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謎解き京極、鉄鼠の檻その2 [京極夏彦]

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この京極作品を未読の皆さんへ

不用意にのぞくことをすすめない。 (この連作の趣旨、体裁は「謎解き京極、姑獲鳥の夏」で説明した)

あらすじ2

5

第四日目、明慧寺である。山下が混乱してた。佑賢と慈行が口論した。常信が凶行がまたおこるといった。覚丹が登場した。哲童に罰策を命じた。覚丹が捜査協力を命じた。取材陣は内律殿にもどった。敦子が泰全の死体の姿は何かの見立てといった。益田が今川の行動を聴取した。

昨夜、今川がのこり泰全と話した。狗子仏性の公案がでた。こたえると泰全が何かに気づいたようだ。今川君、ありがとうといった。明日またくるようにいわれた。午前6時半にいった。理致殿の裏の山、大雄宝殿の裏に哲童がいたのをみた。部屋の外からよんだら、声がした。公案についてこたえた。見事な領解であるといわれた。もう一度、8時半に訪問したが、あえなかった。益田が飯窪に早朝の取材後の行動をきいた。

仁秀のところにいった。不審がられた。告白がはじまった。昭和15年、当時、松宮という裕福な家があった。上がヒトシ、下が鈴子という子どもがいた。正月の3日、火事がでた。両親は撲殺された。犯人は不明だ。ヒトシはその年末に父と大喧嘩して家出した。無事だった。鈴子は消息不明となった。振袖の晴れ着をきてたらしい。告白がつづく。

実は、その日に鈴子とあった。鈴子は兄がすきだった。飯窪を呼びだして手紙を託した。いるはずという寺にいったがいなかった。その夜に火事があった。ヒトシは4日にもどった。殺人と放火で逮捕された。証拠不十分で釈放された。その後ヒトシは出家し禅寺にはいった。照会の手紙にヒトシのこともきいた。たまたまヒトシが明慧寺に出むくことをしった。飯窪の午後の行動の話しにもどった。

仁秀のところで鈴のことをきいた。鈴子かどうかわからなかった。慈行に鎌倉からきた僧のことをききにいった。知客寮にいった。無人。便所にいった。飯窪の話しがおわった。一同は僧と同じ場所に移動させられた。

関口が後からきいた。知客寮に箱根山僧侶殺人事件の臨時捜査本部がおかれた。現場検証が夜8時までつづいた。捜査会議後、益田が取材陣をつれて仙石楼にむかうこととなった。常信の声がした。

警察に保護をもとめた。益田とともに下山させることとした。山下と菅原が佑賢から事情を聴取した。常信について、宗派の対立について、修証の違いについてきいた。ここから禅宗の歴史について壮大な話しが展開された。痴情のもつれの可能性についてきいた。泰全の行動ををきいた。6時すぎの朝食後、不在をしった。7時すぎ理致殿にいった。不在だった。死体は午後2時に発見された。菅原が了念が失踪発覚当日の夜、託雄によって目撃されているといった。鐘が乱打された。

夜の10時12分だった。菅原、山下がはしった。鐘楼の上に奇怪な人物がいた。先の典座菅野博行だった、博行は心をやんで土牢にいた。三門に鈴がいた。

6

第四日目、仙石楼である。下山した一同が大広間にいた。京極堂もいた。関口の回想である。夕方5時、取材陣は禅堂に移動。6時半、隣りの建物に移動。7時半、益田から下山をしらされた。常信も下山。夜10時17分、仙石楼。回想おわり。

関口は風呂、食事の後、就寝。これは後からきいた。鳥口が京極堂の部屋にいくと敦子もいた。京極堂は貫首にききたいことがあるからもどった。今の混乱では無理なので明日また現場にもどるといった。鳥口が十牛図についてきいた。京極堂は資料についてききたい。しかし貫首は無理、泰全は殺害、了念も殺害と困惑してた。

第五日目、仙石楼である。榎木津がまた明慧寺に乗りこむといった。京極堂が常信と会見した。明慧寺の持ち主は誰か。不明。関東大震災後に土地を購入したのは誰か。不知。寺に書庫はあるか。無。経蔵はある。昭和10年、常信、佑賢が入山したころ、了念による売却事件があった。処分は沙汰止みとなった。常信が入山したころ、了念は財務管理、教団との連携、建物の修理など庶務一般を担当してた。泰全がよんだ。覚丹について貫首は泰全が適任ではときく。事情は不知。常信の話しがつづく。

慈行は慧行の弟子、慧行は泰全の兄弟子。禅宗の歴史の話しとなった。京極堂が蘊蓄をかたむける。京極堂が常信がもっともおそれたのは佑賢だと核心をついた。認めた。帝大の調査に執心したのは何故かきいた。悟りの心境をきいた。大悟できない未熟者と告白した。

自分は社会から切りはなされている。それに疑問を感じてる。ふたたび調査に執心したわけをきいた。脳波測定により座禅の価値を否定してほしい。そんな気持を指摘された。心が動揺し、連夜夜座をおこなってた。指摘の正しさをみとめた。明慧寺が文化財に指定されることに期待があったか。然り。江戸時代より古いと思う。本当に夜座をしてたか。然り。託雄と一緒か。否。託雄は貫首の縁で5年前に入山した。前の典座のおこした事件を話すことは拒否した。益田が託雄の証言を話す。

常信が夜座してる間に了念が常信の方丈、覚証殿からでてきたのを目撃した。昨日、土牢に常信が食事をもっていった時、託雄らしき人物がでてきたといった。そのころの託雄の所在は不明だった。阿部巡査が笠原老人のところに不審な僧がきた。松宮某という。京極堂が湯本の駐在所にむかった。

7

第五日目、明慧寺である。関口が後できいた。榎木津、今川、久遠寺が三門にきた。慈行に誰何された。仁秀を呼びだし鈴を境内にいれたと懲罰をあたえた。菅原が鈴についてどんな事件があったか、慈行にきいたが、こたえなかった。久遠寺が博行にあいたいとたのんだ。防空壕のような穴の中、鉄格子のはまった部屋にいた。菅野とよぶ。ついに院長とこたえた。菅原が久遠寺を無理に知客寮につれていった。山下が久遠寺から聴取した。

博行は久遠寺医院の医者、昭和16年春に失踪した。久遠寺は毎年旅行、仙石楼に宿泊、博行も同行してた。小児科の医者だった。悪癖をもってた。土牢にいれられたきっかけとなった事情をきくが、寺側がおしえないといった。英生がお茶をもってきた。榎木津が痴話喧嘩か、ぶたれたかときいた。ここからでてゆけと助言した。佑賢がはいってきた。榎木津が横面を殴った。榎木津は外出した。久遠寺は今川をさそって仁秀のところにむかった。

仁秀のところに託雄がいた。典座の仕事で食事をもってきたといった。哲童のことをきいた。関東大震災の時からいる。捨て子だった。鈴は13年前からいる。捨て子だ。一時病弱だったが一昨年回復し出あるくようになった。哲童はいずれ禅匠となることを期待してる。鈴は何をしたのか。繰りかえしきいて久遠寺は事情を察した。今川に博行は幼児以外に性的対象となり得ない病気といった。久遠寺が警察の警備のすきをぬって土牢にはいった。

