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謎解き京極、鉄鼠の檻その3 [京極夏彦]

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この京極作品を未読の皆さんへ

不用意にのぞくことをすすめない。 (この連作の趣旨、体裁は「謎解き京極、姑獲鳥の夏」で説明した)

あらすじ3

8

第五日目、湯本の駐在所である。松宮仁如、俗名仁(ヒトシ)がいた。京極堂が仁如にききただした。明慧寺の土地は仁如が所有する。不動産取得税が昭和25年に創設された。そのため清算が必要となり、明慧寺を訪問した。仁如の父、仁一郎は笹原宋五郎とこのあたりの土地を二分して購入した。契約により寺の保管料をもらってた。終戦後、保管料は払われなくなった。僧を派遣してた各寺は僧に召喚状をおくった。僧たちはもどらなかった。

仁如は保管料はしらなかった。京極堂が受取人の名義が変更されてた。名義は箱根の天然を守る会だった。発起人に了念の名前があった。保護対象に明慧寺がはいってたといった。明慧寺で慈行にあったが了念にはあえなかった。仁如と飯窪をのこし、京極堂他が部屋をでた。

外に倫敦堂の山内がいた。蔵が埋没したのは大正12年の関東大震災の時だ。こんな結論となった。京極堂に益田から今川が重要参考人となったと連絡があった。

第五日目、明慧寺である。菅原が今川に自白をせまる。泰全は午前2時から3時の間に殺害された。今川の証言の矛盾を指摘した。今川が理致殿で6時半から30分、障子越しに禅に造詣の深い老人か老人のような声を発する人物と問答したと修正し、これをかえなかった。山下は外出し、土牢にはいった。乾燥大麻と死亡した博行を発見した。

第五日目、仙石楼である。京極堂が到着した。午後7時だった。常信、敦子、鳥口が明慧寺に出発してた。菅原が到着した。久遠寺を博行殺人容疑で逮捕するという。

第五日目、明慧寺である。鳥口、敦子、常信が三門で菅原とあった。仙石楼にいくという。知客寮で自信喪失の山下にあった。禅堂で騒動がおきた。佑賢が慈行を殺人犯と告発した。山下が知客寮によんで聴取した。

英生がやってきた。佑賢の破廉恥行為が指摘された。佑賢は英生が若い僧との乱らな行為をしてたことを暴露し、自らの行為を英生にわびた。慈行が英生がすべてを認めたと佑賢にもらした時、慈行を告発する気持になったとみとめた。常信とともに佑賢、英生も下山することとした。外にんでた。法堂の前に鈴がいた。その後ろに哲童がいた。もってた長い棒を思いきりたおした。哲童がぶつぶつつぶやきながら立ちさった。法堂の方から悲鳴がきこえた。

9

第五日目、仙石楼である。飯窪が手紙をよんだことをみとめ、それを父仁一郎にわたしたことをみとめた。

第五日目、明慧寺である。悲鳴をあげた託雄が覚丹の方丈、大日殿の前にいた。そこに佑賢の死体があった。知客寮で事情聴取があった。託雄は佑賢を尾行してた。なぐられて気絶した。哲童が犯人だといった。鳥口と敦子が益田に連絡するため下山することとなった。久遠寺が仁如に鈴の振袖姿を確認した。まったく鈴子に晴れ着と一緒といった。年末に家をでた仁如がしっているのかと不審がった。託雄の聴取である。

英生をとられたくないと佑賢を気にしてた。英生の下山をしって佑賢を大日殿まで尾行した。

敦子と鳥口は下山途中で鈴と哲童をみかけた。雪の中、転落した。

山下が託雄に了念の証言を再確認した。慈行をみたが、覚証殿の前でなく、自分が覚証殿にいて窓からみたと証言をかえた。大雄宝殿の横の薬草畑は放棄されたが、昨年夏までつくったものを乾燥して納屋に貯蔵してる。毎日麻を博行にわたした。束はわたしてない。しかし今日の午後二時ころ哲童が麻とはどんなものか、きいてきた。覚丹の聴取内容である。

佑賢が頓悟したと参禅にきた。袈裟をあたえた。でていった後に悲鳴がきこえた。袈裟は死体の腹の下にあったようだ。

第六日目、仙石楼である。京極堂、関口、益田がつどう。僧の来歴がはなされた。泰全の師匠の名は和田智念。慈行は孫。了念は仁如がきた鎌倉の同じ寺。問題児だった。智念が明慧寺にはいるにあたりその寺に要請した。泰全がはいる時、ふたたび要請した。召喚命令はたぶん了念が握りつぶしたのだろう。託雄は秩父の照山院だった。さらに明慧寺は大正の白隠とよばれた和田智念の妄執がつくったもの。泰全はそれを引きついだ。実際につくったのは了念。哲童が鳥口と敦子をつれてきた。

10

第六日目、仙石楼である。京極堂と敦子が話す。覚丹には25年間、誰も参禅したことがなかった。

朝、国家警察神奈川県本部石井警部がついた。僧を全員下山させることとした。飯窪が山下に自白する。仁如のいる寺にいったが嫉妬心からわたさなかった。松宮家にいって父仁一郎にわたした。仁一郎は鈴子をよんだ。こわくなって家にもどった。また松宮家にいって火事を発見した。仁如は玄関に火をつけていた。山の方ににげた。鈴子もその後をおった。午前10時、下山した警官が僧は下山を拒否したといった。

第六日目、仙石楼である。警察は僧が葬式をおえるまで待機することとした。京極堂が関口に倫敦堂山内から駄目だったと連絡をうけたといった。午後3時、按摩の尾島がきた。午後4時、死体が搬送された。京極堂が憑き物おとしのため明慧寺にむかうこととなった。

京極堂が明慧寺に乗りこみ、僧たちの憑き物をおとす。数々の不思議を快刀乱麻を断つごとく解きあかす。美しいまでに悲しい終幕をむかえる。

参考 全体の日程表
日目 仙石楼 明慧寺 その他
某日     中野-埋没書籍の調査のため
京極堂が関口を箱根に誘う
某日     按摩が奇怪な僧に遭遇
前日     湯本-富士見屋に関口京極堂到着
書籍調査
1 今川の待ち人未着   富士見屋-関口が僧目撃
2 僧目撃、敦子到着、了念死体発見    
3 榎木津が到着、謎解明 敦子他が到着
夜泰全に取材
 
