黒魔術はその原理原則が暗箱に入っているもの。白魔術は誰にでも使え、黒魔術は秘密を知っている人にしか使えない。白魔術、癒しの技は古来女性が司っていた。これは医療行為だ。しかし癒す女たちはその技、医術を男性、体制に奪われてしまった。原理原則は魔術を切り離されて科学となり、理を失った魔術は黒魔術になってしまった。この黒魔術の暗箱部分には様々な穏秘学が放りこまれた。ここに悪魔学が成立する。悪魔、魔女、儀式、魔術という組み合わせが完成する。そうしたものが意図的に弾圧を受け、碧がいうような冒涜的なものとして発露するのはずっと後世のことだ。古代からあった、たんなる女性蔑視、たんなる信仰のゆがみ、たんなる先行宗教の儀式といったものが後世においてその時代の常識により変容されて悪魔学といったものに結実した。まとまった反基督の考えができるには、まず基督教自体が原理に基づいて構築されなければならない。聖餐式なくして反聖餐式なし。黒弥撒は古代の悪魔、古代の呪術と結びついているようで、結局弥撒のパロディでしかない。碧が抗議する。話しがつづく。
それは現代人の感覚で解釈するから違和感が生じるのだ。それに碧がいうような神秘を期待するのなら、それは基督教の構築した世界の中でなければならない。正統なくして異端なし。悪魔なくして神なし。碧はここは堅牢な基督教の学舎だという。京極堂がここは基督教の聖堂ではない。猶太教の聖堂だという。カバラを知っているか。これは猶太教に基づく神秘主義思想だ。ここにある浮き彫りと文字はカバラに基づく魔術結界が張られた証拠だ。碧がいった書物の多くもカバラの基本書だ。碧に話しかける。猶太教は神との契約に基づく選民のみを救う民族宗教だ。ここに十字架はあるが基督はいない。信じないという碧に追い討ちをかける。猶太教である証拠はまだある。学院の七不思議といわれたものを整理しなおして、その六つの地点を結べば、六芒星が浮かびあがる。それはソロモンの印章、ダビデの星だ。京極堂が益田がお宮から持ってきた黒い像を示す。
これには対になったもう一つの像がある。白い像だった。これは仁吉が若い頃、海から採取したものだ。これはこの学院が建てられる時に海中に投棄されたものだろう。この白い方は木花咲夜毘売、黒い方は石長比売だ。大山津見神の娘、姉妹神だ。織姫の祖形、天孫爾爾芸命を迎えた神の嫁だ。たぶんこの聖堂のある場所は織作家の聖地だった。泉の辺りは斎場、選ばれた織作の女がそこに籠り来訪する客人を待つ場所だった。この学院の建物は基督教の精神に則たものではなく、先行する信仰や風習を封印するために、建てられたものだろう。学長がここを建てたのは敬虔な基督教の信者、織作伊兵衛だったはずという。真佐子が伊兵衛は敬虔な信仰者だったが、何を信仰していたか知らないという。呆然としている碧に京極堂が誰が黒魔術を教えたのかきく。不答。京極堂が書物は開かずの告解室にあったのだろう。また聖堂の十字架の裏には見られたくないものがあったはずだ。そこを開けた。猶太教の律法、諸書を取りだす。告解室の話しとなる。お宮の石長比売は告解室の中にいる人物を見守っている。伊兵衛の隠し部屋になっていたという。京極堂が告解室の鍵を誰に貰ったのかきく。不答。碧が最後の抵抗のように呪いはやはり存在した。目潰し魔による殺人が行なわれたではないかという。
京極堂がそれは平野が別の動機で行なったもの。呪いではないという。碧が八千代の着物を示す。悪魔は呪いがかなうと、殺した相手の遺品を持ってきた。山本の眼鏡、弓技の刃のついた鞭。それは成就した翌日に星座石の上に置いてあったという。それは真犯人が誰かを使った置かせただけという。悔しがる碧に弓技はどのようにして碧に連絡したのかときく。なぜ碧が蜘蛛の僕を組織したのを知っていたのかときく。なぜ山本舎監は売春の秘密を知ったのか。必ず情報提供者がいる。本田と山本は蜘蛛の僕の組織を瓦解させるための駒だった。本田には二十七年の夏に売春の情報を流したはずだ。しかし小夜子にばかり関わって進展しない。そこで山本に情報が提供されたという。なぜ八千代を呪ったのかときく。脅迫の手紙が届いたからという。八千代は蜘蛛の僕のことは知らない。是亮が売春の情報を掴んだのも偶然ではない。本田が死んだ翌日に美由紀を売春をタネに脅迫している。全体の事件の真犯人が情報提供したからだ。真犯人は鍵を渡した人物だという。碧がすっかり気弱になる。京極堂が夕子は誤って顛落した。碧は突き落すつもりだったが、結局実行できなかったのだろうときく。認める。榎木津が中学生が魔術を使うのは早過ぎるという。京極堂の誰が鍵を渡したのかという問いに答えない。碧の告白がはじまる。
自分は呪われた織作家に終りをもたらすことが目的であった。これで目的が達成できると真佐子に呼びかけた。真佐子はこの程度のことで織作家は終らない。碧は売春も殺人も犯していない。法の裁きを受けて罪に服しなさいという。碧が警官を振り切って美由紀にとりついた。鞭の先端が頸に当たっている。碧が自分は弓技の鞭で警官を傷つけた。これから美由紀を殺すという。美由紀を離すよういう真佐子に向って碧より美由紀の方が心配なのだろう。自分は死んだ方がよいのだという。京極堂がそこまで織作家を呪うのは自分の出生に疑問を抱いているからかときく。真佐子がそれは何のことかときく。碧は自分は父、雄之介と姉紫との間に生まれた子どもだろうという。真佐子が否定していう。紫は生きて十年と医者にいわれた身体だという。京極堂が紫は子どもが産めない。柴田との縁談が破談になったのも同じ理由だと碧に説明する。真佐子の必死の説明にも信じられない碧に京極堂がそのような嘘の話しをしたのは誰かときく。碧に鍵を渡した人物と同一人物ではないかときく。碧が動揺する。美由紀を突き飛ばして逃走する。泉を背にした碧を警官が取り囲む。碧が礼拝堂に向って走る。碧を追って中に入った京極堂が開かずの告解室を指して、ここに入ったという。大勢が集まってきた。扉が開いた。碧が仰向けに倒れた。瞳に鑿が突き刺さっていた。平野が飛びだしてきた。視るな、視るなと叫ぶ平野が押さえられた。京極堂が碧から八千代の着物を剥ぎとった。それを平野に被せた。また、視るな、視るなと叫んぶ平野が警官により外に連れだされた。京極堂があの着物は隆夫に送らたのではなく碧に送らたものだ。碧の殺害がこの学院の惨劇の終りを示すものだ。平野を操る次の犯人はわかった。織作家で化粧をしていない女だといった。