博行に呼びかける。久遠寺医院での悪行から精神がやんで明慧寺にきた。数年して正常に回復したが、哲童が公案の答をききに博行の方丈、内律殿にきた。10日考えた。その朝、鈴と出あった。破廉恥行為におよび、託雄に土牢に閉じこめられた。久遠寺と榎木津に非難された。榎木津は薬をやめろといった。大悟したといった。

榎木津は帰路につく。三門にきた。今川が仁秀が知客寮のあたりにいるのをみつけた。久遠寺が近よって博行が大悟したとしらせた。菅原がやってきた今川の証言に矛盾がみつかったといって、知客寮に連行した。

参考 全体の日程表
日目 仙石楼 明慧寺 その他
某日     中野-埋没書籍の調査のため
京極堂が関口を箱根に誘う
某日     按摩が奇怪な僧に遭遇
前日     湯本-富士見屋に関口京極堂到着
書籍調査
1 今川の待ち人未着   富士見屋-関口が僧目撃
2 僧目撃、敦子到着、了念死体発見    
3 榎木津が到着、謎解明 敦子他が到着
夜泰全に取材
 
4 敦子、関口、常信到着 泰全発見
博行発見
 
5 京極堂、常信と会談 榎木津他、到着
久遠寺、博行と再会
博行殺害
佑賢殺害
湯本-京極堂、仁如と会談
6 石井到着
京極堂、明慧寺へ
京極堂憑き物おとし  


おことわり

京極作品を未読の皆さん、どうかここを不用意にのぞいて将来の読書の喜びを損なわないよう、よろしくお願いする。

文庫版 鉄鼠の檻 (講談社文庫)

文庫版 鉄鼠の檻 (講談社文庫)

  • 作者: 京極 夏彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2001/09/06
  • メディア: 文庫


再度の警告。本文にはいわば「ネタバレ」が溢れている。未読の方には勧められない。では本文である。


謎解き京極、鉄鼠の檻その2

5

第四日目、明慧寺である。山下はあいかわらず混乱していた。全員を監視下に置くといって慈行と衝突した。祐賢と慈行の口論となった。常信が凶行はまた起きるかもしれないという。混乱の中で覚丹が登場した。哲童に祐賢、慈行に混乱の罰として十の罰策を命じた。あっけにとられるが、強引に僧たちを従わせようとする山下に覚丹の怒りが爆発する。側で見ていた菅原がとりなしてやっと混乱が納まる。覚丹が山下の指揮に従い捜査に協力するよう指示して去った。菅原が慈行に捜査本部を置く部屋の用意を頼んだ。取材陣一行は内律殿に戻った。関口、益田、敦子が話す。泰全の奇怪な死体の意味は何か。了稔と関連があるのか。わからない。敦子はあれは何かの見立てではないかという。今川は落語の長屋の花見のことをいい、益田は横溝正史の探偵小説のことをいう。今川が昨夜泰全のところに居残って話しをし、明日もう一度来るようにいわれたので、朝食後理致殿に行った。六時半だった。しばらくしてさらに八時半に行ったがもういなかったという。その後は内律殿に戻って昼食まで一人でいた。食事を終えてまた理致殿に行ったがやはりいなかったという。あたりを徘徊していて騒ぎに気がついて現場に来たという。益田が何をきいていたのかというと、今川は悟り、あるいは言葉にすれば逃げてゆくものが何かをきいていたという。今川が打ち明け話をする。

今川は蒔絵師の次男に生まれた。職人の家に生まれ芸術家を目ざし挫折した。昨日の芸術についての疑問は重大な問題だった。居残って泰全の話しをきいた。泰全は狗子仏性という公案を話した。そこで何か気づいたようで、今川君ありがとうといった。それから今川も解ってるはずだといって明日来るようにいわれた。朝、理致殿に行った。まったく応答がないので建物の周りを一周した。そこで理致殿の裏の山、もっと正確には大雄宝殿の裏手に哲童がいるのに気がついた。それから昨夜、会見のあった部屋の外辺りから泰全を呼んだら声がした。公案について話した。見事な領解であるといわれた。理致殿を離れさらに考えた。もう一度会いたくなって理致殿に向ったががもう会えなかったという。その上であれは見立てではないといった。益田が飯窪に取材活動後の行動をたずねた。

仁秀のところに行ったというと益田は何か隠してないかときく。関口も同様の疑いを持っていた。敦子が飯窪を庇おうとするが飯窪はそれを制して語りはじめる。自分は小湧谷の小さな集落に生まれた。尋常小学校に通っていた頃、昭和十五年のことだった。集落には一軒だけ松宮という裕福な家があった。そこには二人の子どもがいた。上は男の子、ヒトシという。漢字でどう書くのか知らない。その下は鈴子という。飯窪はその女の子と非常に仲が良かった。益田が仁秀のところに住んでいる娘の名前を連想した。飯窪の話しに戻る。その正月松宮家が火事で焼けた。一月三日だった。両親は撲殺されていた。松宮家には三人の外人の使用人がいたが、これらは焼死だった。犯人は不明のままで終わった。ヒトシのことである。ヒトシは年末に父と大喧嘩をして家を出ていた。そのため無事だった。鈴子の消息は不明だった。遺体は見つからず、山の方に逃げたという目撃者が何人もいた。その時、振袖の晴れ着を着ていた。関口がそれは成長しない少女だと思った。飯窪がそのはずはない。しかし仁秀のところにいたと知って驚いたという。話しはつづく。

実はその日、飯窪は鈴子に会ったという。鈴子は父とヒトシの日頃の諍いを知っていた。鈴子は兄がとても好きだった。鈴子は飯窪をこっそり呼びだして手紙を托した。底倉村のお寺にいるはずだというので、そこに出向いた。しかしいなかった。手紙は渡せないまま家に戻った。その夜に火事があったという。ヒトシが戻ったのは翌四日だった。親殺しと放火の容疑で逮捕された。鈴子がヒトシの無実を知っていると、その保護を求めた。しかし鈴子の行方は不明のままに終ったという。飯窪がヒトシは可哀想だ。自分勝手な父と村の人々との間に立ってその宥和に努めていた。地域に同情論が湧きあがったこともあり、証拠不十分で釈放されたという。その後ヒトシは底倉村のお寺の縁で出家した。禅寺に入った。飯窪は手紙のことをヒトシに伝えることができず、これまでずっと気になっていたという。今回の調査への飯窪の隠れた動機が明かされた。飯窪の話しがつづく。