4 敦子、関口、常信到着 泰全発見
博行発見
 
5 京極堂、常信と会談 榎木津他、到着
久遠寺、博行と再会
博行殺害
佑賢殺害
湯本-京極堂、仁如と会談
6 石井到着
京極堂、明慧寺へ
京極堂憑き物おとし  


おことわり

京極作品を未読の皆さん、どうかここを不用意にのぞいて将来の読書の喜びを損なわないよう、よろしくお願いする。

文庫版 鉄鼠の檻 (講談社文庫)

文庫版 鉄鼠の檻 (講談社文庫)

  • 作者: 京極 夏彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2001/09/06
  • メディア: 文庫





再度の警告。本文にはいわば「ネタバレ」が溢れている。未読の方には勧められない。では本文である。




謎解き京極、鉄鼠の檻その3

8

第五日目、湯本の駐在所である。松宮仁如という僧が京極堂と向き合っている。関口と飯窪が控える。もともとは仁の一文字の「ひとし」であった。得度の際、仁如としたという。京極堂が飯窪に見覚えがあるかきく。然り。京極堂が本題に入る。明慧寺がある浅間山の土地は仁如のものかきく。然り。固定資産税が昭和二十五年に制定されこの土地が問題となったことによりこのことが判明した。父の死後、仁如が財産を清算した。しかし不動産のことは知らなかったという。京極堂が補足する。仁如の父、仁一郎は京極堂の依頼主、笹原宋五郎と事業の共同執行者だった。関東大震災の後に将来の観光開発を見込んで浅間山の土地を頂上で二分し、それぞれ購入した。仁一郎は土地購入でも、地元での実業にも失敗した。外見上は成功者のように振る舞っていた。内実は借金まみれだった。仁如がこちらに戻ってきたのは税金、相続の処理のためだった。仁如が貫首直々の命で旅に出たというのは情報源の知客僧の誤認だったらしい。仁如は昨年の九月に鎌倉を出て各地の僧に事情をききながら、ここに至った。そこで土地を購入した頃、すでに明慧寺は関係の教団にとって相当の負担となっていたことがわかった。戦後の新しい状況の教団にとっては無価値に近くなっているという。当時、仁一郎は関係の宗派に寺の保管料を求め、その趣旨の契約が結ばれた。各教団は寄付名目で月々負担分を支払っていた。関口が寺自体には援助していないのかきく。覚丹、泰全、了稔、祐賢、常信を派遣した寺から援助があったらしい。この他に臨時に援助、入門僧の派遣もあったらしい。それらの援助はすべて開戦をもって打ち切られたという。派遣した僧も召喚したが戻らなかったという。京極堂が彼らは望んで明慧寺にいた。あるいは出られなくなったという。それではどうして寺が運営されていたのか一同の疑念が高まった。

仁如がこの保管料については不知であり、昭和十五年の父の死以降、その支払いを受けていないという。京極堂がこの受け取りの名義変更がなされていたという。関口が詐欺を問題にする。仁如が教団上層部は当初はともかく何年か後にはすっかり寄付金の趣旨を忘れていた。仁一郎の死後はさらにあいまいとなり、そのまま支払われていた。各教団に割ってみれば微々たるものだったということもあった。名義は「箱根の天然を守る会」となったという。京極堂が了稔の才覚でやったことだろうという。了稔は各寺院との連絡役を一手に引き受けていた。詐欺まがいの行為ができる立場にいた。仁如はこの団体の発起人に了稔の名前があったという。関口がやはり詐欺だというが、団体の保護活動の対象に明慧寺が含まれていたという。このような事情を確認のため明慧寺を訪問した。関口が四日前の朝、湯本駅方面から旧街道沿いに歩いていなかったかときく。然り。奥湯本側から登った。難渋した。慈行に会ったが了稔に会えなかった。翌日の午前中まで待ったが、戻らなかったので下山したという。関口がその時、敦子や鳥口に会ったのだと思った。仁如がいう。湯本で三日間逗留し笹原の名前を知ったので、訪問した。笹原については京都の寺に行った時、元々の所有者である大阪の企業に連絡を取り、笹原の名前を知った。ここ湯本において名前が同じなので笹原老人を訪れて、ここに保護されることとなったという。京極堂が飯窪に仁如とふたりだけで話したいのではないかときく。ふたりを置いて外に出る。

今回の依頼の仲介をした倫敦堂山内が外にいた。京極堂が所有権がはっきりしない、その由来が不明のものを鑑定できないという。山内が駐在に埋もれた蔵の謎を持ちだす。関口と同じで寺も同時に埋没したという考えだったという。しかし正解は別であると説明する。それは芦ノ湖の逆さ杉が生まれた仕組みと同じである。山崩れが起きた時、立木がそのままの姿勢で根もそのまま滑落した。芦ノ湖の場合はその姿勢で水没した。あの蔵の周辺の立木についても同じことが生じた。蔵の滑落はたぶん大正十二年の関東大震災の時である。昭和五年の豆相地震の時ではない。そうなら泰全、了稔、覚丹が知っていただろうという。京極堂が発見した僞山警策と僞山警策講義の話しとなる。講義は明治三十五年の刊行である。当時は泰全の師匠が明慧寺に入っていた。この僧の個人的蔵書だろうという。京極堂が関口にこの僧についてきくが、不知っだった。山内が今回の問題につき解説する。明慧寺の土地が所有者ははっきりしたが、寺、蔵書の所有者が誰かがはきりしない。教団か、教団から派遣された僧か、あるいは一番古くからいる仁秀老人か、わからないという。飯窪と仁如が出てきた。話しが終ったらしい。京極堂に益田から電話連絡が入る。今川が重要参考人となった。按摩の尾島を明慧寺に任意出頭させる。この旨駐在に伝達する。これは声の主の確認のためである。博行が寺にいた。久遠寺、榎木津が仙石楼に送還される。以上を連絡してきた。