10
第十八日目、千葉の興津町である。蜘蛛の巣館において伊佐間が月光に照らされた桜を眺めている。先刻、碧が平野に刺されて死んだという。平野により手を刺傷した時からのことを回想する。手当を受けてこの館に戻ってきた。葵と警察の対立が激化した。碧を重要参考人として呼びたいという警察に葵は抵抗した。警察はその理由を説明した。勝浦町の酒舗から是亮が殺害当日の午前十時に帰宅した。ホールでまた火酒を飲んでいた。葵はその姿を見てすぐ自室に籠った。茜とセツは厨房にいた。碧は是亮といっしょにホールにいたらしい。是亮はそれまで書斎に入ったことはなかった。またその時、今川、伊佐間が鑑定に訪れていることも知らなかった。誰かが教え、書斎に誘導したはずである。警察は碧がこれを教え、書斎に誘導し、隆夫に絞殺するよう仕向けたのは碧だと疑っているためといった。さらに碧が学院での売春、殺人事件に関わっている。夕子については実行犯と疑っている。このことは柴田からもたらされたらしい。真佐子、茜、葵が相談して碧を切り捨てることとしたという。茜はそのことを伊佐間に泣いて訴えた。真佐子は碧はそういった娘だ。葵は迅速な事務処理が必要だという。こんな時こそ家族が協力すべきなの、バラバラになっている。自分は無能で何もできないという。伊佐間は自分も無能であると認め、京極堂を呼ぶことを決意し、今川に頼んだのだった。京極堂が学院に行った。真佐子も学院に今朝出かけた。そこで碧が死んだ。冒頭に戻る。
伊佐間が真佐子を玄関で待つ。そこで考える。蜘蛛の巣館の構造がわかってきた。館にはいくつかの開口部がある。その出入口の数だけ筋がある。部屋の大小は関係ない。階層も関係ない。廊下や階段は勘定しない。扉が二つの部屋もたんなる通路である。二つの扉のうちのひとつが外に向けて開いている部屋だけがその筋の起点である。そしてそれらの部屋の連なり、筋はどこかに集約している。そこが筋の終点である。いく筋あるか知らないがすべての筋が到達する部屋がどこかにあるらしい。そこがこの家の中心だ。扉が四つある部屋は交差点である。このような筋を見つけてこれを平面上に展開すれば放射状、あるいは蜘蛛の巣状になる。庭に茜がいる。門が開いた。木場、真佐子、柴田が入ってきた。真佐子が葵を呼ぶ。葵が早急に対策を立てねばならないという。無情な葵に茜が文句をいう。柴田がそれをとりなす。木場が京極堂が一時間後にやって来るという。四谷署の刑事に平野の事情聴取を頼んだ。自分は全体の事件の真犯人、蜘蛛に会いたいという。木場が茜に開かずの告解室の鍵を碧に渡したのは誰か知らないかきく。茜も葵もあの学院の卒業生だといって立ち去る。伊佐間が木場、青木、益田を客間に案内する。葵、真佐子、柴田が別室で相談しているだろう。途中でセツの部屋を覗く。もう辞めるが、警察に知らせておきたいことがあるといって木場に封筒を渡す。
四日前、木場が来て喜市のことをきいた。茜はそれを気にして紫の遺品を調べるようセツに頼んだ。一番上の机の抽出にあったという。木場が本物かどうかが問題という。雄之介の芳江の死についての覚え書きだった。ここでは芳江の自殺の原因は自分にある。三人の娼婦の話しはない。木場が喜市はありもしない話しに騙されて踊らされていたという。真犯人について議論される。益田が門の辺りに茜と耕作が立ち話をしているのも見つける。今川、京極堂、榎木津がやって来るのが見える。一同が出迎えにゆく。茜が玄関まで案内する。ホールに真佐子、葵、柴田がいた。挨拶が終る。京極堂が五百子はいないのかときく。然り。京極堂が一行を紹介し、もう終りにしましょう。死人の数が多過ぎる。ただ、全体の事件の真犯人の計画を阻止できるか自信がないという。葵が事件はもう終っているのではないかという。事後処理として見れが残っているものもあると様々な事務処理のことをいう。京極堂が葵の論文を読んで感心した。これからの時代に貴重な人材だ。死んでほしくはない。だから救いたいという。不審顔の葵にきく。
葵は化粧をするか。否。榎木津が碧は平野に殺された。なぜ平野を匿ったのかきく。京極堂が平野は早晩自供する。葵は事実上の織作家の当主だ。柴田グループでも要職にある。今自首するなら救いはある。不可解という。真佐子が声を荒げてお祓いは不要だという。京極堂が巷の噂では天女の呪いがあるときくという。くだらないという。京極堂が織作伊兵衛の話しからはじめるという。京都の出身、養子に入る前は羽田伊兵衛という。羽田家は秦氏の傍系である。この家系が伊兵衛があの建物を建てたことに関係がある。理解できない葵にあの建物は猶太教の寺院を中心に模型を寄せ集めるように建てた魔術結界であるという。葵に説明する。基督教系の学院ならその背後には基督教の団体なり、教会がある。それがない。葵が先代の学長は神父の資格を持っていた。教師たちも信者だったと茜に同意を求める。茜はうなずくとともにあの不思議な文字は何かときく。京極堂があれはヘブライ語やカバラの魔術記号だという。学院創立時の記録では基督教系とも猶太教系とも説明していない。もともと、まじないの目的で建て、学校に転用したのだろう。京極堂が秦氏の歴史を語る。