禅寺に照会の手紙を書く時、必ずヒトシの消息をたずねる一文を添えて出した。依頼交渉をはじめて二ケ月後に鎌倉のある禅寺から返事があった。松宮という僧がその寺から出征し、二年前に復員した。さらに詳細は不明だが貫首の命で浅間山にある寺に出向いたとあった。ヒトシが明慧寺に出向いたことがわかったと思った。また他の寺から明慧寺のことを教えてもらった。それでこのお寺に照会の手紙を出したという。敦子が京極堂にこの寺のことを調べてもらったがわからなかった。それで編集長がかえって興味を持って今回の取材になったという。飯窪の母の話しとなる。キノコ取りで奥湯本から山の中に入った時、この寺を見つけたという。益田がここから奥湯本に行くのは思いの外に簡単だ。とくに慣れた僧ではそうだ。按摩の尾島の僧の話しもこれで理解できるという。ヒトシの話しに戻る。敦子が会ったのはヒトシなら、まだこの辺りにいる可能性があるという。泰全がいっていた鎌倉から来た僧はヒトシかもしれない。さらに松宮家殺人放火事件の犯人が泰全と了稔だったら、今回の殺人はその復讐だと昂奮気味に語る。今川、敦子が話しが飛躍しすぎるとたしなめる。益田が話しを午後の行動の話しに戻す。

飯窪は仁秀のところに行って鈴のことをきいた。鈴子である可能性はないと思ったが、無縁の者とは思えなかった。鈴とは会えなかった。仁秀の庵は大雄宝殿の裏手に畑がある。さらにその奥にあるという。一同が十三年前の鈴子と今の鈴の関係を考える。同一とは思えないが無関係とも思えないという結論になった。益田が鈴が歌っている唄のことを飯窪にきくが知らないという。飯窪が話す。鎌倉からの僧のことをきくため慈行のところに行った。知客寮には誰もいない。三門に行くと便所の辺りが騒がしい。そこで現場に来たという。結局何もはっきりしたことはわからないという状況に一同が呆然としていると、菅原がやって来た。益田に来るようにいうとともに、一同に僧たちといっしょの部屋に移動するよう求めた。

関口が後からきいた話しをまとめたものである。知客寮に箱根僧侶殺人事件臨時捜査本部が置かれた。応援要員が午後六時半に着いた。暗闇の中で現場検証が八時までつづいた。会議がはじまった。益田から泰全の話しの報告があった。昭和十五年の放火殺人事件の報告もあった。議論は混乱した。寺の僧全体の陰謀、宗派による対立、葛藤が取りあげられた。外部の犯行も考えられた。今川、飯窪も取りあげられた。山下は萎えかけていた功名心が頭をもたげてきた。放火殺人事件、了稔の寺の外での活動、寺の捜査と分け、担当を割り振った。益田が山下に寺に宿泊する捜査員の食事、取材陣の食事について確認する。山下は益田に取材陣を連て仙石楼に向うよう指示し、また仙石楼に留まり連絡役を担当するよう指示する。自分自身は明慧寺に留まる。菅原にも留まるうよう指示する。散会となった。益田が思い出したように仁秀についてきいた。山下が了解したといってそれ以上の発言を抑えた。山下は菅原を招いていう。常信のことが気になる。自白させようという。突然声が響いた。常信が騒いでいるという。

山下が外に出る。右手奥に取材陣のいる建物、その左に僧たちのいる建物がある。慈行がいるらしい。常信が警官を引き連れてやってきた。保護してくれという。困惑する山下は取り敢えず知客寮にいるようにいうが、下山したいという。菅原が後から声をかけた。常信のいない時に常信のことをきく。その方が好都合だという。山下は益田を呼んで常信を取材陣ととも下山させるよう指示した。残ったふたりは祐賢を呼んだ。やりとりがはじまる。常信はどうしたのか。わかりかねる。怪しいと思うか。怪しいとは思わないが、あれほど狼狽するとは、誰を怖れているのか。誰か。慈行かも。どうして。慈行は臨済、常信は曹洞、元々反りが合わない。了稔、泰全亡き後は臨済僧は慈行のみ。宗派間の爭いがあるのか。ない。禅定は生死をかける問題。常信に相容れないものがあるのは仕様がない。了稔が殺された時はそうでもなかったが、泰全が殺さたとたんに騒ぎだした。臨済僧の殺害がつづいた。次は慈行。そこで曹洞僧の常信への報復を怖れたというのか。ない。臨済僧といっても相互に違いがある。修証の違いの話しとなる。

常信と了稔は激しく対立していた。了稔追放の嘆願まで出した。ただし貫首といえども弟子でないものの追放はできない。そのまま沙汰止みとなった。この嘆願に賛成したのが慈行である。常信は慈行が了稔を殺したと思いこんだかもしれない。泰全との関係はどうか。了稔にたいして理解はあった。自身も良寛のようだった。了稔は盤珪、正三、一休という異流の禅匠に心を寄せていた。山下が基本的なこととして臨済宗と曹洞宗の説明を求める。禅は達磨を祖とし、中国にもたらされた。以降二祖慧可、三祖僧燦(火が王)、四祖道信、五祖弘忍と受け嗣がれ、六祖慧能で大成する。六祖で法系が別れ、青原から曹洞、雲門、法眼の三宗、南嶽から臨済、僞(人が三水)仰の二宗がさらに別れて五葉となる。我が国に伝わったのは臨済と曹洞の二つである。臨済は臨済義玄にはじまる。これは参禅する者に公案を与え、それを突き詰めることで修行をさせる。いわゆる看話禅である。これにたいし洞山良介(へんに人)にはじまる曹洞宗は黙照禅と呼ばれる。こちらはただ座るのみ。話しがつづく。

了稔は盤珪、正三、一休のように周囲から煙たがらていた。常信は正三を認めない。慈行は盤珪を認めない。了稔と反りが合わないのも止むを得ない。泰全はどんな人か。五山系の人、可もなし不可もなし、泰然として自分の禅をつづけていた。敵を作る人ではない。常信とは親交がなかったが対立していたわけではない。山下がどのような動機があるのか考える。祐賢がいう。帝大の調査に賛成していた点で共通する。祐賢は調査で悟りを解明するという考えは馬鹿げていると思う。禅は修行と悟りが一体である。どちらかが欠けたら禅ではない。たとえ科学の力で悟りが解明されたとしても修行のない禅はあり得ない。この考えはさんにんも同じだったと思うが、それぞれ思惑があって賛成したようだ。慈行はこれに猛反対した。祐賢はどちらでもよいと思った。これを覚丹が許すといったので、受け入れることとなった。だから賛成派の常信も殺されると怖れたのかもしれない。では犯人は慈行か。馬鹿馬鹿しい。あり得ない。菅原が別の動機を探る。

痴情のもつれが動機とならないか。ない。泰全発見の経緯をまたきく。泰全は朝課に出なかった。然り。これまで朝課不参はなかった。様子を見てくるように指示した。朝課後、貫首のところに行った。十五分いた。その後、自分の方丈である相見殿で朝食をとった。泰全が早朝からいないことの報告は朝食後である。六時過ぎだった。まず庫院に行き、常信の方丈である覚証殿に行って、泰全の方丈である理致殿に着いた。七時過ぎだった。理致殿には誰もいなかったか。然り。中に入ったか。否。そこで菅原がいう。今川の証言によれば六時半から七時にかけて泰全と話しをしたという。どうも不自然な気がするという。了稔の失踪について、いったん失踪が確認され、その日の夜、托雄に目撃されている。菅原は何か奥歯にものの挟まったようなものいいで質問を終えた。山下が泰全の死体発見の時間をきく。午後二時過ぎである。便所に行った僧から報告があった。現場に行った時は騒ぎになっていた。覚丹のもとに知らせに走った。現場に戻り、慈行を呼びにやった。益田が応援を呼ぶため下山したのが三時だった。これ以上きくことがない。祐賢が立ち去ろうとした。鐘が乱打された。