第五日、明慧寺である。関口があとできいてまとめたもの。山下が今回の異様な状況に自信を失なっている。叩きあげの菅原に引きずられるように捜査を進めてきたが、菅原に大した根拠のないことが分ってきた。菅原と今川のやりとりをきいて、どうも違うと思っている。菅原がひたすら自白を求めるが今川が自分のいったことを変えない。山下が司法解剖の結果、泰全は二時から三時の間に殺害と断定された。今川が六時半に会ったという証言と大きく食い違うと指摘する。今川が理致殿で六時半から三十分、障子越しに禅に造詣の深い老人か老人のような声を発する人物と問答したと修正する。まるで信用しない菅原にたいし山下はあり得る話しと感じた。山下は部屋を出た。知客寮を出て境内を歩いた。禅堂の横、久遠寺や榎木津がいた小屋を見た。久遠寺が大麻を捜せといったことを思い出した。久遠寺は仁秀と博行に会っていた。山下はいつの間にか土牢の前にいた。警備の警官が敬礼をした。きかれもしないのに三門付近の騒ぎで持ち場を三十分離れたことを告白した。山下は交替を指示し交替要員を呼びに行かせた。自分は中に入っていった。檻のある奥に向った。話しがしたいと博行の名を呼んだ。懐中電灯で檻の中を照らした。乾燥大麻の束を見つけた。博行が畳の上で死んでいた。山下は大声をあげた。

第五日、仙石楼である。関口、京極堂、飯窪、仁如が到着した。益田、久遠寺がいた。夜七時だった。益田から、常信、敦子、鳥口が明慧寺に向ったことを知る。榎木津は帰ったという。久遠寺が仁如に鈴は鈴子が不幸な状況で身籠った子どもだろうという。十三年前の事件を知る刑事がきく。飯窪に鈴子から託された手紙を読んだかきく。否。仁如に親子喧嘩の原因をきく。拝金主義の考えに強く反発したからという。関口がある思いつきを説明する。了稔自身、その他の僧にも召喚命令が出ていた。ところが山から下りたくなかった。渉外役を一手に引き受けていた了稔は自分のみならず、他の僧の召喚命令も握り潰した。そのうち援助打ち切りの最後通告がやって来る。そこで松宮仁一郎を殺害し、保管料を詐取することを思いつく。それで放火殺人を犯したという。一同不可解な顔をする。そこに菅原が登場する。山下が博行の死を発見したという。久遠寺を容疑者として逮捕するという。関口が京極堂の助けを得よう思う。

第五日、夕方、明慧寺である。鳥口、敦子、常信が警官とともに惣門にやって来る。その中に松明の明りがあった。血相を変えた菅原に出会う。久遠寺が仙石楼にいることを確かめて下山する。同行の警官が捜査本部のある知客寮に行く。中に山下がいる。常信、敦子、鳥口が入る。山下が博行の死亡を教えるとともに自分が最後の目撃者であることを認める。かって常信を疑っていたこと認める。今回の事件で常信が完全に白であること、久遠寺、今川、榎木津が疑がわれること、そのうち久遠寺が一番、容疑が濃いことを認める。しかし山下自身も十分に疑うことができることを認める。これまでの根拠のない捜査を反省する。常信に博行が大麻を常用していたらしい。博行の死体の側に大麻の束が置かれていたという。常信が博行が薬用植物を栽培していた。その中に大麻が含まれていたかもしれない。このことは博行の行者だった托雄がよく知ってるだろうという。山下は明日たぶん国家警察神奈川本部から石井警部がやって来て捜査主任をはずされるという。自信喪失の山下が常信に何故戻ってきたかきく。心の迷いから下山したが寺の一大事であるから戻ってきたという。常信が自分も気づかされたこととして説明する。人間は誰しも正しい心を持っている。しかしすこしでも道をはずすと、たちまち次から次へと迷いが生じる。しかし正しい心を信じそれにそって生きるように努めることが大切だ。山下も正しい心を持っているから、ただ努めればよいと励ます。禅堂で大変なことが起きていると知らせが入る。

祐賢と慈行が対峙している。祐賢が慈行が殺人の犯人だと告発する。山下が事情をききたいという。抗議する慈行を制止して祐賢を知客寮に連てゆく。祐賢が常信を認め驚く。山下が祐賢の話しをきく。何故慈行が犯人というのか。脳波測定反対が動機と思っていた時は慈行が犯人でないと否定した。しかし博行の殺害から破戒僧の殺害が動機だと気づいた。慈行は戒律至上主義者だから犯人だ。さらに博行の破廉恥行為を暴露する。山下が納得する。しかし泰全はどうかときく。昔、慈行を手籠めにしようとした。山下が何故、あれほど激怒したのかきく。不答。山下が痴情のもつれがあるのではという。慈行にそれを咎められたから犯人と告発したのか。否。英生が警官に連られ入ってくる。英生が告白する。昨夜祐賢にひどく折檻された。それは英生が拒んだからだという。英生はこれまで破戒行為をやっていた。それを祐賢に叱られた。さらに求められ、拒んだのだという。常信があきれた顔をする。祐賢は不答。英生が榎木津が祐賢を殴ったときそれに抗議もしないで出ていったので祐賢自身が心の疾しさを認めたと思った。それで慈行に転役を申しでた。山下がそれで慈行が祐賢を更迭しようとしたと指摘する。否。常信が祐賢に認めるよう迫まる。なおも否定するが、常信が昨夜下山したのは修業に徹することができない自分が祐賢を怖れていたためだったと告白する。それが分って祐賢を師と仰ごうと思ったという。ついに祐賢が認める。英生が若い僧と淫らな関係にあることを知っていたという。榎木津に殴られて何もできなかった。英生に頭を下げる。祐賢が告白する。

