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謎解き京極、鉄鼠の檻 [京極夏彦]

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この京極作品を未読の皆さんへ

不用意にのぞくことをすすめない。 (この連作の趣旨、体裁は「謎解き京極、姑獲鳥の夏」で説明した)

あらすじ

前文 按摩、尾島が奇怪な僧にあった。修証一等というが、未だ至らぬ。しょせん漸修では悟入するのは困難である、といった。

1

第一日目、昭和28年、箱根である。小説家関口が後できいた。朝、仙石楼という旅館で古物商、今川が二階の部屋から外の雪景色をみてた。階下の大広間にいった。老人が中庭をみてた。老人は豊島で開業医をしてた久遠寺だった。今川は待古庵という古物商を青山でいとなんでる。朝食。今川は中庭の背後の山の中に市松人形のような人影をみた。この上にある明慧寺の寺男の娘か孫だといった。中庭に柏の大木がある。宿泊客は二人のほかに女性のみ。明慧寺の取材にゆく出版社の人間だ。明慧寺は禅宗。今川の寺の僧と待ち合わせの予定だった。先代あてに取引の手紙がきた。過去の実績をみると高くさばけてた。差出人は小坂了念だった。待ち人はこなかった。帳場が騒がしい。鼠が大発生したという。

第二日目の午後、カストリ雑誌の出版社、鳥口守彦と稀譚社の中禅寺敦子が仙石楼にむかってた。箱根の大平台の駅からきた。下山の黒衣の僧にあった。旅館には稀譚社の飯窪季世恵が先乗りでいるはず。

飯窪は旧館の離れにいた。大広間に二人の男がいた。敦子が久遠寺とあいさつした。新館の二階にむかった。敦子は飯窪の部屋に、鳥口はカメラをもって大広間にいった。敦子も後から合流。飯窪は今夜から同室となる。お寺の取材の話しである。

帝大の教授が脳科学の立場から修行中の僧の脳波を研究する計画をたてた。稀譚社がそれに協力することとなった。飯窪の努力の結果、明慧寺がきまった。交渉の相手は知客(しか)の和田慈行だった。今川が同行することとなった。敦子が飯窪のところにいった。守口は中庭の雪の中に僧らしき人物が坐っているのに気がついた。女性の声がひびいた。

2

第一日目の前、中野である。小説家の関口宅に古書店主、京極堂がやってきた。箱根行きをさそった。事情はこうだ。奧湯本の土地にホテル建設がはじまった。山の斜面に土砂にうまった蔵が発見された。古い書籍が収蔵されてた。横浜、古書店、倫敦堂をつうじ京極堂に話しがきた。長期の宿泊が必要となった。そこに妻が同行するので関口夫妻をさそうこととなった。

第一日目の一日前、箱根湯本駅である。倫敦堂の主人が四人をむかえた。富士見屋という旅館についた。夫人二人をのこして、三人が現場にむかった。途中、この件の依頼主、笹原宋五郎所有の別荘をすぎた。笹原の父、武市がすむ。現場についた。京極堂が中にはいった。しばらくしてでてきた京極堂がここには潙山警策など禅籍経典が山とある。これは寺院の書庫だったろうといった。

潙山警策を解説してる潙山警策講義という本をしめし、明示39年発行だ。47年前までつかわれてたといった。京極堂はとどまった。関口は宿にもどった。夕方5時。夕食時の話しである。関東大震災でこのあたりも大被害にあった。そこを笹原がかった。山の中に十何年成長しない少女がいるといった。

第一日目、降雪、関口は何もしなかった。黒衣の僧がとおりすぎるのをみた。たのんだ按摩がやってきた。怖い話しをした。三日前、何かにぶつかった。すると拙僧がころしたと声がした。自分は鼠ともいった。一目散ににげた。夜11時京極堂がもどってきた。京極堂に成長しない少女のことをきいた。京極堂が蘊蓄をのべた。関口が鼠の坊さんについてきいた。死後鼠となって祟った頼豪のことかといった。按摩の話しをすると怪訝な顔をした。

第二日目、雪はやんだ。妻たちは観光で外出した。遅い昼食をすませたところに、突然鳥口がやってきた。殺人事件がおきた。榎木津がよばれた。混乱をさけるため京極堂をよびにきた。関口が同行することにした。

3

第二日目、箱根である。関口が後できいた。仙石楼で国家警察神奈川県本部、山下警部補がいらついてた。鑑識によれば死体は死亡後に凍結、死因は後頭部の打撃。飯窪の証言では、お坊さんが空中にうかんでた。昨夜、便所にむかう途中、二階の廊下の窓からみたといった。関口と鳥口がついた。

敦子が関口には取材協力を依頼したと、とりつくろった。関口の部屋に、敦子、久遠寺、今川がきた。榎木津は軍隊時代、今川の上官だった。明慧寺から慈行がやってきた。被害者は小坂了念とわかった。山下が今川を聴取した。慈行がはいってきて、明日午後二時から取材を実施することを確認して、辞去した。

第三日目の朝、搬出される死体を見送った。榎木津が到着した。久遠寺から不可解な僧の出現を解明してほしいと依頼された。飯窪をつれて二階にいった。窓に鳥口が張りついてた。僧は上にいかざるを得なかったと解説。前庭にいった。鳥口が二階屋の屋根の上にいた。勾配をおり平屋の屋根にいった。榎木津は平屋の屋根にうつるため前庭にあるゴミ箱にのぼり、塀、その上の庇とうつって、さっきの窓に張りついてという。屋根の上の鳥口に柏の枝につかまれといった。飯窪が最初にとまってた部屋にいった。そこから踊り場にでた。鳥口が浮いてるところを目撃した。大広間にいった。窓をあけ縁側にでた。鳥口がどさっという音ともに庭におちた。榎木津は仕事がおわったと宣言した。議論がかわされた。背負子に死体をのせ、他の僧形をした人物がかついで、柏の葉の上においたという結論がでた。午前9時だった

久遠寺が榎木津に犯人の発見を依頼した。了解した。昼食後、敦子、飯窪、鳥口、関口、今川の一行に国家警察から益田、所轄から菅原が同行して寺にむかった。

第三日、明慧寺である。一行は慈行にあった。閉門時間が4時だった。飯窪が宿泊を懇願した。困惑する慈行のところに中島佑賢がはいってきた。二人の論争のあと佑賢が許可した。若い僧、英生が離れた方丈、内律殿に案内した。ここは昨年夏まで知事職の僧がつかってたといった。ここまでに、知事(ちじ)、監院(かんいん)、維那(いの)、典座(てんぞ)、直歳(しっすい)の各職の説明をうけた。参詣客、檀家はない。日本のどの禅宗宗派にもつながってない。典座の桑田常信がやってきた。益田、菅原が聴取した。

慈行が総務人事担当、祐賢が風紀教育担当、常信が賄い担当、了稔が建設担当である。これらは寺の幹部。幹部五名の上に貫首の覚丹禅師がいる。雲水は三十人、合計三十六人となるという。夕食後、取材に英生が同行、常信のお付き、託雄が刑事に同行とすることとなった。敦子が箱根にこのような無名の寺があることは不可解といった。9時に内律殿にもどることとし、関口、今川はのこり、他はそれぞれ出むいた。声に驚いて外にでた。振袖姿の娘がみえた。

4

第三日目、仙石楼である。後から関口がきいた。現場検証がおこなわれた。犯行の真相は午前の結論とかわらなかった。菅原が夜11時40分にもどってきた。了念は月一度下山。戦後の若い僧は了念がつれてきた。了念の足取りである。

五日前、朝5時、朝課では目撃。了稔の方丈は雪窓殿。朝食を持っていったときにはいなかった。五時半。ところが夜九時頃、常信の方丈である覚証殿からでてくるところを托雄に目撃されている。常信は夜の座禅をしていたという。入山時期、役割である。