夜の十時四十二分だった。お付きの英生が、博行さまがと口走った。祐賢が叱責した。菅原、山下が英生の後を追った。鐘楼の周りに僧たちが集まていた。鐘楼の上には奇怪な人物が大声で喚いていた。衣服はぼろぼろで髪も髭も伸びほうだいだった。菅原が僧を掻き分け体当りして押さえこんだ。慈行が山下にあの僧は先の典座菅野博行というといった。博行は心を病んでいるので土牢に隔離していたという。三門の陰から鈴が見えた。笑っていた。

6

第四日目の夜、仙石楼である。下山してきた一同は大広間に座っている京極堂に迎えられた。関口の回想である。夕方五時、取材陣は禅堂に移動した。そこには僧たちが座禅をしていた。見ていると一人づつ外に出て、また戻ってくる。事情聴取が行なわれているらしい。六時半、応援の捜査員が来て取材陣は隣りの建物に移された。声がきこえた。鈴だった。七時半、益田がやって来た。これから仙石楼に移動するという。常信のヒステリックな声が響いた。警官を従えてて臨時捜査本部のある知客寮に入っていった。一同は常信、益田、警官を加えて下山した。夜十一時十七分仙石楼に着いた。

冒頭に戻る。京極堂に挨拶の後、一同は部屋に案内された。食事の前に風呂に入った。食事は握り飯ひとつだけ食べてすぐに寢た。以下は後からきいた話しである。鳥口は昼以降の展開が捕めず不満が募っていた。京極堂の部屋に行くと敦子がいた。敦子からあらためて事情の説明を受けてようやく落ち着いた。京極堂は夕方、仙石楼に着いていたとい。そこで久遠寺、榎木津から情報を得て大筋を把握していたという。ここに来たのは貫首にききたいことがあったためである。しかしこの騒ぎで無理だから明日早々に戻るという。京極堂が例により事件について冷淡だった。

鳥口が十牛図についてきく。一枚目がこの部屋の掛け軸の牛に乗っている男。これが主人公だ。一枚目でいきなり牛を失なっていることに気づく。それまで牛を飼っていたのか。否。この世界はここからはじまる。その前はない。男は牛を捜しに行く。これが尋牛だ。飯窪が最初に泊まっていた部屋にあるもの。次、二枚目、敦子の部屋のもの。男は物的証拠を発見する。牛の足跡だ。見跡だ。三枚目は鳥口の部屋、見牛だ。牛の部分を目撃しただけだ。次に手綱をつけて捕まえようとする。これが四枚目の得牛だ。関口の部屋にあるはずだ。そして遂に牛を捕まえることに成功する。五枚目の牧牛だ。榎木津の部屋に掛かっているはず。次に六枚目、この部屋の騎牛帰家だ。牛をすっかり飼い馴らして、背中に乗って笛を吹いている。家に帰る。この牛は白い。鳥口のところの牛はどうか。黒かった。次はどんな絵と思うか。家で仲良く牛と暮らす絵か。否。男ひとりが家で寛いでいる。牛のことを忘れている。七枚目、亡牛在人だ。逃げたのか。否。なくなった。次は今川の部屋だろう。この絵には何も描かれていない。八枚目、人牛倶忘だ。仙石楼にないが九枚目、布袋尊のような姿に変わった男、あるいは別人かもしれない。袋を担いでただ立っている。最後の十枚目の入躔(足をこざとのつくりとする)垂手だ。説明がつづく。これは悟りの過程を示したもの。仙石楼にはない九枚目、十枚目を含めて、修行と悟りは一体のものと、泰全と同じようなことをいっている。京極堂が今調査している書籍に関し知りたいことがある。そのため貫首に会いたいと思ったが無理のようだ。この寺の発見者に縁のある泰全にきくこともできなくなった。二番目に古い了稔も不可能だといって困惑する。天井で鼠が騒ぐ。鳥口が下山し滞在中の常信にきくことを提案した。

第五日目、仙石楼である。関口は騒ぎで目が覚めた。榎木津が鼠を取ろうと騒いでいた。巨大な鼠が出るという。久遠寺が関口を見つけて、また殺人があったときく。関口の方からも調査に乗りだすよういってくれという。榎木津の傍若無人な態度を死者が出たのに不謹慎だと関口がいうと榎木津が反論したが、やがて明慧寺に乗りこむという。とまどう今川に案内を命令する。鳥口に様子をきく。刑事たちは午前五時に出発した。京極堂が広間に控えている。きくと常信に会見を申しこんだという。益田の了解を得たので会見がはじまる。離れの座敷に座っている常信に京極堂が向き合う。益田が右横、関口、敦子が後、鳥口、飯窪が障子の外だった。

冒頭の挨拶の後に京極堂が命を狙われているといってねぎらう。やりとりがはじまる。何を知りたいか。明慧寺の持ち主は誰か。どの宗派が寺を運営しているかではない。大正の関東大震災の後に土地を購入したのは誰か。不知。寺に共通の書庫はあるか。無。経蔵はある。京極堂が土地については当方で調べるといって、またやりとりに戻る。常信は曹洞宗か。然り。現職の典座は重要な役名、相当の人物がこれに当たるもの。否。自分は古参、年功序列によっただけ。前の典座は身体を壊したので常信がこの役目についたのか。然り。前職者は自分より新参、しかし評価されていたため。京極堂が評価という言葉に首を傾げる。修行は僧が一体となり励むもの、一人が抜けだしていることは無益。不適切な言葉かも。益田が競争は向上のため大切だという。関口がそれは資本主義競争社会に慣れ親しんでいるから思うだけ。常信が自分の役割に誠心誠意努めるのみ。不満はない。益田がそう思いこむようにしてるだけでは。否。益田がいう。料理が不得意な人もいる。職業選択の自由はないのか。ない。そんなものは自由というものでない。個性はそんなところで発露するものでない。しかし、個人の適性、嗜好を尊重するのが正しいあり方では。京極堂が益田に手段と目的を分けるからそう思う。個性や嗜好を満たすため役割を担っているわけではない。僧たちは不可分と考えているから、その考えは当たらないという。話が変わる。

京極堂が臨済と曹洞の違いをきく。対立、抗争もあったとか。深刻なものはない。曹洞宗は黙照禅と臨済宗は看話禅というが、もともとは悪口からはじまったものだが、今では互いの違いを示すものとして定着している。相当な違いがあるなら、明慧寺で一致して修行ができたのか。否。それは苦労なこと。了稔はどうだったか。臨済だが破戒僧だ。泰全はそれを認めていたとか。老師は懐が深い。了稔は泰全の禅を役立ずの分別禅とけなした。敦子が泰全が了稔をずいぶん買っていたという。否。公案を馬鹿にする。ただ座っている者も何を寢ていると叱咤する。当たってる部分もあるが、それは自分の破戒を正当化している屁理屈に過ぎない。だから殺されたと。そうかも知れないと思ったこともあった。しかし明慧寺で発見された書画骨董を売ったことが問題だ。というと。修行に芸術は無関係。しかし禅匠がものを作るのは修行、そのものを見るのも修行。売り飛す理由にならない。あの時も問題となった。あの時とは。昭和十年、祐賢、常信が入山した頃、調査の中で書画骨董が出てきた。それを売却した。泰全、覚丹、祐賢、常信と了稔が対峙したが、南泉斬猫の故事をひいて、どうするかと開き直った。泰全が許し沙汰止みとなった。了稔はその後も同じことを繰り返したが誰も何もいわなかった。益田が了稔の役割をきく。