博行の死を知った時、慈行による粛清と思った。自分は慈行の戒律主義に何の疑問も持たない生き方が妬ましかったのだろう。さらに慈行の美貌に惹かれていたのもあるだろう。慈行がやって来て、英生がすべてを告白したといった。それは次はお前だといわれたように感じた。それが犯人告発になった。祐賢は率直に指摘してくれた山下に感謝する。常信に自分はこれからも僧をやってゆけるのかきく。然り。ともに下山しようという。祐賢が承知する。これから覚丹のところに参禅するという。英生も下山するという。錫杖を鳴らして僧が上がってくる。夜の十時だった。菅原、久遠寺、仁如がいた。山下が縛られていた久遠寺を解放した。法堂の前に鈴がいた。仁如が振り向いて見た。鈴の後に巨大な影が立っている。持っている長い棒を思い切り倒した。一同が見守る中で哲童がぶつぶつつぶやきながら立ち去った。法堂の方から悲鳴がきこえた。

9

第五日目、仙石楼である。関口、飯窪、益田、京極堂がいる。菅原、久遠寺、仁如は明慧寺に向った。飯窪が語りはじめる。仁如とはたくさん話したが何も伝わらなかった。ただ鈴子のことだけが伝わった。関口が仁如が豹変した理由がわかった。鈴子から託された手紙の話しとなる。もどかしい気持で話している。手紙のことを恋文という。関口がききとがめる。飯窪が手紙を読んだと認める。さらにそれを父仁一郎に渡したといった。思い出しているうちに昂奮して飯窪が失神した。

第五日目、明慧寺である。悲鳴をあげた托雄は貫首の方丈、大日殿の前にいた。祐賢が頭を殴打されて死んでいた。そこに覚丹がいた。山下、菅原、一同が集まった。しばらくして山下が覚丹、托雄を知客寮に移す。仁秀、鈴、哲童を保護するよう指示した。托雄が犯人は哲童だという。托雄は祐賢をここで待っていたという。そうしたら殴られて気絶したという。山下が警備の警官に指示を与え、久遠寺に検死を頼み、鳥口に下山して益田が寺に来るよう連絡を頼んだ。敦子も同行することとなった。今川がいる部屋に久遠寺、仁如が入ってきた。介添の敦子はこれから下山するという。久遠寺が仁如に鈴のことをきく。自分の記憶を確かめながら、鈴の顔、形、振袖はすべてあの日のまま、鈴は鈴子の娘だと昂奮していった。今川が口を出す。あの日とは何時のことか。仁如は年末に家出をして火事のあった翌日に戻ってきたという。仁如は年末に晴れ着を見たことになる。久遠寺も仁如の発言のおかしさに気づく。仁如は鈴が似ているとの思い込みから発言したと修正する。久遠寺が放火殺人の犯人なのかときく。否。それで久遠寺の質問は終った。そこに鳥口が久遠寺に検死依頼の伝言を持ってきた。山下が托雄を訊問する。

知客寮で話しをきく。祐賢を追いかけて前で待っていた。何故。英生をとられたくなかった。托雄の相手は英生か確認する。然り。回想がはじまる。山下が祐賢を知客寮に連れていった後、禅堂で慈行が座禅をはじめた。他の僧もそれにならった。英生は立っていた。托雄は座禅をしていて英生のことが気になって落ち着かなかったという。英生は警備の警官に話し外に出た。托雄は庫院の竃の火が心配だといって外に出た。托雄は典座の常信の後を慈行から命じられていたという。知客寮の外で話しをきいていた。英生も下山すると思った。祐賢が出てきたので後を追って大日殿まで来た。待っているところで記憶が亡くなった。気がつくと哲童が立っていた。哲童はあの旗竿で祐賢を殴り殺したという。どこに立っていたか。はっきりと答えられない。血が流れていた。そこで悲鳴をあげた。山下の疑問は解消されなかった。

鳥口と敦子が下山する。闇の中に敦子が鈴を見たような気がした。音がしたと鳥口がいう。鈴がいた。懐中電灯が落ちた。斜面の途中にひっかかっている。鳥口がおそるおそる下りてゆく。哲童の声がした。ふたりとも滑落した。

明慧寺の知客寮で久遠寺が検死結果を説明し立ち去る。山下が托雄にきく。了稔が失踪した日、常信の方丈、覚証殿から出てきたという証言は本当か。了稔を見たのは本当だが、正しくは覚証殿の寝所の窓から了稔を見たという。何故嘘をついたのか。厳しい菅原の追求を避けたかった。寝所で不埒の行為をしていたことを黙っていたかった。了稔がどこに行こうとしていたのか。たぶん湯本側に下りようとしていた。話しが変る。大雄宝殿の横の薬草畑はどうなったか。もう大半は駄目になっている。ただ昨年夏までに作ったものを乾かしたり粉末にしたりしたものが納屋にある。そこに麻があるのか。然り。博行にそれを渡したか。然り。毎日、処方して渡した。今朝も粥とともに持っていった。束を持っていったか。否。しかし哲童が麻とはどんなものかきいてきた。いつ、どこで。今日の午後、仁秀に食事を屆けた時。たぶん二時。何故か。不知。山下が哲童犯行説を考える。麻は殺すための準備か。然り。泰全を便所に突き立てるのは可能か。然り。了稔を担ぎ上げるのは可能か。然り。動機は。不明。思考終り。托雄が英生とのことを内密にしてくれと頼む。次に覚丹の事情聴取していた刑事の話しをきく。

覚丹はいきなり祐賢が参禅に来た。頓悟していたので袈裟を与えたという。出ていった後、悲鳴がきこえるまで知らなかった。袈裟は死体の腹の下にあったようだという。さらに付て加える。菅原が哲童と鈴を捜しているという。

第六日目、仙石楼である。日付が変った頃、関口と益田が飯窪を離れに休ませた。部屋で話している時、電話が鳴った。京極堂が出た。益田が明慧寺の現状、了稔について、事件の謎について話す。京極堂が突然入ってきて益田に僧の来歴についてきく。泰全の師匠の名は。和田智稔。京極堂が慈行がその孫だという。了稔は仁如がいた鎌倉の同じ寺から来たか。然り。その行状は。問題児。派遣の経緯は。智稔が明慧寺入るに当たって手伝いを鎌倉の寺に要請した。泰全が後を継いで入る時、ふたたび要請した。常信と祐賢は。寺名は判明、その詳しい経緯は調査中。曹洞宗はあまり熱心ではなかった。一、二年の派遣だったが。戦争がはじまって連絡がとれなくなった。京極堂の補足である。たぶん召還命令を了稔が握り潰していたのだろう。益田である。何度かの命令の後に拒否の返答があった。京極堂である。了稔が書いたのだろう。泰全について寺から召還命令が出ていない。智稔の個人的影響力によるらしい。覚丹の寺はどこか。不明。托雄の寺は。秩父の照山院。京極堂が礼をいって黙りこむ。関口が蔵のことをきく。