羽田氏の本流である秦氏は大陸からの渡来人。その祖先は秦の始皇帝とも、イスラエルの王ダビデともいう。京都太秦、秦河勝、蚕の社、大酒神社が語られる。このような歴史を持つ末裔が猶太の民が編みだした呪術魔法を学び、ここに封印の魔法をかけた。何を封印したのかとの問いに、伊兵衛は世帯主義のイデオロギーを貫くため母系の因習を封印したという。太古の歴史が語られる。生きる糧を狩猟採集のみに求めていた人間は、一カ所に定住することなく食料を追い求め山野を駆けけて暮らした。そこに農耕という新しい生活形態が登場する。これは不安定な狩猟と異なり安定していた。人は移動を止めて定住する。家ができる。家を護り司るのは女性たちであった。こうして母系社会は形成された。地母神は常に母であり、穀物神は常に女である。だから父権社会が狩猟民族的であるなら母権社会は農耕民族的である。父権社会は父親のもとに結束するという堅い階層構造を持つ。母系社会での家は開かれている。共同体の緩やかな結びつきとして家がある。それは土地との結びつきに由来している。何をいおうとしているのかわからないという葵を置いて話しがつづく。本邦はその昔母系社会だったらしい。葵が女が中心にいた時代はなかった。我が国の女性はいまだ人間として扱われていないという。京極堂が「いまだ」というより「いま」という。葵がさらに反論する。夫婦、夫妻、男女、父母、並称するときは必ず男が先に来るという。京極堂が、古くは夫婦は「めおと」、父母は「おもちち」、男女は「いもせ」だ。これは常に女が先に来ている。古来、親とは母のみを指した。老女の敬称である「刀自」は本来、戸主のこと、これからなら古くは女が社会や家の中心にいたといえる。納得しがたい葵に、京極堂がさらに語る。
男尊女卑の考えが早くから大陸より入ってきた。女権の時代がなかったかもしれない。しかし母系の理(ことわり)はあった。それは婚姻制度に現われる。奈良平安時代まで女性の所帯に男が通う招婿婚が普通だった。妻所婚ともいう。室町時代以降にこれが男の家に女が入る嫁入り、あるいは夫所婚となる。この時に現在にまでつづく支配的婚姻関係の原形が成立した。葵が家父長権の増大にともなう女性の地位の衰退と男尊女卑的思想の増大がその原因だという。京極堂が切り返す。遠方地域との交流を余儀なくされたこと、一族を強い結びつきで結ばなければならなかったこと、これが抜けているという。葵がそれは瑣末なこと、その時代の人間の思想とその背景にこそ原因があるという。京極堂が室町時代の歴史を引用し疑問を提示する。さらにこの夫所婚は武家に典型的に成立するもの。武家と公家、支配階級と被支配階級、マチとムラでは異なっている。母系社会は農村部についていえば武家社会で起きたような劇的な転換はなかった。妻所婚の習慣が残存している。東北から新潟、茨城、千葉などの地域では長く姉家督という方式が採用されていた。これは長女が家督を継ぐ婚姻の形態で婿入り婚だ。相続の形態としては長女の婿が相続人になる。養子による長子相続ともいえる。その実、長女は婚姻前からカトクと呼ばれる。長女は明確に戸主であるという自覚を持っている。これは父系社会の中で生き残った母系社会の仕組みである。真佐子が当家がそうだったというのかときく。然り。
天鈿女の血を引く猿女君(さるめのきみ)や山城の桂女の例を惹くまでもなく女系をもって家督を継ぐ旧家は多い。恥じることはない。織作家は大山津神の長女、石長比売命を祖神と奉る正史に登場しない名門ではないかという。一同のとまどいを無視して話しを進める。大山津見神の孫に当たる娘に石長比売と木花咲夜毘売がいる。天孫爾爾芸命が天降った後で、斎機殿に籠った娘、木花咲夜毘売に会ったという。爾爾芸命は求婚し木花咲夜毘売は石長比売を伴なって輿入れする。石長比売は醜女だったので返されたという。大山津見神がいう。石長比売の産む子どもは永遠の命を持つ。しかし妹神の産む子は桜のように栄え綺麗だが、桜のように散るといった。ここでは長女の石長比売は家から出なかった。長女は家から出ることなく、水辺の機織棚で機を織り神の来訪を待つ機織り女となった。それは深い淵の中に沈み、やがては妖怪絡新婦となるという。当惑。話しがつづく。
これは農耕神、土地の神、征服神、天孫の婚姻譚である。土地と結びつかず移動し征服してゆく民族の宗教には、おおむね男性原理がある。これにたいして土地神は母系、女性原理に基づいている。だからこの神話は母系社会と父系社会の婚姻を描いた神話と読み替えることもできる。母系社会の特徴は子どもが共同体の共有物となり得るということ。親子関係は母子関係でしかない。父親の役割を果すのは共同体の男たちすべてである。一つの家族は母親を頂点として営まれる。その子どもたちの父親は同一ではない。この家族の家長権は長女が握る。これは今の倫理観からすればずいぶん不道徳なものである。話しがつづく。
女が男を選択するのに自分や家族にとりよい子どもを得るという基準が機能する。このために様々な男とできるだけ関係を持つという考え方がある。淫らと葵。淫らと思うのは男性原理に支配されているということ。歌垣、夜這い、妻問い、足入れ、箸取らせ、嫁盗み。時代や地域を問わず女系の名残りは残っている。それを淫らとすることは本邦の文化を見下すこと。男性原理に支配されることだ。京極堂が葵が性や差別を問題にするときの問題点を指摘する。結論として夜這いのようなかって健全に機能していた慣習と近代の売買春の区別を理解していない。神話における爾爾芸命と木花咲夜毘売のやりとりを引用しさらに説明する。男性原理で夜這いを見れば、貴人が一夜妻をとるという売春行為となる。しかし女性原理で現地の女から見れば、よい子どもを得るための健全な選択である。健全な行為としての夜這いに関与した女性を近代の売春と断罪する男性原理から傷ついた女性を癒すことはできない。本邦の文化は男性原理にだけ支配されてきたわけではない、古来からの女性原理がどのような変遷を経て今に至ったかを明きらかにすることが葵の使命であるという。真佐子に語りかける。
織作家は年に一度貴人を迎え入れ一夜の婿とする女系一族だったのではないかときく。葵、真佐子、呆然。この家は古来からこの土地に定着し現在に至っている。貴種を宿し土地を動かずに永遠に繁栄する母系の一族だったのではないか。学院の建っている土地は聖域、神を迎える斎機殿だった。娘たちは神の嫁だった。しかし時代が過ぎれば訪れるのは神ではなくただの男となった。益田がそれが天女の呪いかという。織作家の女たちはただの娼婦となった。男性原理の眼からもたらされた恥辱、それへの抵抗の呪詛こそ呪いの正体だという。真佐子が怒り認めない。京極堂が真佐子が持っている背徳の感情を植えつけたのは父、伊兵衛だという。