常信が入山した頃、了稔は財務管理、教団との連絡、建物の修理など庶務一般を一手に引き受けてやっていた。調査するには人がいる。人が来れば庶務担当が要ると泰全が要請して来てもらった。同時に覚丹は貫首として入山したという。泰全が貫首でよかったのでは。そうかもしれないが事情は不知。今の形に定まったのは昭和十四年。了稔が監院、直歳が祐賢、典座が泰全、常信が維那となった。それは何故か。きっかけは昭和十三年に明慧寺としてはじめて入門僧を迎えたこと。それまではそれぞれが連てきた侍僧しかいなかった。益田がちょうど慈行が入山した年という。常信の話しがつづく。

幾度かの転役の後、慈行が監院となった時、了稔のことが問題となった。慈行と了稔が対立している時に南泉斬猫の話しをすると、了稔を南泉和尚がしたように斬ればよかったといったので驚いた。了稔が殺害されたときいた時、この時のことを思い出した。京極堂が慈行が監院となったのは何時か。戦争中、二十歳頃。その法系は。慈行には慧行とい師匠がいた。慧行から得度を受けた。慧行は泰全の兄弟子に当たる。慧行の法系の詳細は不知。慈行はいわゆる応燈関の一つ、白隠を尊敬している。益田が応燈関も白隠もよくわからないという。これで京極堂が禅の歴史の概要を語ることとなる。

そもそもはお釈迦さまからはじまる。晩年、霊鷲山の頂上で説法をした時、その日に限って何も喋らず近くに咲いている金波羅華の花をひねって見せた。ほとんどの弟子はわけがわからなかったが、ただひとり摩訶迦葉という弟子がそれを見てにっこりと微笑んだ。お釈迦さまは、自分には正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門があるが、教外別伝、不立文字は摩訶迦葉に伝えたといった。これが禅のはじまりだ。摩訶迦葉はお釈迦さまから衣鉢を継ぐ。その二十八回目に達磨が登場する。達磨は中国に渡り、中国禅の開祖となる。ここで衣鉢が継がれる。五祖弘忍から六祖となる時に問題が生じた。弘忍にはたくさんの弟子がいた。その中に大通神秀が衆目の認める候補だったが、実際は大鑑慧能が継いだ。弟子の中で最下層に属する米搗き小僧だった。慧能は生まれ故郷、広東に逃げた。そこに根を張り地方中心に布教を展開した。他方、神秀は都、長安、洛陽で活動し、一時は絶大な勢力を誇ったが、絶えてしまった。慧能の禅を南宗禅、神秀の禅を北宗禅という。漸悟の北宗禅、頓悟の南宗禅といっている。漸悟はゆっくりと悟る。頓悟は一発で悟るといわれるが、いずれにしても修行を通じて悟る。頓悟の方が高次の立場との見方が浸透した。六祖慧能にはまた幾人かの弟子がいた。七祖について問題がある。常信は曹洞宗では青原行思とするという。京極堂がこの他に南嶽懐献を七祖とする一派もある。南嶽系から僞(人が三水)仰宗、臨済宗とつながる。青原系から雲門宗、法眼宗、曹洞宗とつながる。こうして中国の南宗禅は唐の時代に五家七宗といわれるようになった。臨済宗に黄龍派と楊岐派が含まれるので七宗とう。これから日本の禅の話しとなる。

栄西が最初に日本に禅を持ってきた。二度入宋し天台山で臨済宗黄龍派の禅を学び持ち帰った。天台宗からの排撃を受けたが幕府寄りの態度を貫き、他宗派との併存を目ざした。ところが同じ時期に栄西と違った形で興禅活動をしていた人物がいた。大日坊能忍だ。能忍は独学の人といわれ、誰に師事したわけでない。しかし嗣法を重視する禅宗では誰かの法系に属する必要がある。そこで宋に使いを出して嗣法を頼んだ。能忍は日本にいながら臨済宗楊岐派の拙庵徳光に嗣法を許された。関口があの蔵にあった僞山警策に関わる人物だと思い出した。京極堂の話しがつづく。能忍は日本達磨宗を興した。

これで黄龍派、楊岐派が日本に伝来したが、能忍は殺されてしまった。栄西は権勢とつかず離れずの距離を保ち興禅をつづける。京都に建仁寺、鎌倉に寿福寺を建立する。次に道元の登場となる。延暦寺、園城寺と学び、さらに建仁寺に入り、栄西の門弟とともに入宋した。求道の末、天童如浄と邂逅し嗣法、曹洞宗を日本に持ち帰った。道元は延暦寺からひどい弾圧を受け、建仁寺の僧とも袂を分かつ。白山系天台宗、能忍の死後ばらばらになった日本達磨宗の残党などの助力を得て越前で永平寺を開く。一方、鎌倉を中心に権勢と結びついた臨済宗では、続々と寺院を建立する。中国より無学祖元などの僧を招く。その宗勢はますます興隆する。その結果五山寺院が生まれる。浄智寺を最初に、建長寺、円覚寺、寿福寺と五山の称号が与えられる。これは寺格が高いといことだ。南北朝から室町に移行する中で、五山寺院を頂点とする寺格統制が進む。京都の南禅寺が五山の上という寺格が与えられ京都の五山優位とい形で落ち着く。しかしその流れに与しない宗派もある。林下派、曹洞宗と臨済宗の大徳寺派、妙心寺派だ。これは先ほど出てきた応燈関の一流だ。この大徳寺の宗峰は夢窓疎石と並ぶほどの器だった。これに後醍醐天皇は興味を持ち、大徳寺に南禅寺と同じ寺格を与えた。室町になると幕府は十方住持制という幕府が住持を任命するという制度を実施する。大徳寺はこれに従わなかったからあ五山から離れるよりなかった。こうして林下派は中央を離れ地方に根を張ることとなる。話しがつづく。