所有者の問題を除いて、かたがついた。京極堂が頼りにしている明石先生が教団に根回ししてくれたという。明石によれば明慧寺は大正の白隠と呼ばれた和田智稔を知る限られてた人たちだけが知っていたという。長老連中が心配している。京極堂がその説明をする。殺人事件もそうだが、智稔という男の妄執があの明慧寺を生んだということだという。しかし十五年の年月で各教団への影響力は消滅した。ただし、寺の中ではずっとそのまま残った。泰全は最後まで智稔の影響下にあった。それが昭和二十八年、了稔の死によって風穴が開けられた。京極堂がいう。実際に明慧寺を作ったのは了稔である。智稔の呪縛に便乗して自分だけの小さな宇宙を作りあげた。益田がしかし了稔は明慧寺の伝統を壊したかったときいいた。それでは考えが分裂している。理解できないという。京極堂が檻から出たがっている者はまず檻を作らねばならないという。それは見立て、明慧寺は宇宙の見立て。脳髄の見立てであるという。

禅の話しとなる。宗教には神秘体験が不可欠である。神秘体験は個人的なものである。これを普遍的なものとするには、言葉を用いた体系的な説明が必要となる。ここで言葉が重要な要素となる。ところが禅は個人的神秘体験を退け、言葉を否定する。禅でいう神秘体験は神秘体験を凌駕した日常を指す。話しがつづく。脳は身体の器官に過ぎない。しかし我々は我々を取り囲む外界を脳でしか識ることはできない。言葉は脳が外界を取りこむ時、その修正変容をもたらす。この言葉を用いないことは脳を無視した認識をすること。我なくして世界はあらず、同時に我なくして世界はあり、その二つの真理を同時に識ることが悟りだという。庭で音がした。がたがたとガラス戸が開く。哲童が立っていた。鳥口を担ぎ敦子を抱えていた。哲童が、四大分離して何処へと去るときく。何処へもいかずと京極堂が答える。

この項目の終りに、世尊粘花、趙州狗子、牛過窓櫺、庭前柏樹、雲門屎けつ、洞山三斤、迦葉刹竿、南泉斬猫、他是阿誰、不是仏心、即心即仏、非心非仏、兜率三関という禅の逸話がまとめてある。

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第六日目、仙石楼である。鳥口は骨折のようだ。京極堂が敦子にきく。祐賢は覚丹に参禅し出てきたところを何者かに殺害された。二十五年間誰も覚丹に参禅したことがなかったのか。然り。敦子が哲童の奇妙な行動について話す。どんな棒を持っていたのか。旗竿。祐賢の死体の近くに袈裟が落ちていたか。不知。益田が哲童の逃走を心配するが、京極堂が哲童は寺に戻ったという。話しが終る。益田が京極堂にもう殺人は起きないかときく。ないだろうという。一同就寝する。

朝、国家警察神奈川県本部の石井警部他が到着した。益田に事情をきく。京極堂の言から僧の保護が必要である。そのため全員下山させるという。警察の一団が出発した。石井が残った益田に殺人の概要をきく。飯窪が入ってくる。十三年前の放火事件について思い出したことある。話したいと山下にいう。鈴子から託された手紙の中身を読んでしまった。鈴子は好きだったが兄の仁への憧れが強かった。仁と父仁一郎との対立も鈴子のことだったらしい。一月三日、鈴子から受けとった手紙の中身をすぐ読んだ。恋文だった。それを仁のいる寺に持っていったが渡さず家に戻った。鈴子に嫉妬していたのだと思う。松宮の家に行って仁一郎を呼びだし、その中身を渡した。仁一郎は大声で娘の名を呼んだ。飯窪は怖くなってその場を逃げた。心配でたまらなくなったので夕方、松宮家に行った。そこで火事を発見した。火の手は二ケ所以上からあがっていた。裏口も燃えていた。仁は玄関に火を放っていた。仁は何かを叫びながら山の方に逃げていった。鈴子もその後を追った。話し終った飯窪を見て山下がこのことは警察に任せてほしいといった。関口は仁と鈴子の関係はただならぬもの。それが深刻な父と仁との対立に進んだのではないかと想像した。寺から警官と刑事が戻ってきた。僧たちは山から下りないといった。午前十時だった。

第六日目、午前四時、明慧寺である。葬式がはじまる。それまでの経緯である。午前二時いったん捜査を打ち切った。僧たちは禅堂で夜座をつづけていた。山下の差配である。禅堂脇の建物に久遠寺、今川、仁如を置いた。知客寮に常信、英生を置いた。托雄を内律殿、仁秀も内律殿に置いた。覚丹は知客寮の奥の間に置いた。知客寮の山下のところに慈行がやって来た。法堂で葬式をはじめようと思う。ついては覚丹のお出でを乞うという。覚丹が法堂に向った。冒頭に戻る。

第六日目、仙石楼である。石井が非常識な僧たちの行動に驚く。しばらく考える。指示する。葬式が終るまで待機する。寺には最低限の警備を残し、その他は下山し、仙石楼で待機する。鑑識の現場検証は続行、遺体は回收し解剖する。哲童と鈴の捜索は続行するという。関口は大広間から京極堂の部屋に行く。座って動かない京極堂に早く帰って蔵で調査をつづけるべきだ。何故ここにいるのかときく。さっき古書店主の山内から、駄目だったと連絡を受けたという。午後三時に尾島が着いたが、何の役にも立たなかった。午後四時二つの死体が運ばれてきた。警官が戻ってきた。山下、菅原、久遠寺、今川、仁如は戻らなかった。関口が大広間から廊下に出た。敦子、飯窪に出会った。その時、憑き物落しの黒装束に身を固めた京極堂が出てきた。松宮鈴子に憑いた大禿を落とそうと思うという。外に出た京極堂を関口が追う。榎木津が立っていた。一行は既に暗くなった山の中を進む。惣門が見えた。