貫首は円覚丹禅師、昭和3年入山、68歳 監院は和田慈行、昭和13入山、28歳 維那、中島祐賢、昭和10入山、56歳 典座、桑田常信、昭和10年入山、48歳 老師、大西泰全、大正15年入山、88歳

戦前に入山が14人、戦後は15人、それに杉山哲童、29歳、誕生時から寺にいた。大男で少し知能が遅れている。寺の近くで、老人と女の子とともに住んでいるといった。

第四日目、山下と菅原が明慧寺にむかった。榎木津もむかった。途中で成長しない少女が出現した。雪まみれの益田が殺人事件の発生をつげた。

第四日目の明慧寺である。敦子が正午までの取材をおえ原稿にむかってた。昼食後、関口、鳥口、益田は休息、今川は早朝取材には参加しなかった。昨晩の回想である。事情聴取後、菅原は下山。残りの一同が理致殿の泰全に面会。了念の殺害をきき、庭前柏樹といった。仙石楼の庭は自分の師匠が造った。京都臨済古刹の住職だった。明慧寺にくる予定だった。その直前に死亡し、泰全が代りにきた。寺は師匠が発見した。ずいぶん調べたが由緒がわからなかった。仙石楼の話しである。

現代の主人は五代目、初代は江戸時代。明治28年、師匠がよばれて庭を増築した。石をさがして山にはいった時に明慧寺を発見。明治時代は廃仏毀釈で各寺の本末関係が重要となった。明慧寺の宗派があきらかになると重大な影響があるかもしれない。師匠の執心の理由らしい。観光開発である企業が土地を購入、各宗派の上層部が秘密裏に明慧寺の保存を要望。関東大震災がおきた。土地の持ち主がかわった。その時、師匠がここにはいることとなったが、死亡、泰全がはいった。その経営である。

各宗派からの補助金と托鉢。僧も各宗派から。佑賢と常信は曹洞宗、泰全と慈行は臨済宗。調査が目的だったが、いつしかわすれられ、ここからでられなくなった。今回の調査に期待するところがある。益田が、了稔、常信が賛成、常信が祐賢を説得、覚丹がこれを許すという態度だったという。泰全が飯窪にどこの寺からここを紹介されたか、たずねた。了念がこの寺にたどりつくよう、画策したことを示唆した。了念は鎌倉の立派な寺から、うとまれてここにきた。

益田が人柄が捻くれてたか、ときいた。ここから禅宗の修行について壮大な話しがはじまった。了念の話しにもどる。大平台に部屋をかりてた。そこに郵便物がとどく。寺にはとどかない。先代と了念の取引の話しとなる。犯行の動機は依然わからない。了念は箱根の環境保全の団体の活動に関係してた。失踪の前日に泰全をたずね豁然大悟したといった。敦子が大平台から仙石楼にむかう時にあった黒衣の僧が明慧寺をたずねてないかきいた。鎌倉から僧がきたらしい。知客にきけという。飯窪に反応があった。関口が自分があった黒衣の僧を思いだした。成長しない少女の話しがでた。

鈴といった。寺の奧に仁秀という老人がいる。そこにいる少女である。老人は寺が発見される以前からいたらしい。仁秀は寺男の哲童、鈴とともにすんでいる。蝋燭の明かりがきえた。よばれて哲童がやってきた。シケツとは何かときいた。会見はおわった。今川がのこり泰全に話しをきくこととした。午前1時すぎ、内律殿にもどった。今川ももどってきた。早朝の取材があった。話しは第四日目、明慧寺の冒頭にもどる。

敦子、益田、鳥口が泰全のところにいこうとする。飯窪、今川は外出中だった。騒がしい。便所にゆくと泰全が雪隠の中から脚を二本だして死んでた。

参考 全体の日程表
日目 仙石楼 明慧寺 その他
某日     中野-埋没書籍の調査のため
京極堂が関口を箱根に誘う
某日     按摩が奇怪な僧に遭遇
前日     湯本-富士見屋に関口京極堂到着
書籍調査
1 今川の待ち人未着   富士見屋-関口が僧目撃
2 僧目撃、敦子到着、了念死体発見    
3 榎木津が到着、謎解明 敦子他が到着
夜泰全に取材
 
4 敦子、関口、常信到着 泰全発見
博行発見
 
5 京極堂、常信と会談 榎木津他、到着
久遠寺、博行と再会
博行殺害
佑賢殺害
湯本-京極堂、仁如と会談
6 石井到着
京極堂、明慧寺へ
京極堂憑き物おとし  


おことわり

京極作品を未読の皆さん、どうかここを不用意にのぞいて将来の読書の喜びを損なわないよう、よろしくお願いする。

文庫版 鉄鼠の檻 (講談社文庫)

文庫版 鉄鼠の檻 (講談社文庫)

  • 作者: 京極 夏彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2001/09/06
  • メディア: 文庫


tesso4.gif再度の警告。本文にはいわば「ネタバレ」が溢れている。未読の方には勧められない。では本文である。



謎解き京極、鉄鼠の檻

前文............ 1 の項目の前に置かれている。

拙僧が殺した。張りのある声である。按摩の尾島佑平はゆっくりと声の方に向きなおる。足下に転がっている死骸のことだった。尾島が飛び退く。僧が尾島の目が悪いことに気がつく。尾島が不可解な言葉にとまどう。拙僧が殺したのは人でない。そう牛だ。その者が牛なら、拙僧は鼠だ。おののく尾島に錫杖を鳴らして近すく。尾島は思わず降り積もった雪の上に土下座した。「修証一等というが、未だ至らぬ」「しょせん漸修では悟入するのは困難である」といって側に落ちていた尾島の杖を持たせた。尾島は何度も雪の上を転びながら逃げた。

1

第一日目、昭和二十八年二月、箱根である。小説家の関口が後できいてまとめたものである。朝、仙石楼という旅館で古物商今川雅澄は起きたばかりである。二階の窓から冬景色を眺めている。何もすることがない。人を待って五日目になる。力強い筆運びで大きな丸がひとつ書いてある禅画のような床の間の掛物を見る。つづいて掛け軸を見る。また床の間の壷や目の前の座卓を見る。廊下に出る。窓から前庭が望める。それは風雅な中庭とはだいぶ違う。旅館の到着時に通過したが大きなゴミ箱しか記憶にない。中庭は階下の大広間に面している。廊下を振りかえるとその突き当たりに高価そうな壷がある。どれもこれも自信を持って値踏みができない。まだ駆け出しの古物商である。この旅館の中にあるものはすべてかなり高価な骨董品だと踏んでいる。建物自体が骨董じみている。階段を降り廊下を抜け大広間に至る。

昨日と同じように老人がひとり座ってぼんやりと中庭を眺めている。挨拶を交す。老人が今川に、湯治の客でないようだが、何の用で来ているのかときく。商売で来ているが、約束の相手が来ない。坊さんだという。今川は自己紹介をした。老人は久遠寺嘉親と名乗る。豊島で開業医をしていたが、さる事件で家族を失ない医業をつづけられなくなって東京を出た。かって常連であった縁でここに落ち着いた。居候のようなものという。今川は古物商になって日が浅いという。今川家は今川義元につながるという蒔絵師を家業とする旧家である。その次男である。今川の分家で東京の青山に古物商を開いていた男がいた。先年亡くなった。昭和二十七年、その後を継いだ。待古庵という。次男の複雑な心境を率直に告白したので、久遠寺が賛嘆した。ふたりとも笑った。そこに馴染となった仲居が入ってきた。ここで朝食をとることとした。雪はもう止んでいた。久遠寺がいう。ここの主人は胃潰瘍をこじらせて正月に入院した。女将は病院通いに忙しいという。久遠寺が中庭を眺める。今川も眺める。池の脇、建物寄りに柏の大木が立っている。今川はそれが活力をもたらしていると思った。実に大きいというと、久遠寺がその慧眼を褒め、この柏はこの建物より古い。これに合わせて造園したという。久遠寺が医者の自分にはこの庭のどこがよいのかわからないという。今川がそれでよいという。ざざという音がして樹上の雪が落下した。今川が中庭の背後の山の中に市松人形のような女の姿を発見した。