益田がきく。六祖慧能と道元は似てないか。地方に根を張り政権から遠ざかった。京極堂がいう。五山は中央にあり権勢の庇護のもと文化サロンのようになった。林下の諸派は艱難辛苦、苦心惨憺して興禅活動をつづけてた。いずれにせよ五山の隆盛期は禅宗が最も繁栄した時期だ。戦国時代になると武将はこぞって禅僧と親交を持ったが、林下に比べ五山系の活躍はやや精彩を欠いた。道元の死後曹洞宗も二派に割れたのか。否。道元の孤高な禅風を慕う者と民衆に広く教えを広めようと考える者が出ただけ。益田がやはり保守革新と割れたという。京極堂が革新派といえるのは瑩山紹瑾かという。組織作りの才能にたけていた。地方武士、農民中心に布教を展開した。常信は保守革新という区分には納得しかねるという雰囲気だった。京極堂も強く主張しない。曹洞宗は永平寺派と総持寺派と分かれていない。寺格も永平寺が上と定まっている。常信が両者が曹洞宗にとって不可欠なものという。祐賢はどうか。もうひとりの曹洞宗。この辺りへの祐賢の考えは。立派な修行僧、教団、組織に関しては無関心。それで足りていた。また歴史に戻る。弱体化しつつも権威を保持する臨済宗五山系寺院と地方で勢力を拡大した曹洞宗という構図のまま、江戸時代に入る。そこに隠元隆埼が黄檗宗を持ってきた。これが刺激になって禅は活性化した。日本の禅は古い時代に渡来し日本の土壌で花開いた。隠元の禅は中国で育ったもの。その禅風は禅に浄土宗的要素を組みこんだ斬新なものだった。曹洞宗も影響を受けたのか。かもしれない。祐賢はどう考えているか。さあ。京極堂がいう。曹洞宗にも臨済宗にも刺激を与えた。応燈関の一流が息をふき返す。江戸の半ば、この流れをくむ日本臨済宗中興の功労者、白隠慧鶴が登場する。盤珪などの痛烈な批判を取りこんで、旧来の公案禅を再生した。公案禅の日本的展開は禅の浸透に大きく貢献した。こうして臨済宗、曹洞宗、黄檗宗という現在の日本の禅はこの時代に概ね形を整えた。これで話しが終わる。

京極堂がいう。この千年になんなんとする日本の禅の歴史が明慧寺にそっくり入っている。まるで禅の箱庭だ。例えば、慈行は応燈関一流の末、白隠に傾倒、泰全は古き良き五山の臨済僧、祐賢は初期永平教団、常信は瑩山以降の曹洞宗になぞらえ得る。そして了稔は一休、正三、盤珪、すべての反立者だった。益田がこれで寺内の人間関係が解りやすくなったという。京極堂が常信をみつめてきく。貫首の宗派は何か。曹洞宗ではない。京極堂が常信の不知を見切って、話しを転換する。常信を殺そうとしているのは誰か。いえない。さらにきく。そう思いこんでいるのは誰か。いえない。それは祐賢ですね。然り。京極堂がいう。これはたんなる当てずっぽ。常信の本当の気持をいって、益田に必要な保護を求めよという。常信が告白する。了稔の死を知った時、慈行を疑った。しかし外部の犯行と思い直した。次に泰全が殺された時、これを次は自分だという警告と思った。敦子が脳波調査に関係があると思ったという。祐賢が一番反対だった。しかし慈行のように表立って反対しなかった。自分は祐賢の無言の圧力に苦しんだ。京極堂が祐賢がたんに関心が無かただけでしょうという。益田が慈行の方が怪しいという。常信は了稔殺害には不在証明があるという。あの夜、自分は禅堂にいた。そこに慈行も入ってきた。さらに調査の被験体となるのは曹洞宗の僧という条件で慈行は認めた。だから調査を嫌がるのは祐賢だけと考えた。京極堂が話しに割って入って、何故この調査に執心したのかききたいという。

さらに本当に狙われていると思うのなら、その理由は常信自身にあるはずだという。不答。さらに促されて身の上話をいう。昭和元年大学生から得度した。世の無常がどうしたとかいって現実逃避の出家だった。厳格な師匠のもと一年で叩きのめされ、十年修行を積んだ。そこで明慧寺に派遣された。師匠を持たず自分で世界を構築しなければならなくなった。いっしょに入山した祐賢は八歳年上で今の禅風を確立していた。大いに影響を受けた。京極堂が先ほど、祐賢のことを立派な修行者だった。それだけだといったと指摘する。貶していない。修行に努めよく学んでいる。尊敬している。京極堂が祐賢は原点回帰の考えを持っているのか。否。それは黄檗伝来の時に曹洞に起きたこと。祐賢はそれには関心はない。祐賢は道元の理想に沿う修行をしている。立派である。自分はそうなれなかった。益田が座っていて雑念が湧くといことか。否。眠気を催すと警策で打たれる。そんな問題はない。目をつむっているわけではない。自分も座禅ができていると思うが、二十年いまだ悟れない。説明が難しいが悟ったと思うのはないことはない。ふっと見えることがある。座禅中に普段見えないものが見え、きこえないものがきこえることがある。さらに進むと世界が新しくなった。清浄になったような気がする。これこそ仏教界かという気になる。それが悟りではと益田。これは魔境だ。修行などせずとも起こること。京極堂もそのとおりと補足する。それをあたり前のこととして受け流せということかときく。然り。本当の悟りも突然に悟るがこれと違う。ここから思いきった告白がはじまる。自分は未だ大悟を知らない未熟な修行僧、これまで禅匠のようなことをいっていたのはたんなる知識による。本当の知識からでない。益田が信じられない。常信も京極堂も禅の達人と見えるとい。京極堂は禅者でない。たんに知ってるだけと断る。常信がそれを認め、自分を仏教者であるが禅者ではないという。ここでやや話しが飛ぶ。

常信が、自分たちは無意味だ。社会と切れているという。自分がいくら座禅しても社会はよくならない。それでよいのかと思った。それ以来迷いの中にいる。戦争中、本山からも僧が出征した。よけいにその感が強くなった。祐賢にそのことを訴えたが無用の迷いといわれた。なるほど悟りとは関係のないことかもしれないが、正しことではないか。祐賢はそこで足りていたが、それは自己満足に過ぎない。その素晴らしい法を広く世に知らしめることをしなかった。禅匠というものはそれでよいのかと京極堂に問う。あっさり、よくないという。座禅義という本に禅をする者は迷える多くの人々を救うことを誓うべきで自分ひとりのための解脱を求めてはならないと書いてあると益田にも解るようにいう。常信にたずねる。

祐賢が勝手な人だといいたいのか。.... 勝手。優れた法を一人の弟子に伝える。世の中には何億何万という人々がいるのにそれを延々と繰り返す。それが宗教かと思う。然り。でも禅は宗教なのか。何と ....。たしかに曹洞宗は宗教教団だが、禅自体は宗教か。衆生を救うのは教団の役目、禅は衆生を救う教団の一員としてふさわしい禅匠となるためにあるのでは。最初に常信はありとあらゆるものが真理である以上、ひとりひとりの努力は全体への奉仕となるという意味のことをいった。祐賢のようなあり方は間違っていない。疑。教団を離れてしまった以上、祐賢のように振舞うしかないでしょう。然り .... というべきか。京極堂が解ったという。常信を狙っているのはその内部にいる鼠であるという。常信が解らない。敦子も疑。敦子に向っていう。常信は脳波測定の結果など予測できた。だからこそ測定を認めた。そうでしょう。....。敦子はやって見なければ解らないという。否。被験者がどのような状態であれ波になるだけ。座禅の状態ではまるで寢ているような状態になるだけ。先ほど常信は見えないものが見えるようになるといった。それが波に出るはずがない。それに心拍数、汗の状態を加えて測定したところで解るはずがない。言葉で伝えられないというものが脳波測定で解るはずがない。関口が口を挟む。常信は測定したって何も解らないから平気ということか。否。医学的には寢ていても座禅していても変りない。いわんや魔界と悟りの間に差はない。それを証明したかったと常信に確かめる。疑。では何故賛成したのか。.... 禅の思想を広く世間に解き放ちたかった。それはどんなことか京極堂がきく。憑き物おとしがはじまる。