惣門を潜り三門に至った。警備の警官を無視して中に入った。読経の声がきこえる。知客寮の前に山下が立っていた。中から久遠寺、今川、菅原も出てきた。常信と英生が庫院から現われた。読経の声がどんどん大きくなってゆく。京極堂が法堂の扉を開けた。読経が止んだ。本尊の前に覚丹、その後に慈行、その左右に十数名の僧がいる。慈行が振り向いた。京極堂が挨拶する。慈行が非礼を咎める。榎木津が近寄り慈行の胸倉をとって突き飛ばす。京極堂に早く仕事を済ませるよう促す。覚丹に京極堂がお伺いをすると近寄る。非礼を咎める覚丹にたいし京極堂が禅僧を真似る茶番は止めるよういう。覚丹が探しつづけていたもの、了稔が隠しつづけていたものは、もうないという。京極堂が慈行、その他の僧たちにいう。覚丹は禅師ではない。覚丹はただ貫首という仕事を勤めていただけだ。ただちに下山するよう勧めるという。怒る覚丹に元真言宗金剛三密会教主、円覚丹と素性を明かす。了稔、泰全、祐賢を失ない、常信も下山するという時、僧たちはもう嗣法を得ることができないという。慈行が嘘だと怒る。京極堂が覚丹の話しをする。

金剛三密会は明治初年にできた真言系の新興宗教だった。初代教主は円覚道だ。覚道は当山派修験道の行者で、厳しい修行で神通力を身につけ、多くの信者を獲得して後、東寺の修行を経て、真言宗金剛三密会という宗派を開いた。一時的に栄華を誇ったが十年をもたずして衰微した。さらに教主の座は世襲できても神通力は一代限り。覚丹の父の代に滅んでしまった。覚丹が路頭に迷い真言宗の秩父照山院に長年寄宿していた。愕然とする常信にたいし、覚丹は了稔に言葉巧みに誘われた。了稔は調査に入る時、この寺を寺として機能するように、社会、宇宙の一部として機能するように考えた。小坂の話しとなる。鎌倉の古刹で修行していたがその禅風は疎まれていた。無戒こそ真の禅であると考えていたようだが、それは禅寺の中ではただの破戒、この中で自分独自の禅風は貫けないと考えていた。了稔は無戒と脱他律的規範を取り違えていた。了稔にとって明慧寺への派遣は、一方で戒律の枠からの逸脱であるが、他方で逸脱すべき枠の消滅をも意味した。だからここに追い出された寺と同じものを作ろうとした。話しがつづく。

了稔は明慧寺を社会より断絶し、存続できるように数々の仕組みを作った。貫首に覚丹を起き、老師を置き、入門の僧たちを迎え、臨済と曹洞二流の禅を置いた。このように一般社会とも教団とも断絶した社会が出来あがった。信じられないという常信に京極堂が信じるよりないという。さらにいう。禅には自分だけ悟る、仏性があることを知る、仏の教えを知り行いに努める、そこまではできるが、じかに仏の境地に入ったそれは掴めないという。そこから常信は山中に籠っていることから社会に出て行くべきたとの考えとなる。ところが了稔は関わるべき社会を囲いこんで作ることを考えたという。

常信が覚丹に本当に真言宗の僧かたずねる。不答。京極堂が覚丹に参禅した僧は一人もいない。祐賢の参禅を受けた何をしたのかという。山下が袈裟を与えたという。覚丹はただ貫首の役を勤めただけ。覚丹は祖父の栄華を夢見て、そのような暮しに憧れた。あまつさえ金剛三密会の再興を目論んだという。僧たちに動揺が走った。話しがつづく。この寺は真言宗の寺、開山は空海か空海に連なる者である可能性があるという。慈行の怒声が響く。栄西が禅を日本に伝えたといわれているが正確ではない。元興寺には禅院があった。これを建てた道昭は飛鳥時代の人である。奈良時代にも入っている。最澄が唐より持ち帰ったものは円、密、禅、戒の四宗である。また空海も禅を伝えたといわれている。記録は発見されていない。しかし覚丹は空海の伝説を信じた。関口がその理由はときく。禪宗秘法記だ。これは空海が著したといわれる禅の経典である。現存しないといわれている。その幻の本がこの明慧寺にあった。信じられないという常信に覚丹が了稔にこうさそわれたのだろうという。覚丹はいやしくも一宗の長である。現状に満足できないだろう。貫首とならないか。この本が出ればふたたびの栄華も夢ではない。覚丹はわなわな震えだした。認める。しかし覚丹が了稔に騙された。覚丹も常信もそれはなかったという。

智稔の話しとなる。智稔がここに通ったのはこの本があったためだ。京極堂が慈行に呼びかける。慈行は智稔の孫に当たる。智稔は晩年自らを大正の白隠と称した。これは山中で仙人白幽子と出会い神秘の法を授かったという夜船閑話の逸話に関係する。智稔は庭作りの石を求めて山中に入り明慧寺を発見した。たぶん蔵の中から禪宗秘法記を発見した。そこで密教と禅定の融合したまったく新しい禅に触れ、それに取り憑かれてしまった。それを本物と断定することができず、調査をつづけざるを得なかった。この寺を手にいれて神秘の禅風を復活させたいと願った。しかしそのことを表沙汰にしたくなかった。それは真言宗の寺である可能性があったからという。常信がそのような蔵はないというと、今はないが、関東大震災の時に南面斜面が滑落し埋没してしまったという。震災の後、土地は松宮仁一郎の手に入り、智稔は蔵が埋没したことを知らず教団を謀り仁一郎と契約を結ばせ、さらに援助金まで出させた。ここに入る直前に亡くなったので、泰全に託された。話しがつづく。