伊兵衛は嘉右衛門の後を継いで事業で成功した。この聖域を猶太教に関連する聖遺物、聖典でもって六芒星を形作り結界を張った。斎機殿を潰して礼拝堂を建て堅牢な西洋建築物を建て、建物に呪文魔文を刻み、織作家の聖域を隠蔽した。柴田が信じはじめ、真佐子がなお認めない。話しがつづく。政府は明治三十一年、一夫一婦制を導入した。例外が許されなかった。この辺りの姉家督の地域では弟、長男の成長に従って家督を譲るという中継相続などの形で対応した。しかしそれは形式上のことで大戦が終わるまで女系の伝統は残った。伊兵衛はそれが許せなかった。必死で理解しようとしている柴田が、それとは大正の時代になっても女系の伝統である男を一夜の婿とする習慣がつづいていた。それが許せなかったというのかという。なおも認めない真佐子に葵が真実を知りたいという。
真佐子が語りはじめる。学院のある森は聖域、古い建物が数棟、神社、神殿、機織りの機械があった。あの黒の神像も祀られていた。小さかった真佐子は祖母五百子に連られ泊ったことがあった。母貞子もそうしたという。伊兵衛は京極堂がいった目的であそこを潰した。貞子はそこで男を迎えていた。五百子の企てであった。執拗に貞子に男を世話した。嘉右衛門にたいする復讐、家系を乗っ取られたことの復讐だった。嘉右衛門の話しをする。嘉右衛門もまた織作家の慣習が気に入らなかった。五百子は純粋の織作家の女である。外様の幕臣の子の嘉右衛門が嫌いだった。別に想い人がいたようだ。しかし嘉右衛門は事業家として天賦の才を持っていた。織作家を立て直した。のみならず莫大な財を成した。そこで嘉右衛門は欲を出したのだと思う。どこかの機織り工場の女工に子どもを産ませた。その頃五百子もまた子どもを産んだ。それは嘉右衛門の子どもではなかった。先に生まれたのが女工の子ども、貞子だった。家督は長女が継ぐのが織作家の仕来りだった。嘉右衛門は無理矢理貞子を戸籍上の長女にした。この段階で五百子は家長の座を追われたようだ。嘉右衛門が家長となった。五百子の子どもは久代という。養女に出されたらしいがその後は知らない。京極堂が嘉右衛門の伝記の話しをする。真佐子の話しがつづく。
自分たちは皆、嘉右衛門と女工の間に産まれた貞子の子どもである。誰も五百子の血を引いていない。五百子は貞子に男は道具だ。子どもを生すために必要なだけだ。後は働かせればよいといった。しかし真佐子しか子どもを産めなかった。伊兵衛は貞子を許せなかった。だから嘉右衛門と同じようなことをする。京極堂がそこから先はとりあえず控えてほしいという。京極堂が話す。貞子は五百子に織作家の作法を教えこまれた。明治三十四年伊兵衛が婿入りした。織作家の作法は許せなかった。猶太教に基づいてそれを封印した。その魔術はカバラによる。その神秘思想では女性原理が復活しているという。葵が興味を示す。
カバラ神秘主義の中心思想にセフィロト、女性原理と名づけられた必須の考えがある。猶太教においてユダヤ人は自らを神の嫁と呼んでいる。ユダヤ人自身が女性原理でもある。だから魔術は效かなかったという。柴田がおそるおそる伊兵衛が封印した後にも男を一夜の婿とする習慣がつづいたといことを意味するのかときく。木場に喜市の話しをきく。木場が喜市の話しを繰り返す。さらに平野が開かずの間に長期間潜伏していた。礼拝堂の裏手で夜中に集会が開かれたとしたら、その様子はよくわかったはずだという。
京極堂が喜市の行動の動機を説明する。葵は芳江を犠牲者として周囲の男たちを非難する。京極堂がいう。喜市は三人の売春婦が芳江を売春に強制して殺したと考えたという。木場が雄之介の覚え書きを見せる。葵は父親の真筆と認める。どう思うかと茜にきく。茜が母にきいた話しと似ていると覚え書きを見せようとする。真佐子が雄之介が噂をききつけて一度だけ芳江のもとに忍んでいった。翌日珍らしく落ち着かない素振りを見せたという。茜は雄之介から縁があるから喜市にできるだけのことをしてくれといわれたという。京極堂がその覚え書きが本当かどうかは別にして、その話しはたぶん事実だろうという。手紙が真佐子に手渡される前に京極堂が引きとり、雄之介はその時金を渡したかきく。然り。京極堂が芳江は雄之介が無理矢理金を渡したことで傷ついて自殺した。喜市が復讐すべき相手は雄之介だったという。葵が理解できない。芳江を殺したのは共同体であり、文化であり、国家であるという。京極堂が反論する。夜這いという行為はそれが健全に成立していた時代において、強制でも、犯罪でもない。両性の合意に基づく行為だった。これは自由恋愛だった。女たちも積極的に行なった。娘も後家も出戻りもだ。多数を誇る、親父もいれば人妻もいた。これを淫らというなら、それは西洋の男性原理の考えに支配されていることだ。話しがつづく。
近代売買春から問題を摘出することは大いに意義がある。かっての夜這いをこれと同一と見るのは乱暴だ。本邦の文化はもっと多様性に富んだもの。明治以降の国家意識のもとに産みだされたものを因習として批判しても、それは武家の作法だ。何百年も前からつづいていたようにいうのは誤りだ。葵が夜這いを女性の解放だというのかという。京極堂が勿論問題がある。さらに現代において健全に機能しない。男は都合のよい無料の娼婦の行為と見る。しかし女にとっては自由恋愛の手段である。いわば聖なる婚姻だ。恥ずべきことではない。雄之介はその聖なる行為を辱めた。これが自殺の原因だという。
茜が動揺した。榎木津が茜に喜市に会っている。ひどく親切にしているという。蜘蛛と名乗ったか。然り。茜が語りはじめる。喜市に三度会っている。医者に紹介状を書いた後は音信不通といったのは嘘だったという。喜市に三人の娼婦の犯罪という造りごとをいった。それは自分自身がそう信じていたからという。紫が死亡した直後に紫宛の喜市の手紙を持って父に相談に行った。喜市は縁のある者だという。できるだけ援助してほしいといった。そこで葵に相談し紹介状を書いた。その半月後に茜宛に喜市の手紙が届いた。茂浦の小屋に戻った。相談したいことがあるのでそこで会いたいという。その時はじめて芳江の子どもであることを知った。その相談したいこととは、平野を逃がすことだと思う。茂浦に行った。芳江の自殺を教えた。木場が喜市が平野のことをいわなかったかときく。たぶんいたと思うが見なかった。できるだけのことをしようと思って、情報提供をした。そこに娼婦の話しがあった。地元の人からきいて、弓技がそのひとりだと喜市に知らせた。十一月の末にもう一度会った。喜市は何もしていないといった。場所は茂浦である。残りの二人の娼婦の情報を求められた。京極堂が八千代と志摩子の住所は喜市が自分で調べたのかという。然り。茜が三人の娼婦の噂をきいたのは、二十七年の夏より前か後かきく。後である。三度目は雄之介の密葬の夜だった。それは木場が蜘蛛の巣館を訪れた五日前のことである。伊佐間が茜の嘘に驚く。茜がいう。喜市はまた復讐が行なわれ、犯人が知り合いだといった。志摩子の住所を調べたので、この女も殺されるだろうといったという。葵が木場に証言していた時、生きた気持がしなかったが真実をいえなかったという。木場がなぜ蜘蛛と名乗ったのかときく。喜市が織作という名前を知らなかったので、蜘蛛の巣館の人という意味で「蜘蛛」が出たのだろうという。京極堂が茜にきく。