驚いた今川に久遠寺が声をかけた。この辺に住んでいる娘だという。すこし知能が遅れているらしい。この上に明慧寺という寺がある。そこの寺男の娘とか孫とかいう。久遠寺があの娘はあそこで柏を見ていたようだという。今川は大広間からは柏の大木の全体はおろか枝振りさえ見えない。この柏は二階の屋根よりも高く枝を張っていると思った。久遠寺が今川が待っているという坊さんは明慧寺の坊さんかときく。そのとおり。今日一日待って来なければこちから行こうかという。冬場は無理だ。雪が深すぎるという。今川が今日も来ないと思った。朝食が運ばれてきた。今川が忙しいのかというと、そうでもない。このふたりに女性客がひとりだけだという。この女性客は朝から気分が悪い。部屋を変えてくれというので、こちらに移ってもらったという。久遠寺が女性ひとりは心配だというと、元々は三人の予定だったが急な変更で先着したという。この時期の観光は珍らしいというと、出版社の人間で明慧寺への取材の目的だという。今川は相手の情報を持っていないのに気づいて、明慧寺のことをきく。ここと直接の関係はないが、戦前は寺に参詣する人、関係の僧侶が訪問に際して泊まったという。久遠寺があそこは禅宗だという。待合せの話しとなる。

先代の時に取り引きがあったらしい。手紙が先方から来たので返事を出したら折り返しの中で仙石楼が指定されていたという。今川が先代もここに宿泊したと思うがどうかと仲居にきく。記憶にないが昔の宿帳を調べてみると出てゆく。今川が回想する。最初の書簡には、この度手ばなしたいと思っている品は、今までの品と違い、世に出ることのあり得ないほどの神品であるとあった。断わるつもりであったが、過去の帳簿を調べて考えが変わった。その僧から仕入れた品物はどれも高額で捌けていた。仕入れ額の数倍、中には数十倍の値がついた品もあった。今川が僧のいう神品というものを見たくなった。久遠寺が僧の名前をきく。小坂了稔という。あそこには三、四十人もいる。昔、高僧がたずねてきた。ずいぶん格の高い寺らしいという。意外の感にうたれている今川の耳に帳場の騒ぎがきこえてきた。仲居と番頭がやって来た。鼠が大量発生したらしい。調理場の魚がなくなった。骨董価値のある宿帳がぼろぼろにかじられたという。食事が終った。久遠寺と今川が囲碁をやった。久遠寺が勝ったが、ただ囲むことを目ざすだけの単純な今川の碁を褒めた。自分の知識ばかりが先行する碁を反省し、人生においても碁のような生き方をして、失敗したという。そこで雪が落る音が響いた。今川が庭の柏が堂々としていると思った。

第二日目の午後である。空気が澄んで身が引き締まるほど寒い。男女が雪の道を進む。男は鳥口守彦、カストリ雑誌の生き残りの出版社の編集員である。今回は頼まれてカメラマンとしてやって来た。女は中禅寺敦子、奇譚月報の編集員である。敦子の兄は中野で古書店を営み、家業が武蔵清明社の神主、副業は憑き物おとしという男である。箱根の大平台の駅を降りて、仙石楼に向っている。敦子は仙石楼は江戸時代後期にできたが、箱根の宿場から離れ、箱根七湯から外れていて知ってる人はすくないという。明日行く寺はずいぶん変った寺だという。鳥口がすこし驚く。そこにしゃんという錫杖の音が響いた。黒衣の僧が山を下ってきた。すれ違う際に僧は一礼した。敦子は明慧寺の方かときいた。旅の修行僧であるという。また一礼して立ち去った。思わず見惚れた敦子に鳥口が軽口をたたく。先乗りの書籍部の人の話しとなる。飯窪季世恵という。昨日のうちに着いているはずという。何故、昨日のような雪が降っている時に出発したのかと鳥口がきく。実家が箱根の仙石原で、そこから宿に向ったという。木々の間に仙石楼が見えた。

旅館はやや小高くなったところにある。古い料亭のような雰囲気である。手前に平屋の建物、後方に二階建の建物がある。屋根越しに見えている巨木は二階建よりさらに高い。古色蒼然としたたたずまいに鳥口が京極堂が喜こびそうだ。たしか今頃、京極堂も箱根の別の場所で仕事をしているはずという。玄関で仲居が迎える。飯窪についてきくと、伏せているという。部屋に案内される。飯窪はこの旧館の離れにいるという。敦子はそこに寄らず部屋に行くという。廊下の途中に大広間がある。鳥口が中をのぞくと、ふたりの男が窓際で囲碁を囲んでいるようだ。仲居が中の久遠寺に声をかけた。敦子が久遠寺に気がついた。久しぶりの邂逅に喜ぶ。久遠寺はここに来た顛末を話す。まだ話し足りないようだったが、とりあえずふたりは部屋に向う。何度か曲り、連絡通路を通り二階建ての新館となる。明治二十一年に増築したものという。直線の廊下に引き戸が八つ並び、鳥口は左から三番目、敦子はその左だった。敦子は部屋に入りすぐ出てきた。飯窪の様子を見てくるといって階下に向った。大広間で会うこととした。鳥口が部屋が牽牛の間と名づけられているのに気がついた。床の間に掛け軸があった。丸い輪の中に描かれている。右端に妙な服装の人間が立っている。川を挟んで左端に牛らしい顔があった。よくわからない絵である。カメラを持って大広間に行く。

ふたりが対局している。恐る恐る近づいて挨拶をして写真を撮ることの許可を求めた。綺麗な女性がいるわけでない。何故撮りたいのかとけげんな顔をする久遠寺に、今川が茫洋とした口振りで、この方はここにいい絵があると思ったのでしょうという。やっと許されてシャッターを押す。設定を変えて三枚撮った。久遠寺がそれで終りかと不満を漏らす。そこに敦子がやって来る。飯窪は風邪ではないが何かに怯えているようだ。今晩から敦子と同室にしてもらったという。大広間の中央に座卓が用意された。そこを四人が囲んだ。久遠寺が近況を述べる。昨年の事件後、病院を処分して、年末に仙石楼に来た。今、ここで長期滞在をしているという。出されたお茶を飲み、御茶請けの饅頭を食べ終った頃、座が和んだ。久遠寺がお寺の取材についてきく。

帝大の精神医学教室の教授が、宗教に脳科学の立場から解析を加え新たな知見を得よという研究を計画した。修行中の僧の脳波を測定し、常人のものと比較する。まず座禅からはじめようというので、禅宗のお寺に当たってみたが不調に終った。そこに当社の文芸部が興味を持って、協力を申しでた。その内容は寺院との交渉、手配、機材の運搬などの協力をするかわりに、成果としての論文を当社から刊行、研究の過程は奇譚月報に掲載するというもの。飯窪が中心となり交渉に当たったが難航していた。久遠寺が修行の効果が証明されればいいことなのに嫌がるのかという。敦子は証明されない可能性もある。さらにそれは測定できなにものかもしれないという。今川が修行は悟りを得るもの。悟りは喜怒哀楽という測定できるものとは違う。医学的な脳の状態とは無関係なものではないかという。久遠寺がすべては脳に反映するのではないかという。敦子が現在の技術では測定できないものかもしれないという。さらに結果によっては修行によらなくとも悟りは別の方法で得られるということになるかもしれないという。久遠寺がなるほどという。敦子がつづける。