京極堂はたぶん泰全はこの蔵を知らなかった。しかし了稔は知っていた。下山を決意した常信はこの話しに溜め息をつく。何人かの僧たちが立ち去ろうとする。京極堂がこれでもこの寺で修業をつづける気があるのかと問う。僧たちが去って、慈行と覚丹が残った。暴れる慈行を榎木津が抑える。京極堂が覚丹にどうするかときく。覚丹は話しはまだつづくのだろうといって、それなら最後までいさせてくれという。京極堂が明慧寺は了稔が結界を張ったように、さらに何百年の結界を張った人物がいるという。その人物が犯人だという。ここの本当の貫首であるといって指差した。仁秀が立っていた。犯人かという声に然りという。仁秀が何故わかったかときく。按摩の尾島が犯人は「所詮、漸修で悟入は難しい」といった。漸修で悟るのは北宗禅、北宗禅は奈良時代に唐僧により伝えられたが根づかなかった。現在の禅は南宗禅だ。時代的には最澄、空海までが北宗禅伝来の限界だ。明慧寺は空海に関係する。この寺を護る人物が北宗禅を伝えている。北宗禅の祖六祖神秀と同じ読みの名が仁秀。それが犯人だ。然り。見事な領解であるといった。今川が大声を上げた。

然り。泰全の方丈、理致殿で今川とやりとりをしたのは自分だ。山下が本当かときく。覚丹が何者かときく。代々この山を護る仁秀の名を継ぐ者である。北宗禅か。それを標榜したことはない。空海と関係するのか。そうきいているが、関係ない。仁秀が語り始める。その昔智稔がはじめて訪問したとき不惑を迎えた頃であった。智稔は仁秀を見て驚いた。代々受け継いだ禅籍が多かったから知識はあった。先代以外の僧に会うのははじめてであった。智稔は仁秀を白幽子になぞらえて大いに驚いた。智稔は大悟数度、小悟数知れずといった。仁秀はそれから二度と会わなかった。それから関東大震災の後に泰全が入った。京極堂が了稔が仁秀のことを知っていたか。不知。蔵のことを了稔に話していない。どこに埋まっていたか知らべもしなかった。覚丹が禪宗秘法記があったはずだというと、ただの紙切れ、執着するものでない。山下が了稔のことをきく。

あの時、朝課の後に仁秀の方丈に来て夕刻までいた。了稔がいう。この山は売られる。そうなると困るだろう。然り。だからこの土地を買いとるためにあるものを売ろうと思う。その昔智稔から蔵が崖下に埋まっているときいた。その中のものを売ろうと思う。他に頼める僧がいないので手伝ってくれという。今川がそれが禪宗秘法記のことかと納得する。夕方戻ってみればまだいた。同道を求められたので常信の方丈である覚証殿の裏手を通った。仁秀と了稔の対話である。仁秀はここにどれだけいるか。不知。悟るとはわかるか。不知。仁秀はただの鼠でないな。不答。智稔がいったが、仁秀は白幽子か。否。この山に檻を作った理由はわかるか。否。檻を作って檻から牛を逃がした。そしてようやく捕また。これからだ。今土地をとられたら困る。不答。仁秀がきく。その牛はどこか。ここ。もういない。自分が牛と知った。大悟したか。然り。本当か。然り。仁秀は了稔がそこでいさぎよく座った。大悟したと思った。だから殺したという。山下が何故ときく。仁秀が自分のことを語る。

仁秀は百年生きた。播磨の国に生まれ、箱根に到り、先代仁秀に拾われた。万延元年だった。修業に努めたが未だに悟り半ばだ。山下が殺害の動機をきく。豁然大悟。京極堂が仁秀は悟った人物を悟った順に殺していったという。今川が泰全はあの夜に狗子仏性の話しをしたときに頓悟したのかという。哲童が泰全が大悟といったので、早速訪れた。大悟だった。久遠寺がそれでは博行が大悟したと仁秀に伝えたから殺害したのか。然り。常信が祐賢もそうか。然り。呆れる山下に京極堂が仁秀は古今の禅籍だけを読み、俗世間と切れた生活をしていた。この明慧寺には仁秀しかいなかったという。ここは北宗禅の聖地だった。山下が死体の細工は何かときく。京極堂があれは公案だ。哲童の仕業という。仁秀が説明する。哲童が仁秀から尾島が逃げ出したところに丁度来た。了稔を見て、どうしたのかときくので殺したといった。何故このようなところに来たのかときくので、自分で考えろといった。泰全の時は哲童とともにたずねた。その場で殺してこれが仏であるといった。博行の時は哲童が仏はどこにいるかときいたので奥の院にいるといった。土牢のことだという。常信が祐賢の時は祐賢は袈裟をいただいたと哲童にいったのかときく。然り。托雄は祐賢を狙っていると思ったので棒で気絶させた。久遠寺が京極堂に解説を頼む。

ある時、僧が趙州和尚にきいた。達磨はなぜ西から来たのか。和尚は答えた。庭の柏の木だ。久遠寺が飯窪が見た僧は哲童だという。三日経っているがときく、哲童は庭の柏を探して仙石楼に来たという。その間の死体は方丈の土間の背負子に置かれていた。今川に説明する。ある時、僧が雲門和尚にきいた。仏とはどんなものか。和尚は答えた。乾いた屎掻きへらだ。これをシケツという。関口が泰全の部屋に来た哲童がシケツとは何かときいたことを思い出した。次に山下に説明する。ある時、僧が洞山和尚にきいた。仏とはどんなものか。和尚は答えた。麻三斤だ。山下が哲童が昨日この公案を考えていたので托雄に麻のありかをきいたのか。その時に仁秀が博行を殺害した。それで三束の麻を置いた。最後に京極堂が常信に語りかける。摩訶迦葉に阿難尊者がきいた。あなたは釈尊から金襴の袈裟以外に何をいただいたのか。迦葉は阿難を呼び、その返事をきいてからこういった。門前の旗竿を倒せ。この公案のことだと知っていただろうという。京極堂が仁秀にさらにきく。