榎木津のことを知っていたか。否。美江に榎木津のことを紹介したのは茜でないか。葵がこたえる。元進駐軍の通事をしていた葵の知人である。その通事は茜をつうじて葵のところに来たのではないか。否。機関誌に載った葵の論文を見て、連絡してきたといったという。茜に戻る。三人の娼婦の話しを茜に伝えた者が告解室の鍵を碧に渡し、碧の仇でもある。それでもその人物の名前がいえないのかときく。不答。茜を諦め葵にきく。真佐子も茜も辛い告白をした。葵もいうことがあるのではないかときく。不答。京極堂が平野の話しをする。
平野は徳島の出身。女雛の冠とか支那扇の飾りとかを造る飾り職人。内向的性格、友人の少ない男だった。昭和十五年に結婚、相手は小田原の農家の娘である。葵がききたくないと抵抗を示す。京極堂があえて話しを進める。昭和十八年に召集され戦後復員する。このときの苦しい戦線の生活から性的不能となる。ここで事件が起きる。妻のもとには誤って戦死公報が届いていた。戦死を信じた妻が別の男と関係を結んだ。平野が戻っても男との関係が切れなかった。男は週に一度平野のいない留守に妻を訪問した。それを平野が知ってしまった。京極堂がその男と昨日会って事情をきいたという。この男は平野に妻を紹介した人形師だった。この男のことは武蔵野連続バラバラ殺人事件に登場する女人形師である楠本君枝からききだした。妻は人形師が訪れる日にはきちんと化粧をし待っていた。平野は妻の白い脚をのぞき見てある悦境に入った。のぞき見は習慣となった。妻がその事実を知り昭和二十三年自殺した。木場に降旗がのぞき見と妻の自殺が平野が目潰し魔となるきっかけだったといったことを確認する。フロイド流の解釈に反発する葵がここぞとばかり反論する。京極堂が平野の犯罪を自分の政治的立場から解釈する葵にたいし、それはあまりにも好意的見方だという。話しがつづく。
平野は妻の葬式の後はまったく世間と隔絶した暮らしを三年間して、二十六年の春に最初に事件のあった信濃町に引っ越す。引越しの理由はどうにも落ち着かなくなったからという。丁度その頃隣りに芸者崩れの娼婦が引っ越してきたからのようだ。信濃町で視線恐怖症を発症している。偶然知り合った喜市にそれを打ち明けた。紫に手紙を出し、平野のもとに手紙が届いた。降旗という精神神経科の医師をたずねた。京極堂が降旗と電話で話してきいた。平野が訪れた日に何か変ったことが起きなかったか。降旗がいう。平野を診る前に精神病棟から患者がひとり抜けだして騒ぎとなった。自分を楊貴妃と信じている中年の男が、シーツをまとい顔に紅白粉を塗って個室を抜けだした。診察室の机と窓の間に隠れていた。勿論すぐ捕まっている。平野はその後に訪れ診察してもらった。まだ話しがつづく。
平野は診察中に窓に眼がある。自分を視ているといいだした。あまり確たる治療もなされず平野は帰宅した。そして翌朝、犯行に及んだ。被害者の妙子は器量よしで外出の際には必ず薄化粧をしていた。弓技は当然化粧をしていた。山本は普段は化粧はしないが犯行当日にはどういうわけか化粧をしていた。八千代も娼婦に化けるため厚化粧をしていた。志摩子は本当の娼婦である。化粧をしていた。結論をいう。平野は白粉アレルギーである。平野は白粉の臭いを嗅ぐと皮膚に痛痒感を伴なう湿疹ができる。それが視線の正体だ。平野の妻は農家出身で普段は化粧しなかったが、男に会う時は化粧した。のぞき見によって得た平野の高揚感は嗅覚によって得られた痛痒感であった。その後平野は人と会うことを避けていたからアレルギーは顕在化しなかった。まず隣家に娼婦が引越してきたため、落ち着かなくなった。引っ越し先の妙子は世話好きである。平野は敏感な皮膚感覚に平静を乱された。それが重なっていった。原因を知らぬまま平野は降旗の診察室で視線恐怖症を発症した。京極堂が葵に向けて話す。平野は告解室に長期間潜んでいた。そこに導いたのは織作家の女である。平野と接触して危険がないのは化粧しない女だ。葵になぜ匿まったのかきく。葵の誤解を指摘す。
平野の犯罪はアレルギーに起因する衝動的殺人である。葵が考えるような思想的背景はない。既存社会から飛びだした逸脱者でもない。平野は元々下着や物に執着するフェティズムの傾向があったようだ。女性の関心が物に向ってしまう。葵はそれを男女を意識しない、あるいは性差を越えた人格と誤解したという。榎木津が平野は葵の脚が気にいっていたという。京極堂が葵の援助が犯罪を拡大させたと断罪する。葵の理想は今の日本に必要だ。しかし現実を見失なってしまっえば時に大きな悲劇を引き起す。葵が語りはじめる。
葵は平野をただ匿っただけだという。自分には差別意識が残っていた。弓技の死は仕方がないと感じていた。木場がどこで平野と会ったのかきく。葵は茜の行動に不審を抱いた。紫を殺害したのは茜ではないかと邪推した。茜は是亮と結婚してからずっとおかしかった。自分は茜が是亮を利用して織作家の財産を奪取しようとしていると疑った。そう思っていた時に茜はさらに不審な行動をとった。茜は紫の死後、雄之介のところに行き、普段行ったことのない書斎に入った。葵に精神神経科の医師を知らないかときいた。そしてその日茂浦に行ったはずだ。その後、売春調査の資料を見せてほしいといった。なぜ見たいのかきいたが答えなかった。そこで葵は茂浦の小屋に行った。そこで平野と会った。話してみた、目潰し魔であることがわかった。平野は自分が何故あの気立てのよい娘を殺したのかわからないといった。葵は降旗の診察内容をきいてそれを非難した。それをきいた平野は安心したようだ。葵は平野のことを警察に通報しないといった。平野はそれを信じて小屋から動かなかったようだ。食料を屆けた。平野は既存社会からの逸脱者と見えた。好ましく思えた。木場がいつ学院に移したのかきく。