大規模な機材を持ちこんで修行僧に電極をつける。負担が大きく、修行に必要な行為ではない。売名目当てだったり、お布施を要求して協力する寺はあるが、由緒正しい禅寺はなかなか見つからなかった。飯窪の苦労の末にこの寺が浮かびあがった。久遠寺はなるほど妥当な選定だと自ら納得する。ところが、敦子がこの明慧寺は兄の京極堂も知らない寺だという。規模、歴史を想定するとまったく不可解だと、鳥口が考えこむ。どさりと雪が落る音がする。話しがつづく。手紙で照会したら了解の回答が来た。来月に電源、機材搬入を予定している。予告を兼ねて雑誌に掲載するため先行取材することとなった。取材は女性だと知らせてある。女性の立入が拒否された場合、こちらで取材して、鳥口が単独で撮影を行なうという。鳥口が急に怖れをなす。一騒ぎの後、久遠寺が今川が明慧寺に用がある。敦子の相手先は誰かときく。知客の和田慈行という。小坂了稔ではないのにすこし落胆するが今川が同行を頼み了承される。

敦子が飯窪のところに行くと立ちあがる。鳥口がそれについて行こうとして、中庭を眺める。黒い塊がある。雪の上に人が座っていた。一同唖然とする。久遠寺が今川にあれが小坂了稔ではないかという。久遠寺がさらにこの僧は死んでいるという。番頭と仲居が登場する。さらに従業員がやって来る。久遠寺が身元を確かめたが知る者はいない。今川が中庭の周囲を指さしこの僧はどこから来たのかときく。周囲には侵入の形跡、足跡はない。不可解な状況に一同が困惑しているところに、「ああ」という声がきこえた。小柄な女性が崩れ落ちた。これが箱根山僧侶連続殺人事件の発端であった。

記事............郷土史家の笹原櫻山人が山に出現する山怪として不思議な童歌を歌う女の童のことを記す。

2

第一日目の前、中野である。正月気分の抜けない関口のところに京極堂が訪れる。突然箱根に行かないかと誘う。何か魂胆がありそうと事情をきく関口に、奥湯本の土地にホテル建設を計画し、着工した。ところ、山の斜面に半分以上土砂で埋まった蔵が発見された。その土地は元々人の住むところではなかったのでまったく予想外のことだった。開けてみると、古い書籍がぎっしりと入っていた。地元の古本屋に調査させると、とても手に負えない。横浜の著名な古本屋の倫敦堂に話しが行き、さらに京極堂のところに話しが来たという。調査は一週間以上かかる。そこで宿に滞在する必要がある。関口が何故自分を誘うのか不審がる。京極堂が妻を誘ったが宿にひとりぼっちとなるのを嫌い断られた。そこで関口夫人の同行が必要となったという事情がわかる。関口が同行するれば自分がひとりぼっちとなると躊躇するが結局行くこととした。

第一日目の一日前、箱根、湯本駅でである。倫敦堂の山内銃児が四人を迎える。宿まで歩いて三十分、現場まで一時間三十分という。宿は古びた木造二階建だった。富士見屋という。二階の十畳、二間つづきの部屋だった。ふたりの夫人は宿でのんびりするというが京極堂は現場に向う。関口も同行する。途中で崩壊しそうな別荘が見えてくる。依頼人笹原宋五郎の所有であり、その父武市が住んでいる。武市が出てきて、さんにんに挨拶をする。進む。もう道がない。笹を掻き分けて登る。木々の合間の斜面が不自然に盛りあがっている。廻りこむと壁が見えた。その先に建築現場の足場が組んであった。そこを廻りこむと入り口があった。京極堂が山側の斜面を見て、樹木が倒れた跡がない。どうも変んだという。建物は歪んでいた。山内は扉を開けるのは危険だといって、その隣りに孔を穿ったという。明日屋根を取り除いて天幕を張るという。京極堂が今まで崩れなかったから大丈夫といって中に入る。なかなか出てこないので山内が心配する。名前を呼ぶ。やっと京極堂が顔を出した。ずいぶん珍らしものがあるようだ。場合によればえらいことになるという。これは僞山警策(三水+爲)の写本だと見せる。この中は禅籍経典の山だという。これは寺院の書庫だったのではないかという。京極堂が話す。

この辺には対応する寺はない。湯本の名刹、早雲寺、仇討ちで有名な曽我兄弟の曽我堂がある正眼寺などがあるがここまでは往復に二、三時間、最近、知ったがこの山の反対側にもあるらしい。そこには登山鉄道の大平台から向う。ここからならいったん湯本に戻り塔ノ沢経由、大平台にゆく、片道で数時間だ。関口が書庫だけでない、寺本体も埋まってしまったと思いつきをいう。山内は面白い考えだが、かっえてそれで有名となり何らかの記録が残るという。京極堂が僞山警策講義という僞山警策を解説した本を示し、明治三十九年発行の本だという。これで少くとも四十七年前までは使われていた。謎は解明されない。京極堂が関口に宿に帰るよういう。自分はこのまま調査を続けるという。山内も呆れる。関口は宿に五時に着いた。

宿では妻たち二人はすっかり湯上がりの顔だった。風呂に入り夕食となった。ささやかな食事に宿の亭主も加わり酒宴となった。亭主が今回の調査の依頼主、土地の所有者、笹原の話しとなる。その家は昔、ここの蓑笠明神の側で荒物屋をしていた。大正期の観光開発が盛んになった時期に土地を売って儲けた。そこで関西に進出し、また戻って今の土地を購入した。関東大震災でこの辺も大被害を被った。そこを買ったという。山の中である。何もない。しかし不気味な少女が出るという。しかも唄を歌っている。十何年も同じ恰好をしている。成長しない少女であるという。妻たちの話しはつきない。しかし関口は食事がすむと、すぐに寢た。京極堂は帰らなかった。熟睡した。

第一日目である。午後に目が覚めた。帰らない京極堂の話しとなった。雪はまだ止まない。敦子の話しとなった。この辺の山奥の寺に来ているらしい。ぼんやりとして外を見た。降雪の中に黒衣の男が通り過ぎた。僧だった。一日何もしなかった。

退屈で、按摩を頼んだ。三十分ほどしてやって来た。四十くらいの男だった。近隣の話しとなる。笹原老人にも贔屓にしてもらっているという。関口が宿の亭主がいっていた成長しない少女のことをきく。見えないから怖くないという。しかしといって、鼠に化かされたという話しをする。三日前のこと、笹原老人のところからの帰りである。雪道をそろそろと降りていると人のようなものにぶつかった。蹲まっているようだった。いきなり声がした。拙僧が殺したという。驚いてきくと、自分は鼠という。死んでいるのは牛だ。訳がわからないまま近寄ってくるので、一目散に逃げたという。駐在に話して調べてもらったが何も出てこなかったという。十一時、うたた寝をしているところに京極堂が帰ってきた。風呂から戻ってきた京極堂に様子をきく。電気を引き、外に仮設のテントを立てて、蔵の中を調べた。あってはならないものがあるという。不可解な言葉に不満が残ったがそれ以上詮索しても無理と思って、関口は成長しない少女のことを説明した。それはどう思うのかときかれた。ここから科学と妖怪変化の関係、成長しない少女の怪異について京極堂の蘊蓄の説明がはじまる。

関口はわざと成長しない少女は妖怪変化、幽霊の類だというと、それでよいという。すこし反発してそんな説明を嫌っていたはずだという。ここから科学と心霊科学とか超能力とかいう似非科学との差、限界を持った今の科学を踏まえた考え方などが議論された。関口が今の科学で証明されていない現象が存在する。それは今のところはわからないといっておけばよい。そこに似非科学を持ちだすのがよくないことかときく。然り。それでは妖怪変化というのはよいのかときくと、これは今の科学で説明できないものを説明するために工夫されたものである。素直に利用すればよいという。成長しない妖怪の話しとなる。流罪先で菊の露を飲み不老不死となった菊慈童、人魚の肉を食って千年の寿命を手に入れた八百比丘尼も皆幼い姿で、成長しない子どもである。これらは大禿(おおかぶろ)と呼ばれる妖怪である。妖怪はたいてい歳をとらない。唄う妖怪の話しとなる。十九歳で殺された糸紡ぎの娘が、殺された近辺で舞いながら「去年も十九、今年も十九、ぶうんぶうん」と歌いつづける。この成長しない少女はこれらのバリエーションの一つだという。さほど特別なものではないという。