宗教を世に広めの方法は二つある。ひとつは権勢に寄り添うこと。それで安定を得て栄える、しかし堕落する。これはいただけない。もうひとつの方法は民衆に広く浸透して支持を得る。多くの者に解り易く説くという努力が要る。これも難しいが、これが正しい方法だ。ならば昭和の世で興禅活動を行なうのに何が必要か。そのことばかり考えていた。そこに脳波調査の話しが来た。そもそも禅は座るだけのものでない。行住坐臥のすべてが禅だ。山に籠って座っているだけの禅など何の役にも立たない。それを世間に知らしめるためにこれしかない。京極堂が取り敢えず座禅の有効性を否定したかった。勿論座禅は悟りの玄関だ。しかしそれはひとつの入り口に過ぎない。何をしていても禅の修行はできる。否。それでは了稔と同じだ。だから了稔が嫌いだった。突き詰めて考えれば了稔と同じになってしまう。否。京極堂がそれを認めていう。戒律を捨て修行を捨てて悟れると思ってはいない。しかし一方で戒律を守り修行をつづけても悟れないかもしれないと思っていたはずだ。....。周りを見た。周りに師事できる人はいない。そこで禅の新しい展開、科学との共生に限りない魅力を感じた。関口が疑。森田療法の考え、元文部大臣、帝大の生理学研究室の医者の橋田邦彦の全機性医学という考えは科学が禅に近づいてきた動きだ。これは有効だ。しかし心理学はいけないという。

関口が森田療法がその立場だろうという。否定する。唯識論と深層心理学を対応させる試みを批判する。関口が解らないと思う。京極堂が禅は印度に生れ中国で育った、それは真実開花したのは日本だ。それは日本語が禅にむいていたからという。英訳された禅を批判する。もの珍らしい博物学の対象となっていると批判する。さらに薬物により生理学的には同一の状態を生みだすことができる。修行を捨て短絡的にそれに走る現象が生じるという。ついに科学は科学、宗教は宗教、別の物という。関わり方を間違えると国が滅びるという。常信が自分は間違っていたのかと自信を失なう。京極堂が宗教者として社会との関わりを真剣に考えていた。それは貴重なこと。しかしそれを科学に求めたのは短絡的では。敦子の雑誌に取りあげられ興味本位に騒がれるだけ。それも社会との関わりと割り切っていたのか。否。では社会との関わりは大義名分に過ぎない。常信の劣等感の反映に過ぎない。ただ座ることで足りている祐賢が妬ましかった。だがその嫉妬心は祐賢に向わなかった。それが僧としてのあり方への疑問となり真面目な常信を苦しめてきた。だからさっさと修行を放棄して悟った顔をしてる了稔に強く反発した。さらに常信に語りかける。

脳波測定に惹かれた直接的な理由は座禅の有効性を第三者の手で否定してほしかった。さらに祐賢の修行を解体したかったから。....。だから祐賢の反応を怖れた。常信は尊敬する常信、否、道元を心のどこかで汚していた。脳波測定の日が近づくにつれ動揺が増した。だから連夜夜座を行なった。然り。しかし祐賢は普段と同じだった。然り。もしかすると自分の修行が無意味となるかもしれないのに同じだった。京極堂がそれが祐賢の無言の圧力だ。そこに相次いで凶事が発生した。常信の中の罪悪感が裏返って自分を次の被害者に仕立てあげた。それが常信の中にいる鼠だと指摘する。ここで頼豪阿闍梨の鉄鼠の話しとなる。山門派と寺門派の対立、両者が持つ罪悪感、そこから生まれる鉄鼠の伝説と話しが展開する。常信があらためて京極堂の指摘の正しさを認める。私は何かにとらわれていた。話しが変わる。

京極堂がきく。明慧寺が文化財に指定されると思っていたのか。然り。観光寺となれば状況が変わる。あるいはそういう卑俗なことで何かを変えようとした。調査があれば可能性があるか。然り、私見だが江戸時代より古い。常信は益田に祐賢を疑ったことを訂正する。益田がいうのは適切でないが常信が警察で疑われているという。さらにきく。本当に夜座していたのか。然り。托雄といっしょか。否。あさましい思いに駆られて行なう夜座に他宗の者をともないたくない。他宗か。貫首の弟子だ。京極堂が疑。託雄は貫首の縁で五年前に入山、それから二年目は貫首について修行、三年目から前の典座の行者となった。それは誰かと益田。常信がこれまで隠していたと断わっていう。典座は博行、昭和十六年春に入山、前職は不知。当時六十歳。泰全のもとで立派に修行、わずか三、四年で典座となった。しかしある事件をきっかけに己を失い、煩悩の地獄に堕ちた。今は土牢にいる。関口が適切な医療を受けるよう警告する。益田がその事件とはときく。不答。今の事件との関わりがはっかりするまではいいたくない。ではその人の存在だけは山下に伝える。了。益田が托雄の証言は本当なら事件は五里霧中だと溜め息。常信が不審な顔をする。

常信が夜座している間に了稔が常信の方丈、覚証殿から出てきたのを目撃と益田。不知。托雄の証言である。その時、経本を忘れたといった。不知。常信が首をひねる。昨日、土牢に常信が朝食を持っていった。その時、托雄らしき人物がそこから出てきた。敦子に問いかける。その時の五時半、食堂にいた。託雄がいたかどうか不知。関口、益田も不知。常信がやや不審。話しが変る。常信はいったん寺に戻り下山するという。一同が常信のいる座敷を離れる。控えに鳥口、飯窪。益田を残して一同が大広間に向う。京極堂が疲れたという。鳥口が犯人はだれかという。解らない。これからどうするかときく。関口は離脱、敦子は中止、鳥口は遂行、飯窪は口籠る。どたどたとした足音が響いた。

阿部巡査が益田にいう。笹原老人のところに不審な僧が来たので保護した。松宮某と名乗ったという。飯窪が松宮かとききなおす。京極堂が湯本の駐在所にいると確認し向う。飯窪、関口がつづく。