九月の終りである。京極堂がそこで平野が蜘蛛の僕の集会をきいてしまった。十月、平野が学院の生徒が売春をしている事実を知らせた。さらに恐喝者を呪い殺そうとしていることも知らせてくれた。碧が中心人物として呪っていることがわかった。自分としても放置できなかった。弓技を調べてくれといった。しかし平野は弓技を殺害してしまった。山本のことも知らせてくれた。この時はどうしてよいかわからない。困り果てた。平野は葵には何もいわずに殺害した。三人目の八千代についても自分は何もしていない。しかし殺人に慣れてしまったようだ。碧から場所、時間の指示があったようだった。京極堂がそれに疑問を呈する。碧が喜市のことを知るはずがない。碧、平野にそれぞれ違った内容の文書が届いて犯行を誘導しているという。茜に喜市が八千代を困らせようという計画を何時知ったのかきく。たしか二月の半ばだった。その前に何度か喜市とこのことで話しているという。それをきかれたのかという木場に、否。しかし、もしあるとしたら五百子だという。柴田が突然、葵に怒りだした。周囲の制止にかかわらず、葵に婚約者、山本を殺されたという。事件当日も柴田と会う予定であった。そのため化粧していたのだろうという。当日に柴田の身内、幹部に結婚の承諾を得るために会合が予定されていた。そこに出席するはずだったという。京極堂の質問に、十月に会合の予定は決まっていた。そこに雄之介も出席する予定だったという。京極堂がいう。
その時期に夕子の情報も流された。無駄がない。柴田が憎むべき相手は葵でなく全体の事件の真犯人だという。柴田の昂奮が極に達する。なぜ平野を匿ったのかと迫まる。榎木津が柴田が山本を愛してしまったように葵も平野を愛してしまったからだという。葵の告白がはじまる。自分はこのような人間となるしかなかった。異質な疎外者である。自己分析を通じ自分の活動とその限界を説明した。平野を誤解していたこと認める。重大な事実を告白する。自分は男である。半陰陽である。主治医以外誰も知らない。はじめて告白するという。これまでの女性運動を進めてきたしがらみを捨てられず、真実を見る勇気が欠けていたと率直に反省する。ここで憑き物が落ちたという。京極堂がさらに葵にきく。
平野が弓技の鞭を持ってきたといったか。否。山本の眼鏡はどうか。否。木場が告解室への移動に必要な鍵はどうして入手したのかきく。九月はじめに五百子からもらったという。茜が動揺した。葵が茜が自分を呼びにきた。五百子の部屋に行けというので行くとそこで鍵を渡された。なぜ渡すのかきくと、茂浦に通っているからといったという。葵が茜に三人の娼婦の話しをしたのも五百子でないのかときく。認める。真佐子が笑い出した。これは五百子の仕組んだことだという。自分は柴田が考えたように織作家の女である。葵、茜の父親は違う。祖父嘉右衛門は自分と女工の子どもを当主に仕立てた。父の伊兵衛は嘉右衛門が連てきた男。五百子は母貞子を織作家の女として育てた。伊兵衛はそれに激しく抵抗した。五百子は貞子にしたように自分にまで織作家の女として仕込んだ。伊兵衛は五百子に対抗するため、建物を建てただけでない。もっと手を打っていた。話しがつづく。
碧は雄之介と自分の間にできた子どもだ。しかしそれは真佐子の意に反して生まれた子だ。雄之介は父伊兵衛が連てきた男、はじめから夫婦の契りを禁じられていた。伊兵衛は自分の血を引く者だけを織作家の後継に据えたかった。だから自分が女工に産ませた雄之介を婿にとった。雄之介と真佐子は異母兄弟だ。碧はその間に生まれた子だ。顔を見るのが辛かった。死んだ紫は雄之介が他の女に産ませた子だ。茜にいう。是亮は雄之介が耕作の妻に無理矢理産ませた子だ。だから是亮とは夫婦の関係を結ぶなといった。こうして伊兵衛の思いは成就した。この家にいる者で伊兵衛の血を引かない者は五百子だけだ。だから全体の事件の真犯人は五百子だ。京極堂が疑問を呈する。真佐子の昂奮が高まり二階に上ろうとする。京極堂が五百子は真犯人ではないという。螺旋階段の下から耕作が真佐子に声をかける。その後で葵の前に立って、あんたが犯人かといって、葵の頸を絞めて殺した。そして真佐子に謝罪した。葵は自分と耕作との間に生まれた子どもだといった。周囲と揉み合っている際に真佐子が耕作の鎌を取りあげ耕作の頸に切りつけて殺した。そした自分もその鎌を突き立てて死んだ。京極堂が深く項垂れた。五百子の声がした。
これで織作の家は織作の元に戻ったという。放心して震えている柴田に勇治か、健在で何よりという。これで勇治の祖母も浮かばれる。勇治の祖母の長子は自分の子どもの久代だ。勇治は自分の曾孫だ。勇治が織作の血を受け継ぐ者だ。自分は名家北条家に久代を長子と変名して養女に入れたという。茜が震えながら車椅子の五百子に近づく。五百子は女中の分際で馴々しいと怒る。
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四月はじめ、中野である。関口が京極堂に向っている。事件を知り興味が増して木場、榎木津、伊佐間、今川、青木、益田から話しをきいた。それでも全貌を掴んだ気にならなかったので京極堂をたずねることとした。古書店は休業中だが、座敷をのぞくとカストリ雑誌生き残りの編集者、鳥口がいた。鳥口と、次いで京極堂と遠慮のない挨拶が交わされた。関口が織作家目潰し絞殺事件のことをききたいと来訪の趣旨を述べた。今回の事件は織作五百子が企んだものかときく。不答。一週間前に老衰で死んだ。茜はどうなったのか。生存。小夜子、夕子、本田、山本、弓技、八千代、志摩子、妙子。紫、雄之介、碧、葵、真佐子、耕作、是亮が殺害、自殺あるいは病死した。鳥口が小夜子の父も自殺したという。しかし一ついいことがある。茜と柴田勇治の結婚が決まったという。鳥口が五百子が旧家の北条家に自分の娘を養女に出した。柴田耀弘の後継者として五百子が強力に勇治を推した。それが通った。関口がそれでは織作家が断絶するという。然り。それでよいのか。然り。関口の質問をうるさそうにきいていた京極堂が、やがて五百子は老人性痴呆症だった。だからこんな壮大な計画は立てられないといった。織作家に古書の買取りに行くという。事情を詮索する関口に織作家にはたくさんの貴重な古書がある。だから資金繰りをしなければいけないがといいつつ、だから是亮が書斎に入ったのだろうといった。