関口が鼠の坊さんはどうかときく。あっさりと頼豪のことかという。そんな妖怪が存在するのかと驚く関口に京極堂が無知を軽蔑するように鳥山石燕の百鬼夜行を見せる。鉄鼠と題したものである。須弥壇に経典が置かれている。その周囲に多数の鼠が走り回って経典を噛み破っている。中央に大鼠がいる。衣をまとい、四肢には密生した体毛、伸びた爪、尖った前歯、しかし僧らしい。頭頂部には毛がない。京極堂がこれが天台宗園城寺派の実相房阿闍梨頼豪だという。頼豪は平安末期の人、藤原宇合の末裔藤原有家の子。幼くして出家し、長等山園城寺の権僧正心誉の弟子となった。碩学と謳われ高徳で霊験あらたかな法力を持っていた。同じ天台宗の比叡山延暦寺は山門、この園城寺は寺門という。これは仲が悪かった。平家物語の中に頼豪のことが出ている。中宮賢子に皇子が生めれるように白河院が頼豪に祈祷を依頼した。恩賞は思いのままという。法験あらたか敦文親王が誕生した。頼豪は恩賞として三摩耶戒壇の建立勅許を願った。戒壇建立は山門寺門抗争の中心的問題だったのでそれだけは駄目だと許されなかった。怒り心頭に発した頼豪は食を絶って憤死した。生まれた親王は四歳で急死した。後日譚である。憤死した頼豪は鼠の群となって転生し、比叡山の経蔵に湧いて経典を食い荒らした。この話しは有名であった。江戸時代にも馬琴の頼豪阿闍梨怪鼠伝もある。これは史実ではない。敦文親王は頼豪の死ぬ七年前に疱瘡で死んでいる。京極堂が何故この話しを持ちだしたのかきいたので按摩の話しをする。不可解な顔をした。翌朝目を覚ますと京極堂はいなかった。

第二日目である。雪は止んでいた。妻たちはこれから観光に出るという。遅い朝食をとり、風呂に入り、服装を整えた。帳場から声がきこえた。鼠が出たという。夫婦で言い争っている。昼食を遅らせるよういうと、部屋の戻る。まったく所在ない。いつしか夕暮れとなった。突然声がきこえた。驚いて見ると鳥口だった。京極堂がどこにいるかきいた。事情をきいた。僧が宿で死んだという。雪の庭の真ん中で足跡がまったくない。いわば密室殺人だった。時間的経過を話す。鳥口らは一時半に宿に入った。死体発見が三時頃。大平台の警察が四時に到着という。鳥口は敦子と相談の上、宿を抜けだし。登山鉄道を使いここに来たという。今夕方七時だ。何かいい淀む鳥口に事情をきくと、誰かが榎木津を呼んだ。大混乱が予想されるので、京極堂あるいは関口に榎木津のお守り役を頼みに来たという。いったい誰が呼んだのかときくと、宿に長期滞在している久遠寺だという。関口はあらためて久遠寺医院の事件を思いだしていた。ただならぬ様子に気がついた鳥口がいうべきでなかったと関口に謝った。京極堂のところに行くというのを止めた。関口が同行することにした。

3

第二日目、箱根である。関口があとできいてまとめたものである。仙石楼で、国家警察神奈川県本部の捜査一課の山下徳一郎警部補が苛ついていた。現場に駆けつけてみると定年間近の警官、阿部巡査に迎えられた。所轄の刑事も野卑で粗暴な感じだ。仲居、番頭、古物商、外科医も話しが通じそうにない。通じそうな出版社の二人の女性もひとりは失神、もうひとりがそれを介抱していた。さらに困惑させたのが庭の中の死体であった。現場に立ち入りを躊躇する阿部と山下、阿部を擁護する久遠寺との間に悶着が生じた。今川が足跡がない現場をやんわりと注意した。やっと理解した山下は本部から来た益田刑事に鑑識に足跡をつけないで撮影するよう注意した。現場から一人いなくなっていることが判明した。山下は阿部を怒鳴りつけた。夜十時、寢ている飯窪を除いて全員からの事情聴取が終った。鑑識がいう。死体は死亡後に凍結、死因は後頭部の打撲、抵抗した様子はない。死亡推定時刻は解剖しないと不明だという。山下が飯窪の聴取に向う。布団に伏していた飯窪がいう。お坊さんが空中に浮かんでいた。昨夜便所に向う時、二階の廊下の窓から見たという。昨夜は旧館の二階、前庭が見えるところに泊っていたという。そこに二人の男が戻ってきたと阿部が知らせに来た。

仙石楼に到着した関口の話しである。七時半に富士見屋を出発し十時四十分に着いた。山下に玄関で詰問された時、敦子が出てきて小説家の関口である。今回の取材の協力を依頼していたととりつくろった。戻ってきた鳥口を呼んで奥に入った。関口は部屋に案内された。榎木津はまだ到着していない。しばらく休んでいると敦子が握り飯とお茶を持ってやって来た。つづいて久遠寺、今川が入ってきた。敦子から事件の概要をきくが、よくわからない。榎木津のことが出た。今川と話してみる。軍隊時代の上官だったとわかる。ふたりとも溜め息をつく。そこに明慧寺から和田慈行が到着したことが知らされた。また被害者は小坂了稔という僧であることもわかった。今川が待っていた人だった。僧を迎えるため階下の部屋に行く。山下が今川を呼んで隣室に入る。益田が関口に挨拶する。名前が知られている。ふたりが戻ってきて、疑いの晴れない今川との間にまた悶着が生じる。そこに声がした。和田である。隣室の安置された死体に一礼した後、入ってきた。連絡役の飯窪を探した。敦子が代わりに挨拶をした。取材をどうするかきいた。まるで何もなかったかのような振舞に山下が異議を唱えようとしたが、敦子に予定どおり明日午後二時から実施することを確認して立ち去った。すでに日付が変わっていた。

第三日目の朝、六時、死体が搬出されるのを見送った。敦子に飯窪を紹介された。警官の声がきこえた。内輪揉めらしい。山下がここの全員が犯人だといっている。そこに榎木津が登場した。傍若無人の挨拶があった。榎木津が久遠寺に何を解決すればよいのかきいた。不可解な僧の出現を解明してほしいと依頼した。ただちに了解した榎木津は飯窪のところに来た。手を取って二階に向った。廊下の窓を見て、これだといった。すると鳥口が窓に貼りついていた。榎木津がこのままいられないので僧は上に行かざるを得ない。次に前庭に移った。二階屋の屋根の上に鳥口がいた。そこから勾配を下って平屋の屋根に移った。山下が理解できないという。榎木津が僧はこの平屋の屋根に移るために、前庭にあるゴミ箱に登り、塀、その上の庇と移って、先ほどの窓に貼りついたという。益田の質問に答えて、夜中、飯窪が悩まされた音は鼠だという。屋根の上にいる鳥口が寒さに不平をいう。榎木津がそこから柏の枝に掴まれという。鳥口の姿が見えなくなったので、飯窪が最初に泊まった部屋に行く。榎木津が窓を開けて踊り場に出て、鳥口が浮いているところを見せる。久遠寺が柏は落葉樹だが葉をつけたまま越冬することが多い。そこに雪が積もりその上に乗っていれば浮いたように見えるという。大広間に移り、窓を開けて縁側に出る。そこから鳥口に降りろという。どさりという音とともに庭に鳥口が落ちた。榎木津は不可解な僧の出現の解明はこれで終わりだといった。山下が反論する。