7

第五日目、明慧寺である。これは後からきいた話しを関口がまとめた。榎木津、今川、久遠寺が惣門で警官に止められた。昨年十二月、逗子の金色髑髏事件で榎木津を知っている警官だった。知り合いということで寺に入った。三門に来た。そこで慈行が誰何した。榎木津と睨み合いとなった。そこに鈴が登場した。何しに来たか。帰れといった。慈行が人を呼んだ。仁秀をここへ呼べと指示した。菅原が様子を見にきた。さんにんを見て、捜査妨害で捕縄をうつよういう。そこに仁秀が引きだされた。慈行が鈴を境内に入れるなという言い付けを守らなかったと警策で打つよう命じた。土下座して謝る仁秀が容赦なく打ち据えられる。見兼ねた久遠寺が止める。菅原も警告する。慈行はそもそも博行があのようになったのも、鈴のせいだといい、やっと仁秀を許す。菅原がその菅野の事情をきかせるようにいうが、事件に無関係といっていわない。久遠寺が菅野といきいて名前、年齢を確認する。さらに入山時期をきく。久遠寺が博行に会わせてほしいという。向う。慈行は三門に消える。禅堂の横の建物の真裏、山の斜面の前に雪の塊がある。防空壕のような穴があった。そこに付設された鉄格子の扉が開いていた。菅原が一同を案内する。十畳ほどの広さの岩屋である。正面に大きな穴。次の部屋である。鉄格子で仕切ってある。手前に山下がいた。檻の中に人のようなものが座っていた。蝋燭一本の明りである。久遠寺が菅野かと話しかける。答えない。榎木津が懐中電灯で照しだす。久遠寺が昂奮して名前を呼ぶ。何度も呼ぶ。ついに院長と答えがあった。確認が終ったと菅原が久遠寺を外に連れだそうとするが抵抗する。無理に知客寮に移す。

山下がきく。博行は何をしていたか。医者。昭和十六年春に失踪。久遠寺が昭和のはじめ頃、仙石楼を毎年宿泊。博行も同行。そこで僧侶の一団と遭遇。失踪後、博行が担当していた小児科を閉鎖。患者も少なくなっていた。博行が悪い性癖を持っていた。久遠寺は博行が入山した気持を理解しようとする。昨夜の事件の話しとなる。あるきっかけから正気を失なった。その事情を教えないと菅原。博行犯行説が議論される。結論が出ない。久遠寺が正気を失なった時期をきく。去年の夏。捜査妨害による逮捕はうやむやとなる。立ち去ろとする山下に久遠寺がもういちど博行に会見したいと許可を求める。渋る山下と論争となる。許可をもうすこし待てといって去る。久遠寺が榎木津にきく。どう見たか。鈴はお化け、慈行は何も中身がない。犯人はいないという。博行の話しに戻る。英生がやって来た。

英生がお茶を運んで来た。榎木津がきく。痴話喧嘩か。不答。ぶたれたな。痛いか。久遠寺が気にする。榎木津がいう。右腕の痣と口の端の切れているのは何故か。行鉢中の粗相による罰策。罰策とは何。久遠寺が先ほど仁秀が受けた罰のことというが、榎木津は見ていなかった。久遠寺が調べる。これは酷いので休め。否。作務がある。憤慨した久遠寺が師匠は誰かと問う。不答。榎木津も注意する。さらにここを出ろ。英生が榎木津に見惚れる。榎木津がわかった。それで出たくないのか。ならもういい。英生が動けない。祐賢が入ってきて声をかける。久遠寺が向き合った。抗議する。祐賢はぶったことを認めない。榎木津も抗議し横面を殴った。祐賢はそのまま黙って出ていった。榎木津が外出した。考えていた久遠寺が今川に外出しようと誘う。仁秀のところに行くという。鈴の話しとなる。久遠寺が鈴は鈴子の子どもではないかという。

仁秀のところに托雄がいた。久遠寺が托雄の存在に不審を抱いてきくと、典座の行者をしているので食事を運んできたという。仁秀が出てきて挨拶する。久遠寺がきく。年齢は。不知。いつからこの山にいるか。生まれた時から。捨て子か。....。哲童はいつから。関東大震災から。捨て子だった。鈴は何時から。十三年前。捨て子か。然り。今川が鈴の唄のことをきく。いつの間にか覚えていた。仁秀が歌うのをきき覚えたようだ。仁秀が鈴は助けられた時ずいぶん衰弱していた。元気が回復したが、山に迷って倒れた。発見して連て帰ったが床に伏した。たしか一昨年回復して出歩くことができるようになった。久遠寺が哲童のことをきく。鈴を連てきた時、寺に預ってもらった。あの通り経のひとつも覚えないがいずれは禅匠になることを期待している。久遠寺がやっと博行が何をしたのかときく。仁秀はただ謝るばかりである。久遠寺が再度きくと、鈴が博行の修行を台無しにしたという。鈴が振袖姿で寺に入った。博行が断ち難い煩悩に狂ったという。久遠寺がすべてを察した。さらに鈴のためできるだけのことをすると約束して出た。今川に話す。博行は幼児以外性的対象となり得ないという病気だったとい。もういちど博行に会うといって土牢に向った。扉の前に警官が立っていた。しばらく様子を見ていると、禅堂の前辺りで大声がきこえた。榎木津が警官と悶着を起こしている。警備の警官もそちらの方に向った。久遠寺、今川が土牢に入った。

博行に呼びかける。不答。繰り返す。重い口を開く。久遠寺に謝るべきことがあるだろうという。不答。久遠寺が博行が原因を作った悲惨な事件を語る。博行を非難するが自分の落ち度も認める。すべてから逃げた仙石楼の今を語る。博行にきく。何から逃げたか。博行が幼女を対象とした破廉恥行為を働いた。罪悪感に耐えかねた。罪悪感の根本を考えた。人間の性行為は延髄が許容する範囲で認められる。その範囲を越えると脳の埒外となる。そうすると畏怖という感情が生じる。それを久遠寺の娘との行為により知った。当時、重度の薬物依存症だった。だから逃げた。最初はあてもなく。気がつくと仙石楼にいた。明慧寺を思い出した。ここで薬物依存症から解放され、重度の神経症から来る自律神経系の失調障碍も治った。内観秘法、軟酥の法を教えられた。すっかり治癒し、すこしましな気分になった。それは魔境だと指摘された。それで出家した。それは脳の埒外の結論だった。修業し十年たった。そこで会ってしまったという。

哲童が博行の方丈、内律殿に来た。公案の答えをききに来た。十日考えた。その朝、鈴が方丈の前に立っていた。また破廉恥な行為に及んだ。我に帰った時、托雄にこの土牢に閉じこめられていた。絶望した。また魔境が見えた。榎木津が懐中電灯を振り回しながら博行に近づいた。久遠寺にいった。博行が薬物をまたはじめた。博行が卑怯者だ。医者を捨て破廉恥行為に及び、僧の修行を捨て破廉恥行為に及んだ。何がそんなに気に入らないのか。その気になるれば幼女強姦魔でも立派に医者や僧になれるという。さらに十日かかった公案の答えをいえと迫まった。口籠もる博行にそれは僕だといった。そして薬は止めろ。死ぬといった。博行が大悟したといった。

一行は外に出た。久遠寺が博行が薬をやっているのは本当かと榎木津にきく。乾燥した麻の臭いがする。誰かが博行に渡している。ここには犯人がいないので帰るという。榎木津が三門に差しかかった。今川が捜査本部のある知客寮をふり返えった。仁秀が立っていた。久遠寺も見て、仁秀のところに走っていった。下山の挨拶をする。博行に会ってきたことを話す。大悟したといっているからもう心配するなという。菅原がやって来た。今川が泰全に会った時刻の証言と死亡推定時刻が矛盾することをを指摘し捜査本部のある知客寮に連てゆく。

(つづく、あと一回で完結する)


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