鳥口が立ち去った。てきぱきと準備を済ませて外出しようとする京極堂を追って関口は同行を頼んだ。京極堂が途中で例え話をする。惚けた人間がいる。毎日同じ一つの話しをきかされる。毎日、毎日だ。その話しは当人の過去のことに関し、積年の怨みを晴らすというものだ。話した人間は毎回はじめて話すように話す。前にきいたといったら。はじめてという。でもきいたという。またはじめてという。ではこちらから話してきかせる。これを繰り返す。どうなる。当人は惚けた人間だ。不知。では、ある日突然、話した人間がこんな話しを知らないかときく。どうなる。話す。しかもお前からきいたという。話した人間は、否、はじめてという。で、それを繰り返す。当人は惚けている。どうなる。当人は自分の記憶として語りだすだろう。然り。京極堂がこうして簡単に記憶が操作できるという。関口が当人とは五百子を指すのかと思った。そこに電車が来て話しは中断した。
いきなり「久遠寺」と京極堂。久遠寺涼子に榎木津を紹介したのは大河内だった。旧制高校時代の関口の友人でもあった。大河内は進駐軍相手に通事をしていた。榎木津の兄は進駐軍相手のジャズクラブを持っていた。榎木津はそこでギターを弾いていたことがある。涼子は薬学の学校に少しの間通っていた。大河内の伯父がそこの講師だった。人のつながりは面白い。まだある。茜は涼子の同窓だ。美江に榎木津を紹介したのは大河内だ。美江も涼子に二十六年一度会っている。大河内は仲介だった。何がいいたいという関口の質問に面白いという。京極堂の話しが飛ぶ。
調剤師は職業婦人には人気の職種らしい。茜は敗戦間際の一時期、家から東京に出た。働きながらの勉学だった。その頃から社会参加の意識があった。しかし薬剤師の仕事には就かず、二十七年の夏から秋に是亮の秘書として働いた。それは小金井の印刷会社だった。木場の下宿のそばだった。増岡が柴田耀弘の相続問題などで何度も通い詰めていたから茜とは面識があった。茜はその経験を将来に生かす人だった。話しが飛ぶ。五百子の世話もすべて茜がやった。興津に着く。駅から町を抜けて進む。仁吉はこの辺りだった。息子夫婦に引きとられたかもしれない。美由紀は東京の学校に編入されたらしい。例の神像はどうしたか。茜が今川から二万円で買いとった。関口が今川の災難につき話す。京極堂が一同を相手に話している時、ホールの外の廊下で殴られて気絶していたという。京極堂が今川は耕作に殴られた。葵が真情を告白するずいぶん前だった。耕作は平野を背後で操るのが真犯人だと思って殺害したようだが、なぜ、葵が告白するより前に平野の背後にいる人間だと考えたのかという。関口が今川を昏倒させた時点で殺意は固まっていたはずだが誰からの情報かと考える。京極堂が伊佐間の話しをする。木場が茂浦の小屋に思い至った時に耕作が警察に足止めされていなければ、伊佐間の怪我もなかったろう。茜は小屋に通ったことを黙っていたが、耕作に道順を説明させた。関口が自分の嘘が露顕するのにあえてしたのかという。京極堂が本来、二人が小屋で遭遇してもよいのに、入れ違いになっている。よくできているという。坂道を登ってその上に蜘蛛の巣館があった。
茜に迎えらた。ホールを抜け螺旋階段の下の廊下に入る。廊下の突き当たりの右側に書斎の扉がある。そこで茜を追い越して京極堂がノブを回した。鍵が掛かっているという。茜から合鍵を受けとる。全館共通の合鍵かときく。然り。それで試す。開かない。関口がやってみる。開いた。京極堂が先に部屋に入った。関口が合鍵を茜に返した。事件当時破壊された窓の中央が板で覆われている。茜がお茶の用意をすると外に出た。関口が茜を扉まで見送った。ついでに鍵穴を調べてみた。京極堂の失笑がきこえた。京極堂が扉は開いていた。鍵は京極堂が掛けたといった。関口が何を考えているのかきく。鞭と眼鏡と着物をどうして運んだのかだという。関口に机の抽出の中に印鑑類が入ってないかときく。六つある。朱肉がない。それぞれ空捺しをした。一番印影がはっきりしているものは織作雄之介と読めた。京極堂がこれだという。榎木津の特殊能力の話しに飛ぶ。
榎木津の網膜には他人の記憶が再生されるらしい。網膜だから視覚的記憶に限られる。また京極堂が例え話をする。関口が何かで妻を怒らせて顔をぶたれたとする。榎木津に、春なのにここには大きな蚊がいる。気をつけろという。すると喜こんで部屋を探す。関口の顔を見て、蚊に刺されたなという。妻の怒りの行為が季節外れの蚊の話しとなる。過去の情景に別の意味づけをすることにより事実を隠蔽改竄することができる。関口が残念ながら自分には浮気をしてぶたれるようなことはない。そんな能力がないという。しかし京極堂が深刻な顔をして関口の妻や関係者に浮気を告げまわったらどうか。否定する。それでもいう。ストレスが溜るだろう。そこに売春をしているとの噂の女学生が現われたらどうだ。関口が本田のことをいっているのかときく。京極堂が本田の話しをする。十六年前三十歳で中央官庁を退職し教師となった。その妻は最初の教え子だった。本田が辞めた理由を調べたら、女性関係が原因だった。今の妻との結婚も責任をとらされたようだ。他にも学院の生徒との関係があったらしい。結婚してから十年近くよき夫だったらしい。しかし妻は資産家の我がまま娘だ。子どももできない。夫婦関係は劣悪となっていた。妻は今、二十八歳、茜と同窓だった。不満が募っている妻に浮気の情報を流せば容易に信じる。本田は追い詰められていたという。関口は事件の全貌が見えはじめた。