夜、雪の中屋根に登り柏に移って座禅する、このような危険な行為をする動機がない。榎木津の説明は無意味だという。敦子が僧の死体が足跡を残さず中庭に出現することが可能だということを示したという意味で無駄ではなかった。しかし山下が問題にする動機が未解決のままだという。さらに了稔は死んでから落下した。落下するまでのどこかげ死んでいなければならない。了稔は死んだ状態で運ばれたという。今川が犯人は了稔を背負って屋根に登ったといいたいのかという。背負子のようなものを使えば可能だろう。了稔は座ったままで撲殺された。その姿勢で運ばれたという。益田があれは柏の枝の上に遺棄された死体だったという。山下はなおも納得できないが、他の刑事たちは納得したようだった。益田がまだわかった事実があるようだがときく。敦子が犯人または共犯者に僧形の人物がいるということだという。山下は刑事たちに声をかけ隣室に移った。捜査会議を開くようだ。午前九時だった。

大広間で朝食をとった。関口が榎木津にこれからどうするかきく。帰るという。関口も帰るというと敦子が取材協力といったからまだ付き合うよういわれる。久遠寺が榎木津に真犯人の発見を依頼する。とまどう一同に榎木津がしばらく躊躇していたが、やがて引き受けるという。どうも坊主が多すぎるという。関口が按摩の尾島の話しを思い出す。関口が益田の事情聴取を受ける。そこで尾島の話しをしたら大いに関心を示す。昼食後、やっと取材の許可が下りた。敦子、飯窪、鳥口、関口、今川に益田と所轄の菅原が同行して寺に向った。今川がこのまま何もわからないままでは気がすまないといって同行することとなった。

第三日目、明慧寺である。一行は三時前に着いた。惣門を潜り、三門に至る。三門からは回廊が仏殿につづいている。案内の僧がやって来る。すこし離れたところにある建物に案内された。待っていた慈行に飯窪が挨拶した。非協力的な慈行が捜査を焦る刑事たちと悶着を起す。寺の行事は監院である慈行が取り仕切る。綱紀は維那、最高責任者は貫首であるというと、益田が貫首に会わせてくれという。慈行が貫首の意向をきくという。取材について閉門が四時であるがどうするかと飯窪にきく。飯窪が滞在を許可してくれと頼む。困惑する慈行になおも頼む。そこに中島祐賢が入ってくる。

祐賢は話しはきいた。何故滞在を認めないないのかと慈行にいう。維那の祐賢には担当外のことと反論する。外来の客を追い返すようなことを懸念しているといいつつ、祐賢は僧のひとりである了稔が殺人事件に巻きこまれたことは僧の綱紀を司る維那としては重大な関わりがある。客の扱いは十分に慎重にという。慈行は取材の件は別のもの女性を宿泊させる用意がないというと、使っていない方丈はある。用意できるという。慈行はではこの件は祐賢に任せようという。若い僧が慈行に報告をする。慈行は貫首はすべてを祐賢にまかせるといわれたので、一同は祐賢に相談するようにいった。祐賢とともに外に出た。敦子が今後のことをきく。四時に閉門、そこから九時の間は取材、捜査ともに対応しかねる状況だ。宿泊は可能だ。その後、十時に消灯となる。明日はときく。起床は三時半、昼食の後、三十分ほどは対応が可能だという。飯窪は自分だけでも残る。敦子、鳥口も宿泊する。刑事たちも監視が必要だという。一同が宿泊することとなった。祐賢が若い僧、英生に内律殿に案内するよういう。さらに離れた方丈に向った。英生がここは昨年夏まで知事のひとりが使用していたという。益田が知事のことをきく。

知事は禅寺の庶務を分担する僧のこと。監院(かんいん)、維那(いの)、典座(てんぞ)、直歳(しっすい)を置いている。監院が慈行、維那が祐賢、直歳が亡くなった了稔であるという。中に入る。英生が一同にお茶を持ってくる。入山以来客を迎えたことながないので不調法は宥恕してほしいという。菅原が参詣の人はときく。当山には檀家はない。今川が仙石楼で戦前は檀家があったといっていたがときく。戦前のことはわからないという。益田がどのように寺の経営が行なわれているのか不審の感を持つ。関口が昨年十二月事件で関わった逗子の寺のことを思い出した。檀家を持たず、まともな寺ではなかった。ここ明慧寺も謎の寺だと思った。菅原が英生の年齢をきく。十八という。了稔の口利きで昭和二十四年入山した。以来、入山者はないという。飯窪が座禅を壁を向いてするのかどうかたずねている時、祐賢が戻ってきて、答える。色々であるという。飯窪が当山の宗派を知りたいと質問したと察していう。禅宗には、臨済宗、日本黄檗宗、曹洞宗がある。臨済宗、日本黄檗宗は壁を背にして、曹洞宗は壁に向って座禅する。宗派といえば、臨済宗、日本黄檗宗、曹洞宗、その中に十四の派がある。当山はこのどれにもつながるものでないという。当山は禅宗ではないといって、達磨、道元の言葉を引き説明する。関口にはよくわからなかったが、当山が何宗かを詮索するのは無意味だといいたいと理解した。また僧がやって来た。

典座の桑田常信という。三十分ほど、ふたりが質問に答える。その後僧を付けるので捜査、取材に出向いてほしい。ただし僧個人については九時以降と指示された。益田、菅原が質問する。慈行が総務人事担当、祐賢が風紀教育担当、常信が賄い担当、了稔が建設担当である。これらは寺の幹部といえる。幹部は五名、その上に貫首の覚丹禅師がいる。雲水は三十人、合計三十六人となるという。了稔は昭和三年入山、覚丹と同年という。了稔はもとからあの位置だった。俗人である。禅匠ではない。寺の金を横領している。常信の過激な発言を祐賢がたしなめる。夕食の後、英生が取材に同行し常信のお付き、托雄が刑事に同行することとなった。ふたりが立ち去る。しばらくの間、一同が呆然とする。敦子が飯窪にどのようにしてこの寺を知ったかきく。いくつかの寺に当たっているところできいたのと、自分自身もその存在を知っていたという。益田が不審顔の敦子にきく。明治政府は無檀家の寺の廃寺を命令している。かって仙石楼に檀家が宿泊したことがあると今川がいうと、本山でもどこかの末寺でもない独立寺院であるのに宿泊をするような檀家がいるのはおかしい。相当古い寺であること、しかも箱根というひらかれた場所に所在すること。これだけの条件を持って京極堂も知らない無名の寺であるというのはあり得ないほど珍らしいという。関口はこの説明に納得したが、この寺の存在感にむしろ自分たちのほうが異物であると感じた。食事を終えて九時にここ内律殿に戻ることで一同は別行動となった。

関口と今川は内律殿に残った。しばし呆然としていると、唄がきこえた。驚いて外に飛びだすと木陰に振袖の娘がいた。

取材記事の抜粋............午前三時半、振鈴の音とともに僧たちの一日がはじまる。振鈴役の僧が、法堂(はつどう)から方丈(禅師の起居する所)、旦過寮(新参の僧の寮舎)、知客寮(接賓の施設)と境内を一巡する。.... 午前四時に開門 .... 貫首出頭の鐘に合わせ、禅師が本堂に入場、朝課(朝のお勤め)がはじまる。.... 大般若波羅蜜多経の転読がはじまる。.... 朝課がすむと僧はそれぞれの公務につく。.... 粥座(朝食)がはじまる。食事が終わると、いよいよ座禅がはじまる。....