仁秀の修業している禅は悟りを最終目標にしているのか。命をかえりみず悟り、解脱を目ざすという教義なのかきく。否。悟りと修行は同じもの。自分の禅が他と違っているところがあるだろうが、ここにおいて他の禅と変りないという。京極堂が人の心や意識は不連続である。脳はそれを連続しているように辻褄合せをする。頓悟とか大悟とかいうのはほんの一瞬のこと。それ以降ずっと人格が変るものでない。だから悟後の修行が大事という。では何故という言葉の終らぬうちに仁秀が、自分にはその一瞬がなかった。だから瞬時にそれが訪れた者が妬ましたかった。だからもし自分が悟ることがあれば、悟っている状態のまま死んでしまえば一番幸せと思っていた。浅ましい。了稔のいうとおり檻の中の鼠であったという。

仁秀が山下に法の裁きを受けるという。山下がかえって困る。凶器は了稔の持っていた錫杖だという。哲童が戻ったら衣鉢を嗣がせたいという。久遠寺に鈴のことを頼むという。久遠寺が仁秀に仁如を引き合わせる。山下が博行を土牢から出したのは誰かときく。鈴という。仁如が告白する。父と諍い家を出ていたが、一月三日帰ってみた。家は静かだった。茶の間に入ってランプを点けると父と母が死んでいた。ふり返えると鈴子が立っていた。笑った。そして仁如の子どもができたといった。ランプを叩きつけた。火はすぐ燃え移った。すっかり動顛して勝手口に火を点け離れの廊下に火を点け、玄関にも火を点けて、逃げ出したという。京極堂が一喝して発言を止めた。入り口に鈴と哲童が立っていた。哲童が仁如に、仁如が来たから山奥に逃げた。帰れという。睨み合いの時間が過ぎた。パチパチと炭のはぜる音がした。大声が響いた。英生が包丁で哲童の背中を切りつけた。榎木津がそれを抑えた。英生が哲童に何故祐賢を殺したのかという。警官たちが英生を取り押える。仁如が鈴に近寄る。帰れ。今更何しに来た。兄様という。兄様のために父も母も殺した。鈴子のことを殺そうとした。兄様の子どもなんか流れてしまったという。狂乱する仁如を京極堂が静める。空が赤かった。

火の手があがっている。大日殿、理致殿、雪窓殿、覚証殿。今川が回廊を指差した。明りの筋が駆け抜けた。鈴子が駆けだした。鈴子は法堂を経て大雄宝殿に入った。その中央に慈行が立っていた。京極堂が禅僧のやることではない。禅の心をどこに置いてきたのかと問う。榎木津が無駄だ。何も通じないという。慈行が自分は中身なき伽藍堂だ。結界自体である。結界が破られるなら消えてなくなれという。松明を振り翳した。火が祭壇の幕に移る。真っ赤な渦の中に大日如来が浮かびあがる。仁秀が大悟したといい、常信に哲童に教導を頼む。慈行に飛びついた。がらがら祭壇が崩れた。鈴子が炎の中で笑った。

第八日目、仙石楼である。火災が鎮火するのに丸二日かかった。焼け跡から慈行と思われる遺体が発見された。他の僧は仙石楼に入った。哲童の怪我は致命傷ではなかった。関口は大雄宝殿で気を失なった。仙石楼の部屋で気がついた。石井が最善の事後処理をした。僧たちは各地の禅寺に入るらしい。英生は常信とともにもといた寺に行くという。托雄は仁如のいた鎌倉の禅寺に行くそうである。覚丹は還俗するという。こうして箱根僧侶連続殺人事件は終った。

第八日目、富士見屋である。京極堂、関口、榎木津、敦子、鳥口が警察から解放されて富士見屋に着いた。蔵の書籍はすべて駄目になっていた。戦前から輸入されていたヌートリアという鼠の一種が野性化、大繁殖した結果、蔵の書籍を齧ってぼろぼろにしてしまったという。寺は焼失し蔵書は紙屑となり、蔵だけが残った。

(本文おわり)

泰全

泰全は明慧寺について多くを語ってくれたがすべてを語り尽す前に殺害された。本当の泰全の姿を推理により再現したい。

1) 泰全は智稔の意志を継いで新しい禅風の確立を目論んだ。
2) これに共感する了稔の力を借りてその実現に取り組んだ。しかし具体的手段では泰全と了稔は大き食い違った。了稔は覚丹というあやしげな素性の僧を貫首に据えた。これを泰全が拒否し自らが貫首となっていたら別の展望が開けたろう。しかし泰全の人柄から微温的な妥協が計られた。
3) 調査も禅風確立への取り組みもはかばかしくない状況で、また了稔が臨済とまったく別系統の曹洞の僧を入山させるという挙に出た。しかし、この頃には了稔の実務能力に頼らざるを得なくなっていたため、これを受け入れるしかなかった。これにより当初の目標はまったく実現が見込めなくなった。
4) 寺の書画骨董を売却することも大いに問題ではあったが、実際の必要からこれも受け入れざるを得なかった。
5) ここで寺を現状を見れば、当初の目標は大きく変容し、新しい禅風の確立ではなく、他の禅宗と隔絶した別世界の構築がなされただけであった。しかし泰全、その他の僧もこの世界に取り込まれてあえてここから脱出しようという意欲が失なわれてしまった。
6) 固定資産税の創設により、これまで取り繕っていた寺の土地所有者との問題が再浮上し、了稔は書庫蔵の蔵書の売却によりこれを乗り切ろとした。泰全はまたもこれを受け入れざるを得なかった。
7) 大学の調査については、当初の目的実現への糸口になるかもしれないという期待を持って賛成した。

泰全の心の闇

泰全は当初の目標からどんどんとかけ離れてゆく現状に流され、了稔の暴走、覚丹の無為無策、慈行の戒律固執に有効な手を打てなかった。異る流派の禅がひとつの寺に併存する。その中で厳しい修業を進めようという無茶な寺の運営をそのまま放置していた。このままでは早晩破綻することを十分予測していた。

であるならば、最低限、京極堂のように寺の僧たちに下山を勧めるべきであった。何故それをしなかったのか。各教団を支配する政治的状況、異様な世界に取り込まれた僧たちの状況などはあるが、このような不可解な行動をとった泰全の心の闇は深い。

(おわり)



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