茜が紅茶を入ってきた。京極堂が関口は鼻を抓むと醤油も珈琲の区別もつかないという。関口が反発して紅茶の銘柄を当てるといったがわからなかった。京極堂が勝ち誇って関口の味覚や嗅覚の貧しさを指摘する。ところでといって茜にきく。茜が師事した大河内教授の専門は嗅覚だったかときく。不答。短期間師事したに過ぎない。短期間にもかかわらず教授は茜を記憶していた。実に優秀な学生だったと教授からきいた。当時は香料の刺激が人体に与える影響について研究していた。茜が乞われて実験の手伝いをしたときく。その時、大河内康治、これは進駐軍の通事をしていたが、京極堂たちの同窓生でもあるが、彼と知り合ったのかときく。不答。ただ懐かしそうな表情をする。京極堂がそれなら平野の病気のことはすぐ理解できた。不答。茜は白粉の毒はきついという。
両者の歓談となる。敦子の出版社が出している近代婦人を読んだことがあるかきく。然り。この館を壊すのか。然り。墓はどうするか。近くの墓地に霊廟を建てて神像といっしょに祀る。京極堂が墓にお参りするという。庭に面した窓の横の、小ぶりの本棚の前に立ち、ここは内側から開くかときく。然り。京極堂がこの館の部屋は必ず二つ以上の扉がある。隆夫はこの扉を使って侵入した。碧にこの扉のことをきいたという。しかし逃走の際には慌てたので窓を破った。その扉を開けて外に出た。桜の中を進んでゆくと墓所が見えた。京極堂が嘉右衛門、五百子、伊兵衛、貞子、雄之介、真佐子、紫、葵、碧の墓を指す。茜は献身的に織作家の人々を世話した。碧の着替えも月に一度学院に屆けていたのか。然り。茜の婚約について祝意を現わす。茜が石長比売から木花咲夜毘売に転じたのかときく。不答。夕子の父の麻田代議士も小夜子の父の渡辺氏も茜の父ではなかった。本当の父について五百子にきいたのか。否。本田は茜にけしからぬことをしたのではないか。回答拒否。志摩子は実に律儀な人だった。茜と八千代の名前はけっしていわなかった。潔い人だ。でも信じてなかったのか。然り。喜市はどこにいるのか。不答。京極堂が茜の部屋には八つの扉がある。あなたが蜘蛛だったという。
筋はここから1の前文に戻るが結論はここで尽きている。
(本文おわり)
感想
茜の持つ心の闇は怖ろしいほど深い。また不可解である。作者は常に心の闇をテーマにして物語りを紡いでいるようだ。登場人物の深い心の闇が常に語られる。特に主要人物の場合は深く複雑であり、時には不可解である。ここで茜の心の闇を取りあげる。
生い立ち
たぶん昭和元年に誕生、母は真佐子、父親は不明、このことが本人に大きな影響を与えたようである。後に論じる。聖ベルナール女学院に入学、大学に行かず、二十歳頃、東京に出て働きながら薬学関係の大学に聴講生として入学、実験の手伝いなどもした。短期間であった。千葉の実家に戻り、昭和二十五年、是亮と結婚、二十七年の秋、都下小金井で是亮の秘書として短期間勤務、二十八年三月、夫を事件で失ない現在に至る。
表向きの姿
大和撫子の典型のように夫によく仕え、未亡人となって悲嘆に暮れている貞淑な妻である。婦人運動に邁進する葵、天使のような振舞いを見せる碧、厳格で端正な母真佐子という個性的な女性のなかでまったく目立たず控え目な姿である。
内面の姿
茜の出生は謎に包まれている。五百子が世話する男を一夜の婿として迎えた真佐子が産んだ子どもであろう。この奇怪な慣習は本篇に語られているとおりである。男はどうやら五百子の属する織作家の血筋の男のようである。
このことが内には織作家唯一の血を引き継ぐ者としての強烈な自負を秘め、外には自己を韜晦し周囲にひたすら溶け込んでゆく。その原因といえる。
神の嫁という古代の慣習を今に至るまで守りぬこうとする五百子、それに抵抗する嘉右衛門、伊兵衛、雄之介という異常な家庭環境に育ったこと。女学院時代に教師本田にたぶん深刻な性的虐待を受けたこと。信じがたいが終戦時短期間、売春に走った過ち。これら要因があるものの茜には癒しがたい犯罪嗜好がある。茜にはそれを優れた知的能力と長期的で丹念な準備により進める実行力が備わっている。
犯罪の実行
毒殺を除いて、直接犯罪を実行する行為はない。巧みに関係者に働きかけるが、当人はそのことにまったく気づいていない。
1) 八千代
自己の結婚前の過ちが醜聞となることを怖れ、葵、碧を利用し、喜市を使嗾し破滅に追いこんだ。
2) 弓技
自己の結婚前の過ちが醜聞となることを怖れ、葵、碧、平野を利用し破滅に追い込んだ。
3) 山本
自己の目論見が崩壊することを怖れて葵、碧、平野を利用して破滅に導いた。
4) 本田
学院時代に虐待を受けた本田に復讐するため、同窓生であるその妻を操作し、夫婦関係を悪化させ、本田を追い込み、小夜子への性的虐待を誘導した。さらに是亮、碧、隆夫を利用し破滅に追いんんだ。
5) 夕子
自己の目論見が崩壊することを怖れ、碧を利用し破滅に導いた。ただし、夕子が標的となったことには、その父と真佐子の間に誘因となる関係があったかもしれない。
6) 是亮
自己の血筋の唯一性を守るため、碧、小夜子、隆夫を利用して破滅に導いた。
7) 小夜子
自己の目論見が崩壊することを怖れ、碧を利用し破滅に導いた。ただし、小夜子が標的となったことには、その父と真佐子の間に誘因となる関係があったかもしれない。
8) 碧
自己の血筋の唯一性を守るため、情報を操作し、それを吹き込み、碧が破滅への道に進むよう導いた。
9) 葵
自己の血筋の唯一性を守るため、平野、喜市を利用して破滅に導いた。
10) 耕作
自己の目論みを促進するため、情報操作して葵を破滅に導くとともに耕作をも破滅に導いた。
11) 真佐子
自己の血筋の唯一性を守るため、関係者を破滅させ、真佐子を破滅に導いた。
12) 五百子
老衰で自己の目的完遂に障害となることを怖れ毒殺した。
13) 雄之介、紫
自己の血筋の唯一性を守るため毒殺した。
14) 榎木津、京極堂、益田、伊佐間、増岡、今川
自己の目論見の実現を促進するため巧みに情報操作して、関係者の破滅に利用した。
心の闇
外見と内面のあまりにも深い乖離が不可解なまでにある。誠に謎である。
(おわり)
2014-06-19 21:48
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