4

第三日目、仙石楼である。後からきいて関口がまとめた話しである。現場検証は午後四時終了、意見交換は八時に終了した。榎木津がいったように死体を遺棄したことが裏づけられた。山下が動機を必死になって考えたがまったく思い当たらなかった。菅原が帰ってきた。午後十一時四十分だった。帰還の遅いのに文句いったが菅原が事情を説明した。捜査には寺は非協力的である。小坂了稔についていう。月に一度下山する。女を囲っているという噂もある。了稔は貫首とともに古参だが、九十になる大西泰全が最古参である。常信、慈行とは反発しあっているが泰全とはうまがあう。祐賢は理解者である。戦後の若い僧は了稔が連れてきたこともあり慕われているという。了稔の足取りである。失踪が発覚したのが五日前、死体発見の四日前である。五日前の朝課では目撃されている。朝五時である。了稔の方丈は雪窓殿である。朝食を持っていったときにはいなかった。五時半である。ところが夜九時頃、常信の方丈である覚証殿から出てくるところを托雄に目撃されているという。托雄は常信のお付きである。常信は夜の座禅をしていたという。夜目にそれらしい僧がいたという以上はいえないという。犯人の話しとなる。

菅原は了稔は金が動かせる財務に係りが深かった。事業にも手を染めていた。明慧寺は檀家がない。何らかの金蔓を持っているはず。了稔の不正を糾弾しようとする側と寺の怪しげな金蔓を暴露しようとする了稔の対立が深まり、ついに殺人に至ると推理する。菅原が寺ぐるみの犯行であるという。山下はそれに不審を抱きながら別の考えはない。尾島の証言を紹介する。死体発見四日前の夜十時のことである。菅原が九時に目撃された了稔が奥湯本で証言の時間に発見されるのは不可能という。寺の目撃証言が偽証だと考える。そこで犯人を推理する。常信と托雄が偽証した。それは犯人であるから。山下は自分の推理に満足し、菅原にも説明した。しかし柏の木の上に死体を遺棄したのかは説明できない。大筋で正しいがここの説明ができないと思った。菅原が僧たちの役割、入山時期、年齢を報告する。

貫首 円覚丹禅師 昭和三年入山 六十八歳
監院 和田慈行 昭和十三年入山 二十八歳
維那 中島祐賢 昭和十年入山 五十六歳
典座 桑田常信 昭和十年入山 四十八歳
老師 大西泰全 大正十五年入山 八十八歳

戦前に入山が十四人、戦後は十五人、それに杉山哲童、二十九歳、誕生時から寺にいた。大男で少し知能が遅れている。寺の近くで、老人と女の子とともに住んでいるという。話しはそれで終わった。

第四日目、十時、所轄で捜査会議が開かれた。死亡推定時刻は死体発見四日前の夜から翌朝だった。会議で山下が明慧寺に乗りこむこととなった。いったん仙石楼に立ち寄った。午後二時だった。久遠寺と榎木津が碁を打っていた。山下の耳にふたりの会話の声が届いた。寺に乗りこむらしい。榎木津と山下の間に悶着が生じた。菅原が制止した。ふたりは明慧寺に向った。山の中を進むと背後に音がした。成長しない少女だった。帰れといった。山下が少女の後を追っていると雪塗れの男が転げ落ちた。益田だった。明慧寺でまた殺人事件が発生したといった。

第四日目、明慧寺である。敦子が原稿と格闘している。関口の回想である。取材の一同は早朝三時半から僧たちの生活を追った。取材が終了したのは正午だった。昼食後、関口、鳥口、益田は完全に疲れはててしまった。今川が早朝の取材には同行しなかった。昨晩九時に戻る。菅原と益田が僧たちの事情聴取を次々と行った。終了後菅原は下山した。内律殿の一同に泰全が面会したいと伝えてきた。一同が理致殿に向った。泰全は気さくな人柄だった。了稔殺害の状況についてきいた。益田が説明すると、庭前柏樹という。また仙石楼も大変だというので、敦子が知っているのかときく。然り。あの庭は自分の師匠が造ったという。怪訝な顔をした敦子にたいし、泰全の師匠は京都のさる臨済古刹の住職だ。明慧寺に来る予定だったが、その直前に死亡し、泰全が代りに来たという。それまでここは無人だった。誰にも知られず建っていたのを師匠が発見したという。今川がこれほどの大伽藍がありながら、無人だったのかときく。然り。泰全が最初に入ったという。妙な寺だと思っただろう。ここには何も記録が残っていない。見つかった時にずいぶん調べたがわからなかったという。仙石楼について話す。

現代の主人は五代稲葉治平という。初代は仙石原生れ、小田原の商家に売られた。成功して江戸日本橋に料亭を構えた。小田原の商家が小田原藩大久保家とつながりがあったらしい、その援助のもとにここに仙石楼を建てた。その収益を生まれ故郷に還元するつもりだった。大平台には温泉がない。仙石楼のある場所には自家用になる程度の温泉が湧いている。秘密の高級湯治場として建てられたという。明治時代になって小田原藩との関係はなくなったが、顧客はいた。一層の確保のため、新館が増築され、庭園が増築されることとなった。明治二十八年師匠が招かれた。師匠は柏を見て、それを活かした造園を構想した。そのため、石が必要となったので山に入った。明慧寺を発見したときは大いに驚いたという。記録は発見されず、その由緒はわからなかった。師匠はこの寺に取り憑かれた。何度も訪問した。泰全もお供したという。そして掛物が出てきた。それが十牛図である。仙石楼に寄贈した。これは禅の古典、禅の修行の過程を牛を捜すのになぞらえたものだ。さらに話しがつづく。

明治時代は本山、末寺の統制でもめ、廃仏毀釈で廃寺が生まれた時代だった。曹洞宗は永平寺、総持寺の両本山、永平寺上位とすぐ定まったが、臨済宗は大変だった。この寺がどの宗派かは重大な影響があるかもしれない。師匠はこの調査をしていたらしい。それが他に知られておおごとになったという。益田がどうしてかとくきく。禅宗の歴史の話しとなる。禅宗が日本に入って曹洞宗と臨済宗に分れた。江戸時代、黄檗宗が入ってきた。これは臨済宗に入っていた。ところが、元々の中国までたどると、臨済宗は臨済義玄を祖とする。分れて黄龍派とその他、楊岐派となる。栄西は黄龍派であり、黄檗宗の隠元は楊岐派である。ところが隠元がいた黄檗山万福寺は臨済義玄の師匠に当たる黄檗希運につながる。そこで黄檗宗は日本黄檗宗として独立する。この寺の由緒は禅宗上層部の重大関心事となった。それぞれ思惑があったから秘密にしていた。そのうちさる企業が観光開発を目論み土地を買いとった。禅宗上層部が持ち主に秘密にこの寺の保存を頼んだ。交渉は長引いた。ところが土地の値が下がり処分できなくなった。皆が問題を忘れていた頃、関東大震災が起きた。この辺にも山崩れの被害があったが買手が見つかり、土地は新たな持ち主に移った。その時、師匠がここに入ることとなったが、不幸にして亡くなった。そこで泰全が代りに入ったという。敦子が寺の経営についてきく。

各宗派からの援助金と托鉢という。僧も各宗派から来ている。祐賢と常信は曹洞宗、泰全と慈行は臨済宗である。皆は調査のために派遣された。援助も元来は調査費用だった。泰全は大きな溜め息をついていう。ここはそういう場所ではなかった。所期の目的を忘れ、ただここにいる。誰もここから出られなくなった。最初、泰全と雲水が三人いた。二年後に慈行と覚丹が来た。慈行は次々僧を連れてきた。学者も来た。調べもした。しかしわからなかったという。今ならわかるかもしれない。それは今回の大学の調査を受け入れた理由でもある。援助金は来るが上層部はこの寺のことは忘れている。知ってもらうよい機会かもしれない。敦子は大学に積極的に調査を依頼してはどうかときくと、教団側は秘密にしておきたい思惑がある。援助金を貰っているので無理押しはできない。多数の教団に関係するなど言い訳がましい口振りである。泰全は諦めたように自分たちはここの暮らしに慣れてもうどうでもよくなったという。そうわいってもこのような機会が与えられれば利用しようという気持になったという。飯窪がそれで引き受けていただいたのかというと、それだけではない。常信がいっていたが今度の法律、文化財保護法によって重要文化財などの指定が受けられるのではないかという期待があったという。益田がさらにきくと、了稔、常信が賛成、常信が祐賢を説得、覚丹がこれを許すという態度だったという。敦子、飯窪はあらためて複雑な内情を知る。泰全が飯窪にどこでこの寺を知ったのかきく。

飯窪のいう寺名をきき、了稔が手を回して話しが来るよう誘導したかもしれないという。了稔は現状に飽き足なかったので世間に曝そうとしたという。益田がここぞとばかりに了稔の人柄をたずねる。面白い坊主だった。何かにつけて反発する。鎌倉のさる立派な寺の僧だったが上に疎まれてここに派遣されたらしい。捻くれていたのかと益田。否。禅の修行は自分の頭で考える。師匠がいった。仏がいったでははじまらない。まず修行は否定することからはじまる。よくわからないととまどう益田の発言をきっかけに泰全の壮大な説話がはじまる。臨済の修行の話しである。黄檗の門下で三年修行し、首座が師匠のところにいって問答するようすすめた。そこで仏法の根本義とは何かときいたところ黄檗に棒でぶたれた。戻るとまた行けという。またぶたれる。都合三回行って三回ぶたれた。臨済は暇願いを出した。首座は黄檗の兄弟子の大愚のところに行けといわれた。大愚は臨済に黄檗がどのような教え方をしたのかきいた。その詳細を話し、教えを乞うた。大愚は黄檗がそこまで丁寧に教えているのにまだわからないのかと叱りつけた。そこで臨済はっと悟った。そこで大愚がお前に何がわかったのかといって、臨済を押えつけた。臨済は悟っていたので大愚の脇腹を拳で三度突き上げた。臨済はこう悟ったと答えたのだ。すると大愚はお前の師匠は黄檗だから、そんなことは知らん。帰れといった。帰って黄檗に報告した。怒った黄檗は大愚を棒でぶつといった。それをきいた臨済はその必要はないといって、黄檗を棒で殴ったという。これを臨済打爺の拳という。益田がいう。

これは暴力事件となる。臨済は三度殴られた仕返しに殴り返した。動機は仕返しである。悟ったのは大愚のお蔭である。黄檗は役に立っていないという。泰全は悟ったのは誰のお蔭でもない自分で悟ったから仕返しなどという動機はない。理解できない益田に、臨済大悟のくだりに一切の説明は不要である。言葉を越え意味を越えたところでつながっているという。益田が了稔の殺害の動機も大悟の中にあるようなつながりかときく。さらに事件の解明には動機の解明が不可欠だという。関口が京極堂が動機は後付けで作りあげるものといっていたのを思い出す。益田が禅僧固有の動機があるのでないかときくが、ないという。修行ではずいぶ奇矯な行為もあり得るがそれを殺人に関連づけるのは困る。禅僧だから殺し、禅僧だから殺されるというようなものがある。そんな予断を持たないでほしいという。そこで益田が寺内での僧の行動が問題となるという。

敦子が祐賢が了念を一休にたとえたが、どうかときく。似ている。外に女を囲っているとの噂もあったが、了念は外との連絡係だったから、可能性はあるが、そんな事実はないという。了念は外に出て各宗派との連絡を取り、金を持ってくる役目だった。ずっとそうだった。ここには郵便が屆かない。それは大平台に了念が借りた部屋に屆く。それを了念が寺に屆けていた。往復にひと月以上かかる。今川の場合は私信だ。了念個人が返信を書くので早くできるという。泰全が今川にどんな返事をもらったかきく。渡された返信を読んで、神品とは何か怪訝な顔をする。今川が了稔と一度も顔を会わせることもなかった。このままでは後味が悪い。先代の古物商とのやりとりをきかせてほしいという。泰全が昭和十年頃に懇意の古物商がいることをきいた。その時は祐賢や常信が来た。中弛みとなっていた調査の梃入れとなった。仏具、書画骨董、仏像が発見された。了稔がそれを処分した。いい値で売れたという。常信が反対したようだが了稔はその頃、監院だったから反対しきれなかった。しかしそれで私腹を肥やしたのではない。美術品骨董の類は禅寺に無用だという宗教的信念に基くものだという。今川が破墨、溌墨、頂相(ちんそう)、書、石庭、漢詩、茶道と禅からはじまるもの。どうして無用となるのかときく。泰全はそのつながりの深さを認めるが、美を求める芸術は芸術家とそれを評価する社会がある。絶対の美といって誰からも理解されないものを美といっても芸術は成り立たない。ところが禅僧が作るものは絶対的な主観である。それを社会がどう評価するかはまったく無関係である。今川がそれを理解しようとすると、泰全が、もう解っている。言葉にすると逃げてゆくという。今川が礼をいう。

だから了稔は売ったという。敦子が一休は禅の芸術的展開、様式化を嫌っていたという。然り。また公案も嫌っていた。了稔も同じように嫌っていた。議論に追いていけない益田のため公案の説明が入る。長い間に公案は言葉の遊びのようになっていったという。益田が書画骨董などを売却した利益はどうなったのかときく。寺のために使ったという。常信が横領したといっているというと、馬鹿らしいという。さらに事業に手を出していたというと、それは箱根の環境保全の団体に関するものという。了稔の人柄をきいて、殺害の動機が見当たらないと益田がいう。また死体遺棄の動機は到底見つかりそうにないという。泰全が了稔が何を売ろうとしたのか心当たりがないかと今川にきく。敦子が了稔は今川と会う約束の日に殺害されたようだ。その頃に何か変化はなかったかと泰全にきく。失踪の前日に泰全を訪れて豁然大悟したといったという。飯窪が目撃した僧の話しから、了稔の死体を発見した日であるが敦子らが大平台から仙石楼に向う時に出会った僧を思い出す。それは明慧寺を訪れたのではないかという。泰全が鎌倉から来たようだが詳細は知客にきけという。飯窪が鎌倉から来たといのに反応を示した。関口が見た黒衣の僧が同一人物ではないかと思った。関口が成長しない少女のことをきくと、鈴のことという。飯窪がそれに大きく反応した。この寺の裏に住んでいる仁秀という老人のところの娘だという。この寺が発見される以前から住んでいたらしい。仁秀は哲童、鈴とともに住んでいる。哲童の話しとなる。自分がここに入った頃からいたらしい。いつの間にかこの寺に出入りするようになった。言葉は不自由だが勤勉に作務をする。公案も一生懸命に考えているという。飯窪が鈴のことをきく。何歳か、十二、三である。まだききたいようだった。蝋燭の灯りが消える。呼ぶ声に答えて手燭を持った哲童が現われる。シケツとは何かときく。会見はこれで終った。第四日目となった。今川が泰全にききたいことがあるといった。最後に部屋を出る関口がこの旨の伝言を受けた。理致殿を出て内律殿に戻った。午前一時を過ぎていた。今川が十分ほどして戻った。何やかやしているうちにすぐ朝となった。早朝の取材についてはあらかじめ撮影場所、段取りを決めていたらしい。敦子、飯窪、鳥口は機敏に動いた。関口、益田はそれに追いてゆくだけだった。

そして冒頭に戻る。敦子がうまく書けないといって背伸びをした。話しをもう一度ききたいと泰全のところに行こうとする。益田も行きたいという。飯窪と今川は外出していた。鳥口は熟睡していた。さんにんが外に出た。敦子が今朝泰全を見なかったという。益田に確かめていると、横の回廊を数人の僧が駆け抜けていった。慈行が益田に便所に来るよういった。そこには今川、飯窪、祐賢、常信がいた。廊下に木戸が並んでいる。一番奥の扉の陰から慈行が出てきた。木の雪隠のなから脚が二本出ていた。泰全の死体だった。益田がすぐ応援を求めて下山した。

消防団生活三十六年の思い出 .... 箱根消防団底倉分団の堀越牧蔵が昭和十五年正月三日の火災で五人が死亡した事件の思い出を記したもの。

(つづく、あと二回で完結する)

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